工藤一記

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工藤一記

工藤 一記(くどう かずき、嘉永6年7月3日[1]1853年8月7日) - 昭和10年(1935年5月6日[2])は、日本宮内官僚教育者宮中顧問官

経歴[編集]

藩士飯倉九郎太の三男として生まれ、工藤祐寿の養子となった。1873年(明治6年)、大阪師範学校を卒業。1876年(明治9年)より華族学校の設立準備に関わり、翌年の成立とともに教師兼主事を務めた。さらに1884年(明治17年)からは華族女学校の設立準備にあたった。1885年(明治18年)、華族学校が宮内省所管の学習院となるとともに、学習院・華族女学校の教授・幹事を務めた。

1902年(明治35年)、宮内省文事秘書官に転じ、爵位局御用掛を兼ねた。帝室会計局主事・審査官を経て、宮内事務官として宗秩寮に勤務した。1918年大正7年)、宮中顧問官に任じられた。その他に山階宮賀陽宮宮務監督を務めた。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤巌編『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年、p.77
  2. ^ 『官報』第2501号、昭和10年5月8日。
  3. ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1918年7月11日。

参考文献[編集]

  • 落合町誌刊行会編『落合町誌』落合町誌刊行会、1932年。