岡松径
岡松 徑(おかまつ かい、1850年 (嘉永3年)3月11日 - 1916年 (大正5年)2月21日)は、旗本出身の太政官統計院属僚の統計学者、慶應義塾大学統計学教授、陸軍省・大日本帝国陸軍教授。勲四等瑞宝章。杉亨二、呉文聡と並んで「日本近代統計学の先駆け」の一人として知られる。
経歴
[編集]嘉永3年(1850年)江戸にて出生。安政6年(1859年)に佐渡奉行、西丸留守居役を務めた徒頭の旗本岡松久徴(伊予守)の子として生まれる。祖父の岡松久稠も佐渡奉行を務めている。
江戸の各私塾でドイツ語等を修学した後、明治9年(1876年)に太政官に出仕し、正院政表課に入局。権大書記官の呉文聡、杉亨二、世良太一、宇川盛三郎、鈴木敬治、寺田勇吉、小川為次郎と同僚になり、『日本政表』の編集に参加。1879年(明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施。政表課は1881年(明治14年)に太政官統計院と改称されるが、多くの慶應義塾出身官吏が辞職した明治十四年の政変の後も、岡松は同院廃止まで勤める。
1883年(明治16年)杉亨二らとともに「共立統計学校」を設立。1886年(明治19年)農商務省属となり、山林局に勤務。傍ら、陸軍省嘱託も兼ね、「陸吏学舎」(後の陸軍経理学校)で統計学を講義する。次いで、校長・鳥尾小弥太の下に大日本帝国陸軍教授を嘱託される。(教授陣は、杉亨二、高橋二郎、寺田勇吉、岡松の4名)。
1895年(明治28年)に慶應義塾大学部で、お雇い外国人のパウル・マイエット(Mayet Paul)に次いで呉文聡と統計学講師に就任。以後は杉らと共に「東京統計協会」や「統計学社」の編集主幹等を務め、内閣統計局に嘱託した。1916年2月、厳冬の長野県で統計講習会講師を務めたが、帰京後まもなく同月21日に死去した。戒名は松壽院殿功譽博愛径善居士。墓所は四谷の法蔵寺。
栄典
[編集]統計学の訳語
[編集]穂積陳重によれば、「スタチスチックス」の訳名が「統計学」と定まるまでには多少の沿革があり、岡松は神田孝平の後を継いで、「統計」及び「統計学」の訳名の考証に、下出牟吉と共に参画した[2]。
著書
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 安藤洋美「我が国における明治期の確率・統計の教育について (数学史の研究)」『数理解析研究所講究録』第1130巻、京都大学数理解析研究所、2000年2月、174-188頁、CRID 1050001202061996032、hdl:2433/63671、ISSN 1880-2818。
参考文献
[編集]- 岡松 径 Bibliographical Database of Keio Economists