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山田文七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田文七家
情報
構造形式 木造
階数 つし2階
竣工 1881年(明治14年)
所在地 492-8219
愛知県稲沢市稲葉3丁目15-3
座標 北緯35度15分11.6秒 東経136度47分32.6秒 / 北緯35.253222度 東経136.792389度 / 35.253222; 136.792389 (山田文七家)座標: 北緯35度15分11.6秒 東経136度47分32.6秒 / 北緯35.253222度 東経136.792389度 / 35.253222; 136.792389 (山田文七家)
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山田 文七(やまだ ぶんしち)は、愛知県稲沢市名跡

歴史

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山田文七家は美濃路稲葉宿にある。稲葉宿で名跡となっている家には、山田市三郎家、山田文七家、山田藤吉家があり、明治時代から昭和時代まで当主は代々名跡を襲名した[1][2]。山田文七家のはす向かいには山田市三郎家があり、江戸時代の山田市三郎家は尾張藩の為替御用達(大名貸)を勤めていた[3][4]

6代目山田文七

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明治期の山田文七は、株式会社稲沢銀行(→東海銀行三菱UFJ銀行)、稲沢電気株式会社(後の稲沢電灯株式会社東邦電力中部電力)、稲沢織布の創業者に名を連ねた[5]。山田文七家は1881年(明治14年)に建てられたとされ、屋根瓦には「山文」の屋号が刻まれている[6]

7代目山田文七

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1897年(明治30年)11月20日、岐阜県稲葉郡北長森村水海道1554(現・岐阜市水海道)に、後の7代目山田文七が生まれた[7]岐阜市立岐阜商業学校を卒業後、22歳の時に6代目山田文七の婿養子となり、山田文七邸に開設された村瀬銀行の幹部を務めると、1940年(昭和15年)8月には稲沢町会議員に就任した[7]

1947年(昭和22年)4月5日の第1回統一地方選挙において、7代目山田文七は稲沢町長に就任した[8]。1947年(昭和22年)12月には稲沢町に診療所を開設し、1948年(昭和23年)8月25日には稲沢町国民健康組合稲沢病院(現・稲沢市民病院)を開設した[7]。1949年(昭和24年)2月22日、病気のために稲沢町長を退任した[7]。1959年(昭和34年)9月14日に61歳で死去した[7]。墓所は宝光寺[7]

脚注

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  1. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1991, pp. 115, 186.
  2. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1986, p. 191.
  3. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1991, p. 116.
  4. ^ 東海銀行行史編纂委員会 編『東海銀行史』東海銀行、1961年。全国書誌番号:77100097 
  5. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1991, pp. 115, 178, 185, 191.
  6. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1978, pp. 209–212.
  7. ^ a b c d e f 稲沢市誌編纂委員会『郷土の人物誌』稲沢市教育委員会、1984年、p.12
  8. ^ 新修稲沢市史編纂会事務局 1991, p. 362.

参考文献

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  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編 上』稲沢市、1990年。全国書誌番号:91034784 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編 下』稲沢市、1991年。全国書誌番号:91037610 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 研究編1 建造物』稲沢市、1978年。全国書誌番号:79006024 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 資料編15 近現代2』稲沢市、1986年。全国書誌番号:86027993 

外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、山田文七家に関するカテゴリがあります。