小栗順三

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小栗 順三(おぐり じゅんぞう)は、20世紀におもにメキシコで活動した、日系人実業家作庭師である。 別名マリオ・オグリ(Mario Oguri)。

略年譜[編集]

  • 1930年代 - 帝国ホテルのボーイとなる。支配人の犬丸徹三の下で働く。
  • 1938年、3月 - スウェーデン出身の富豪アクセル・ヴェナー=グレンの使用人となる[1]。ヴェナー=グレン所有のヨットに乗り、横浜を出帆。この時、19歳[2]
  • 1939年 - バハマのヴェナー=グレン邸でガーデニングの修行をする。
  • 1941年 - ヴェナー=グレンに随行してメキシコに移る。
  • 1940年代 - ヴェナー=グレンがモレロス州クエルナバカに設立した観葉植物園「ハルディンコルテス(Jardin Cortes)」の支配人になる。
  • 1953年
  • 1953年頃 - 1959年 - アメリカの富豪バーバラ・ハットンがクエルナバカ近郊ヒウテペックに造営した別荘「スミヤ(角屋)」の日本庭園を設計する。枯山水庭園は龍安寺のそれを参考にしている。バーバラ・ハットンは細部にまで要求を出し、小栗に日本の7ヶ所から庭石を取り寄せさせた。
  • 1956年、12月 - モレロス州の物産共進会に日本庭園を出展する[5]
  • 1958年、11月 - 小木曽貞義をメキシコに呼び寄せる[6]。以後、作庭活動は小木曽と共同で行うことが多くなる。
  • 1966年頃 - メキシコの富豪マヌレス・スアレスに岡本太郎の作品を紹介する。これをきっかけに、スアレスは岡本に壁画「明日の神話」の製作を依頼した[7]
  • 1967年頃 - 岡本太郎から「明日の神話」の下絵を受け取る。「下絵3号」と呼ばれているもので、小栗の没後の1999年に小栗の自宅に保管されていたことが判明した。下絵はふじ子夫人と岡本敏子の連名で名古屋市美術館に寄贈された。
  • 1976年 - 「順三の世界旅行記」を発表する[8]

脚注[編集]

  1. ^ 「ホテルと共に七十年」犬丸徹三、1964年、展望社
  2. ^ 「豪華ヨットで四邦人」読売新聞1938年3月12日朝刊7面
  3. ^ 「世界的事業家に 小栗氏隨伴 活躍の諸国巡訪 先遇クエルナバカ市の花園主小栗順三氏は世界的知名の大事業家スウェーデン国人のウァーナグレン氏に隨伴.自家用機にて北米マイアミ近いバハマ群島(ウァーナ・グレン氏所有の遊覽島あり)に向けて出発した 小栗氏は永年に渉り同氏の公私の仕事にたづさわり、氏の絶大の信用を得ているが、最近ウァーナ・グレン氏の計画の世界最超特急小型電気機関車が完成して世界の注目をひき、該事業の要件を帯びて氏に隨行したものらしく、バハマ島よりキューバ、プエルト・リコ、ハマイ力諸島等を経てブラジルに飛行 中南米諸国を訪問して二月中旬に帰墨の予定 尚ほ今回の旅行は近々視察の使命を受けて東洋方面に派遣される下準備と成るものでは無いかと見られて居る 小栗氏は若年に不拘、活動家で義俠的性格と敏腕はその特異な存在と共に邦人間にも非常な好意と関心が持たれ、その前途に多大の期待が懸けられてゐる」日墨新聞1953年2月12日3面
  4. ^ 「鮎川義介関係文書(MF)(寄託)目録」 (PDF) の「441.1:東京モノレール株主会社1」国立国会図書館憲政資料室
  5. ^ 「クエルナバカ市物産共進会 日本庭園と味の素 クエルナバカ市では去る十六日よりモレロス州物産共進会が開催されて居り、ハルディン・コルテスより参加した”日本庭園”が人気を博して居り、一位入賞するらしいとの噂」日墨新聞1957年1月1日2面
  6. ^ 「呼寄 小木曽貞義君(岐阜県人農学士)は小栗順三氏の呼寄せで去る七日カナデアン機にて来墨」日墨新聞1958年11月13日3面
  7. ^ 「「明日の神話」完成への道展 岡本太郎・誇らかなメッセージ」川崎市岡本太郎美術館、2005年
  8. ^ 「日系移民関連資料目録 和図書」 (PDF) の「移(三)-214:順三の世界旅行記」国立国会図書館憲政資料室