小坂雄長

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小坂 雄長(おさか おなが、天正4年(1576年) - 寛永13年8月29日1636年9月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将旗本柏井城主の小坂雄吉の子。通称は助六郎、孫九郎。兄に小坂助六郎雄善(『武功夜話』のみ)、姉に於奈(山口重政室)、弟に小坂一長肥後藩士)、山口吉長(旗本小坂家の祖)。子に小坂雄忠小坂雄綱

概要[編集]

織田信雄に仕え、そのを戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。

戦後は松平忠吉に仕えたが忠吉が若くして没し、その後は福島正則の下に身を寄せたり、各地を流浪したりしていたが、姉の夫である山口重政が雄長のことを酒井忠世に上申し、寛永10年(1633年)に1000石の旗本として取り立てられた。

寛永13年(1636年)、上野国草津において61歳で死去。法名は宗最。

関連項目[編集]

参考文献[編集]