寒河江光俊

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寒河江 光俊
時代 戦国時代末期
江戸時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 寒河江外記
墓所 不明
主君 寒河江高基最上義光
山形藩
氏族 寒河江氏
特記
事項
寒河江肥前の一族
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寒河江 光俊(さがえ あきとし:別名 寒河江 外記、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代の武将。寒河江高基に仕えていたが、主家滅亡後最上義光に仕えた。

生涯[編集]

寒河江氏の一族で寒河江高基に仕えた。寒河江氏天正12年(1584年最上義光の攻撃により滅ぶと最上家に仕えた。天正17年(1589年徳川家康が義光に上洛を促すと、鷹三羽を贈り取り成しを願う使者となった。天正18年(1590年)義光は5月に亡くなった父義守の葬儀の為小田原征伐に遅参するが、前年からの交渉の甲斐もあり所領を安堵された。同年最上家は奥州仕置(出羽内陸方面)軍の先鋒となり、光俊も出羽検地に伴う仙北一揆の平定に功があった。 慶長5年(1600年慶長出羽合戦では簗沢楯山形県山辺町)を守るが、義光の命により上杉軍の到着前に撤退した。 また、由利十二頭の平定に功績があったという。

寒河江城主について[編集]

『西村山郡史』によれば天正12年6月、寒河江外記光俊をして寒河江城を守らしむ、との記載があるが、記述の根拠は示されていない[1]。寒河江城は寒河江氏滅亡後最上義光の直轄領であったが、文禄年間最上義康の所領となり、慶長出羽合戦を経て慶長7年(1602年)頃から最上家親の所領となった。慶長14年(1609年)頃家親が山形城に移ると、「最上義光分限帳」[2]にあるように寒河江肥前守広俊が二万七千石で領したが、慶長19年(1614年)最上義光が没すると寒河江肥前が殉死したため、再び最上氏蔵入り地になったという。分限帳作成時に光俊が既に没していたか、城代として寒河江城を治めた可能性が高い。

寒河江肥前との関係について[編集]

『ふるさと寒河江の歴史』によれば「山形城絵図」の西南三の丸稲荷口に寒河江新次郎の大きな屋敷地があり、家臣団の中では最も広く、寒河江肥前・寒河江新次郎・寒河江外記光俊が同一人物であるという説を記載している。

脚注[編集]

  1. ^ 『ふるさと寒河江の歴史』p.91
  2. ^ 『大日本史料』第12編47冊304頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]