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孫軟児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孫 軟児 そん なんじ
拼音 Sūn Ruǎnér
幼名 軟児
趙雲
備考 民間伝承上の妻
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孫 軟児(そん なんじ、拼音: Sūn Ruǎnér、簡体字: 孙 软儿)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍・趙雲の架空の妻。軟児の名は幼名とし、孫氏と呼ぶものもある[1]。『三国志』、『三国志演義』には登場しない。

以下の趙雲の死にまつわる中国民間伝承にて確認される。

趙雲の死と妻の刺繍針

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大まかなあらすじは、「戦場で一度も負けなかった趙雲の身体には傷一つなかった。そこで妻(孫軟児)が戯れで(刺繍)針で傷をつけたところ、血が止まらなくなり趙雲は死んでしまった」といった内容である。この伝承には地方で似通ったパターンが存在するが、趙雲の墓があるとされる大邑県と趙雲の故郷である正定県の物語では妻の名前はない。1980年代頃に収集されている[注 1]

四川省大邑県版

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三国時代の有名な将軍、趙子龍は大邑県の東門の外にある錦屏山のふもとに埋葬された。
趙子龍は生涯で数百回戦ったが、一度も負けたり怪我をしたことはなかった。
ある日、子龍と妻は楽しくおしゃべりをした。子龍は「自分の身体には刀や槍、矢の傷跡や、針先ほどの小さな傷跡さえもない」と言った。妻はその話を楽しく聴いていたが、完全には信じられなかった。そんな妻に、「信じられないなら調べてもいいよ」と、子龍は衣服を解き始め、妻に身体を見せようとした。彼があまりに真剣なので、妻は「お歳なんだから、服なんて脱いだら風邪をひきますよ!」と慌てて諭した。

その夜。妻は子龍の言葉を思い出し、彼の体に本当に傷がないのかを見てみたくなった。子龍が眠りにつくのを待ってから彼女は燈を持ち、手、脚、身体のすみずみまで注意深く観察したが、彼の身体には針の先ほどの傷さえ見つけることができなかった。
彼女は幸せな気持ちになり、明日、子龍をからかってやろうと思い、子龍のおへその横に針を少し突き刺して、さらに口紅を塗った。

翌日。妻が目を覚ますと、子龍がまだぐっすり眠っているのを見て、起きるよう何度も呼んだが起きてこなかった。彼女は布団を開けて子龍に呼びかけても反応がないので、屈み込んで様子を見た。すると、彼女はあまりの恐怖に叫び、その場で気絶した。子龍の腰からは大量の血だまりが流れ出し、全身は冷え、硬直して死んでいたのだった。

趙子龍はなぜ針で刺されただけで死んでしまったのか。それは趙子龍は天から地上に降り立った『燈籠星』だからだ。彼は90年以上生き、数百回の戦いを生き延びたが、針で燈籠の殻に穴を開けてガスが放出されたから、燈籠は消え、趙子龍は死んだのだ[2]

河北省正定県版

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1970年に秦家庄村で採録。大邑版より10年ほど古い時期に記録されている。大邑版とほぼ同じ内容で、相違点は正定版では趙雲の年齢は84歳となっており、妻が針で刺した場所は、へその横ではなく額になっている。また『燈籠星』のくだりが『水瓶星』となっており、「趙雲の妻は趙雲の皮膚を刺した。それは水の入った瓶を割ったのと同じことだから、水が漏れて趙雲は死んでしまった」と書かれている[3]

書籍版

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民間伝承を取り扱った書籍に収録されている物語で、大邑や正定の話と類似しているが、上記二つの物語とは違い、妻の名前として「孫軟児」が確認される[1]。ただし、「軟児」を幼名とし、「孫氏」と呼んでいる[1]

伝説によると趙子龍の妻の名は孫氏、幼名は軟児。とても美しい容貌で、すらりとした体形に活発な性格だった。

子龍が出征先から数ヶ月して帰ってくると、孫氏は「あなたったらいつもなかなか帰ってこないんだから!」と、笑いながらほうきを振り回して子龍を叩いた。子龍は「次は長く家を空けないから、これ以上は勘弁してくれよ!」と笑いながら懇願した。このように二人は冗談を言い合う、非常に仲睦まじい夫婦だった。

子龍が40歳の時、孫氏は子龍のために湯を沸かし、刺繍をしながら夫の帰りを待っていた。子龍が戦を終えて家に帰ると孫氏は大喜びして迎えた。子龍が服を脱ぎ白くなめらかな肌を見せると、孫氏は「あなたは長く戦場を駆け回っていらっしゃるのに、どうして体中に傷一つないのかしら?」と尋ねた。子龍は得意げに笑ってこう言った。「私は戦場でいつも勝利を収め、一度も傷ついたことがなく、だから『常勝将軍』と呼ばれているんだ」孫氏は笑顔でこう言った。「本当に?私には信じられないわ!」子龍は笑って尋ねた。「どうすれば信じてくれる?」「ではこうしましょう!」彼女は刺繍針を高く掲げて子龍の肩を軽く刺した。

これはただの冗談だったが、血が噴き出すように流れ出して子龍は悲鳴を上げた。孫氏は驚き、慌てて傷口を押さえたが血は止まらず、子龍は涙を流して介抱する妻に必死に笑ってこう言った。「戦場ではなく、愛する妻の刺繍針で命を落とすことになるとは、なんと奇妙なことだろう…」そう言うと息を引き取った。孫氏は大泣きして悔みながら子龍の佩刀を抜き、自刃して夫のそばで息を引き取った。

――『三国志演義』の作者は、猛将・趙子龍のあまりにも惨めな最期を惜しみ、このエピソードを載せたら人々は子龍の妻を責めるだろうと考え、この話を削除した。そのため、趙子龍の本当の死因は伝説となったのだ。

その他

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出典元不明。上記の書籍版『趙雲の死』の内容を詳細に描いたような内容となっており、派生形と考えられる。

ある夜、趙雲が戦場から帰ってくると孫軟児はお風呂を沸かせて待っていた。孫軟児が「本日も、お勤めご苦労様でした。子龍池で汲んだ霊泉水を沸かしたお風呂をご用意いたしました。冷めないうちにどうぞ、白龍(白龍駒、趙雲の愛馬)には霊泉水の用意があります」と言うと、趙雲は「ありがとう」と言い、返り血や土埃で汚れた衣服を脱ぎ、湯気が立ち籠める湯船に浸かった。

孫軟児は浴場の隣で蝋燭を灯して、服の破れた場所に目立たないように刺繍をしながら、ふと、月明かりのもとで夫の身体が水晶の如く透き通り、鎧服(がいふう、鎧兜(甲冑)や衣服)から解き放たれた白い肌が桃色に染まっていくのに気が付いた。

孫軟児は不思議に思い「長年、戦場を駆け抜けたのに、あなたの背はなぜそのように白いのですか?」と尋ねると、趙雲は笑いながら「私は戦友から常勝の兵などと呼ばれ、大きな怪我をしたことがない。陛下から賜りし鎧や妻である君が織ってくれた服に守られた肌の傷は小さく、いつもこの子龍池の霊泉や君の笑顔で癒されているからだよ」と答えた。

孫軟児は「今日は常勝将軍様に傷を付けちゃおうかしら?」などと冗談を言いながら、刺繍針を趙雲の肩にちくりと一針刺した途端、肩から鮮血が泉のように噴き、滝のように流れ出して止まらなくなった。慌てて持ち出した薬箱の薬草や包帯を試してもほとんど効き目はなく、最期を悟った趙雲は妻を責めず、それまでの労に礼を言い遺し、それからすぐに顔から血の気が引いて死んでしまった。孫軟児は声が嗄れるほどに泣き、子供たちの制止を振り切り、自らの行いを責めながら刀を喉元に突き立て、趙雲の亡骸の傍らで自刃して死んだ。

趙雲の訃報は趙統趙広の息子2人によって諸葛亮らに届けられ、「我が四友(劉備関羽張飛、趙雲)、ここに奪われり」と悲哀の余り倒れる。その昏睡の中で諸葛亮は、趙雲と孫軟児が睦まじく微笑みながら、劉備と関羽と張飛に導かれる姿を夢に見て目を覚ます。

解説

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葉威伸はこれらの物語について、正定の『趙雲の死』の記録は大邑の『趙子龍の死』よりも10年以上早く、断定はできないが、採集された年代から考えて、大邑は正定の物語を参考に改変した可能性があることを指摘し、この2つの物語は採集された時期が大きく離れているにも関わらず非常に類似しており、人々に何度も語り継がれた結果、変化したのであろうと推測している[4]

また、それぞれの物語の特徴として、大邑や正定が趙雲を「天から降り立った(転生した)星」として神格化し、死を神秘的なものとしているのに対し、他の地域の趙雲の死にまつわる伝承『趙雲得意笑死』[注 2]や、上述の書籍に収録されている『趙雲の死』からはそういった神秘性が取り除かれ、具体的な死因や「風呂に入る」といった生活感を出すことで趙雲を身近なものとしている[5]

「武芸に優れた者が、たった針の一刺しで血が止まらず、死に至る」という物語は、「不死身のアキレウスが、かかと(アキレス腱)を射られて死に至った」などの世界中の民間伝承に共通する「英雄は必ずどこかに致命的弱点を持っている」「傷口から血が止まらない状態が続き失血死する」という英雄物語のパターンと一致している[6]。これら趙雲の死の物語が生まれた背景について、葉威伸は「趙雲が歴史上、武芸に優れて生涯病気を経験したことがないというイメージが人々に強く根付いていたこと、そして『正史』や『演義』に描かれる「病死」に納得できなかった人々が、趙雲の卓越した武芸を深く崇拝していたことを示唆している」と述べている[7]

関連事項

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  • 「軟児」の名は、映画『三国志』で趙雲の妻の名称に採用されている。姓は不明。
  • 塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている[8]

関連作品

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映画

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小説

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  • 塚本靑史『趙雲伝』河出書房新社、2022年。ISBN 9784309030258 

ゲーム

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1980年代前後に中国大陸各地で民間伝承や故事が大量に収集、出版されたため。
  2. ^ 湖北省咸寧地方には「趙雲が笑い死にした」という伝承が存在する(趙雲#その他の民間伝承の、「最後にまつわる話」を参照)。

出典

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  1. ^ a b c 王登雲「趙雲之死」『三国伝説故事365(下)』中国国際廣播出版社、1991年。 pp.113-114.
  2. ^ 『「趙子龍之死」中国民間文学集成「四川巻・成都市大邑縣」巻4』成都:成都市大邑縣修正辦公室、1989年。 pp.261-263.
  3. ^ 「《歴史人物伝説》趙雲之死」『中国民間文学集成「正定縣故事巻」第一巻』石家荘市正定縣三套集成編輯委員会、1988年。 pp.138-139.
  4. ^ 葉威伸『武神傳説 歴史記憶与民間信仰中的趙雲』文津出版社有限公司、2023年。 pp.224-231.
  5. ^ 葉 2023, pp. 229–231.
  6. ^ 葉 2023, p. 228.
  7. ^ 葉 2023, p. 231.
  8. ^ 塚本 2022, p. 4.

関連人物

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