奥平朝喜

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奥平朝喜(おくだいら ちょうき、康熙53年2月21日(1714年4月5日) - 乾隆31年8月16日(1766年9月19日))は琉球王国第二尚氏王統の人。向氏辺土名殿内十一世で唐名は向廷瑛、童名を鶴千代といい、尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。

父は組踊の創作者で、後世において劇聖と称された向受祐・玉城親方朝薫で、その三男として生まれる。父:朝薫は歌三線にもすぐれ、湛水流を修めていたが、朝喜はそれを父から学び、さらにそれを同家十四世となる向重勲・奥平親方朝昌に伝えた。

系譜[編集]

三男として生まれる(母は真加戸)が、兄:向廷瑚・玉城親雲上朝嘉が亡くなると、兄にも子があったのだが、その長男はすでに夭死しており、また次男はまだ生後九ヶ月ほどの嬰児であったため、朝喜がその跡を継いだ。室に吉氏我謝里之子親雲上孟清の娘:思亀をむかえているが、子宝には恵まれず、結局 兄の次男:向維新・奥平親雲上朝義がその跡を継ぐこととなった。

  • 父:向受祐・玉城親方朝薫
  • 母:馬氏真加戸
    • 兄(長男):向廷瑚・玉城親雲上朝嘉
      • 兄の四女:思乙 (のちに同家十四世となる向重勲・奥平親方朝昌に嫁ぐ)
      • 兄の次男:向維新・奥平親雲上朝義
    • 姉(長女):思乙 (翁氏安谷屋親方盛孟に嫁ぐ)
    • 兄(次男):朝雄 (向氏砂辺里之子親雲上の嗣子となる)
    • 弟(四男):向廷璋・玉城里之子朝忠
    • 妹(次女):真鍋 (向氏与世川里之子親雲上朝英に嫁ぐ)
    • 妹(三女):思乙 (向文源・与世山親方朝昌に嫁ぐ)
  • 継母:無系武樽
    • 妹(四女):思武太 (毛続熙・豊見嶺親方盛幸に嫁ぐ)
    • 妹(五女):松金 (向氏越来按司朝頴に嫁ぐ)
    • 弟(五男):向廷瓚・玉城朝常 (夭死につき位階称号無し)
  • 室:吉氏思亀
    • 嗣子:向維新・奥平親雲上朝義 (兄の次男)

経歴(月日は旧暦)[編集]

  • 1714年康熙53)2月21日 生まれる。
  • 1727年雍正5)2月9日 カタカシラを結う(→玉城子朝喜)
  • 1734年(雍正12)6月19日 御書院小姓となり、若里之子に叙せられる(→玉城里之子朝喜)
  • 1735年(雍正13)3月17日 薩摩へ上国する。
  • 1737年乾隆2)10月1日 帰国。
  • 1739年(乾隆4)12月3日 黄冠に陞る(→玉城里之子親雲上朝喜)
  • 1740年(乾隆5)閏5月18日 向宣謨・今帰仁按司朝忠とともに儀者として薩摩へ上国。
    • 10月25日 帰国。
  • 1744年(乾隆9)10月12日 兄:向廷瑚・玉城親雲上朝嘉が亡くなる。
    • 12月20日 兄の跡を継ぐ。またこのとき豊見城間切奥平地頭となる(→奥平親雲上朝喜)
  • 1747年(乾隆12)6月1日 尚宣謨・今帰仁王子朝忠とともに与力として薩摩へ上国(島津宗信の家督相続を祝う慶賀使)。
    • 10月10日 薩摩滞在中に島津吉貴が亡くなる。
  • 1748年(乾隆13)3月16日 帰国。
  • 1751年(乾隆16)2月22日 上国する。薩摩滞在中は鹿児島城にて囃子狂言を鑑賞した。
  • 1752年(乾隆17)10月7日 帰国。
  • 1755年(乾隆20)5月27日 向廷尉・具志頭按司朝憲とともに附役として上国。
    • 9月24日 冊封使の離琉にあたり踊奉行となる。
    • 10月20日 帰国。
  • 1757年(乾隆22)1月28日 冊封謝恩使として馬宣哲・宮平親方良廷が中国に赴くとき、謝恩勢頭と踊奉行を兼ねて随行。このとき北京にも行く。
  • 1758年(乾隆23)9月23日 帰国。
  • 1758年(乾隆24)6月17日 向氏越来按司朝穎とともに附役として上国。
    • 11月 帰国。
    • 12月1日 申口方吟味役になる。
  • 1763年(乾隆28)12月1日 泊地頭になる。
  • 1766年(乾隆31)8月16日 亡くなる(享年53)。

関連項目[編集]