坊門忠清

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坊門 忠清(ぼうもん ただきよ)は、鎌倉時代前期の公家内大臣坊門信清の子。母は権大納言藤原定能の娘。官位従四位上近衛中将。妻は北条時政の娘。

経歴[編集]

治承2年(1178年)に正六位上豊前権介に叙任し、翌治承3年(1179年従五位下に叙せられる[疑問点]。のち、左兵衛佐・近衛少将・中将といった武官や、阿波守・尾張守・播磨守と上国・大国の地方官を歴任し、承元元年(1207年)従四位上に至った。

同母兄・忠信後鳥羽天皇順徳天皇の寵臣であったことに加え、妹(西八条禅尼)が将軍源実朝の正室であったこともあり、当時の朝廷の有力者であった。しかし、実朝没後の承久3年(1221年)5月に起こった承久の乱で、忠信は後鳥羽上皇に与し、幕府軍と戦って敗れ、戦後に処罰されている。忠清も兄に連座して失脚したらしく、乱後の消息は不明である。

官歴[編集]

※日付=旧暦

系譜[編集]