和田定利

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和田 定利
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正2年(1574年
別名 新助(通称[1]
主君 足利義昭織田信長
氏族 和田氏
父母 和田宗立(惟助)
兄弟 惟政定利惟増定教
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和田 定利(わだ さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。

略歴[編集]

和田宗立の次男[2]として誕生。兄に惟政

寛政重修諸家譜』によると、兄・惟政と共に足利義昭の入洛に供奉し、その後織田信長に仕えて尾張国黒田城を与えられたという。『信長公記』によれば、織田信清の家老として黒田城主を務めたという。信清が信長に敵対すると、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の中島豊後守と共に信長方の兵を引き入れ[3]、信清は甲斐国に逃亡した。

以後は中島と共に永禄12年(1569年)の大河内城の戦い[4]元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めに参加[5]天正2年(1574年)にも中島と共に織田信忠に従い長島攻めに参加する[6]が、この戦いで討ち死にし、弟の八郎(定教)が跡を継いだ[2]

脚注[編集]

  1. ^ 太田牛一 『信長公記』の表記では新介。
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  3. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
  5. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」
  6. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」

出典[編集]