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和田定利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和田 定利
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正2年(1574年
別名 新助(通称
主君 足利義昭織田信長
氏族 宇多源氏 佐々木庶流[注 1] 和田氏
父母 和田宗立(惟助)
兄弟 惟政定利定教
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和田 定利(わだ さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。新助[2][注 2]

略歴

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和田宗立の次男として生まれる(『寛政重修諸家譜』)[3][注 3]。兄に惟政。父は、天文18年(1549年)、42歳のとき、伊賀かけの谷で討死した[1]

兄・惟政と共に足利義昭の入洛に供奉する[5]。その後織田信長に仕えて尾張国黒田城を与えられた[5]。『信長公記』によれば、織田信清の家老として黒田城主を務めたという。信清が信長に敵対すると、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の中島豊後守と共に信長方の兵を引き入れ[注 4]、信清は甲斐国に逃亡した。

以後は信長の侍大将となる[6]永禄12年(1569年)8月の伊勢侵攻に参加し、大河内城の戦いでは南の山から攻撃した[注 5][6]元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めに参加[注 6]

天正2年(1574年)にも中島と共に織田信忠に従い長島攻めに参加する[注 7]。この戦いで討死した[5]

弟・定教が跡を継いだ[2]

家族

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○出典:『寛政譜』[7]

兄弟

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』には、清和源氏とも併記している[1]
  2. ^ 太田牛一 『信長公記』の表記では新介。
  3. ^ 「和田系図」『諸家系図纂』では伊賀守惟助とする[4]
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」
  5. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
  6. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」
  7. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」

出典

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  1. ^ a b 寛政譜 1923, p. 328.
  2. ^ a b 寛政譜 1923, pp. 329, 333.
  3. ^ 寛政譜 1923, pp. 333, 328–329.
  4. ^ 東京帝国大学 1938, p. 783.
  5. ^ a b c 寛政譜 1923, p. 333.
  6. ^ a b 木曽川町史編集委員会 1981, p. 365.
  7. ^ 寛政譜 1923, pp. 328–329.

参考文献

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