吉備上道采女大海

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吉備上道采女 大海(きびのかみつみち の うねめ おおしあま、生没年不詳)は、日本古代の吉備上道の豪族の女。紀小弓の後妻。

記録[編集]

日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇9年(465年)、天皇は新羅征伐のために紀小弓宿禰(き の おゆみ の すくね)、蘇我韓子(そが の からこ の すくね)大伴談連(おおとも の かたり の むらじ)、小鹿火宿禰(おかひ の すくね)らを派遣している。

その際に、妻をなくしたばかりの紀小弓は大連大伴室屋(おおとも の むろや)を通じて、こう天皇に訴えた。

「臣(やっこ)、拙弱(おぢな)しと雖(いえど)も、敬(つつし)みて勅(みことのり)を奉(うけたまは)る。但し今、臣が婦(め)、命過(みまか)りたる際(きわ)なり。能く臣(やつかれ)を視養(とりみ)る者(ひと)莫(な)し。公(きみ)、冀(ねが)はくは此の事を将(も)て具(つぶさ)に天皇に陳(まう)せ」
(訳:私は臆病ですが、謹んでみことのりを承ります。ただ、私の妻はなくなったばかりで、私の面倒をみるものがありません。大連様、願わくば、このことを詳細に天皇に陳状して下さい)

と申し上げた。この奏上を聞いた天皇は同情して、吉備上道采女大海を小弓に賜り、付き添って世話をすることにさせた。

ところが、現地で小弓は病死してしまった[1]

小弓の未亡人となってしまった大海は喪に服すべく帰国し、大伴室屋大連にこう申し上げた

「妾(やっこ)、葬(をさ)むる所を知らず。願はくば良き地(ところ)を占めたまへ」
(訳:私は(将軍を)埋葬するところを知りません。願わくば、埋葬地を決めてください)

これを聞いた天皇は以下のような詔を出した。

「大将軍(おほきいくさのきみ)紀小弓宿禰、竜のごとく驤(あが)り虎のごとく視て、旁(あまね)く八維(やも)を眺(み)る。逆節(そむくもの)を掩(おほ)ひ討ちて、四海(よものくに)を折衝(ことむ)く。然(しかう)して則(すなは)ち身万里(とほきくに)に労(いたづ)きて、命(いのち)三韓(からつくに)に墜(し)ぬ。哀矜(めぐむこと)を致して、視葬者(はぶりのつかさ)を充(あ)てむ。又汝(いまし)大伴卿(おほとものまへつぎみ)、紀卿(きのまへつぎみ)等(たち)と、同じ国近き隣の人にして、由来(ありく)こと尚(ひさ)し」
(訳:大将軍紀小弓宿禰は、竜のように高くあがり、虎のようにみて、あまねく四方を眺めていた。背くものを討ち、四海を言葉で説いて従わせた。しかし、その身は万里の果てで病にかかり、その命は三韓の地でなくなってしまった。哀れみいたんで「はふりのつかさ」をあてよう。また大伴鄕は紀鄕と同郷で、近い隣人でもあるので、往来も久しいことであろう)

すなわち、小弓の半島での功績を賞讃し、葬礼のための役人を遣わし、さらに小弓と大伴氏の勢力地がたまたま同じ国で、隣り合っている縁で、小弓の墓を両者の接点である田身輪邑(たむわのむら、和泉国日根郡淡輪村、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)につくるように指示したのである。

大海は喜んで、お礼として韓奴(からのやっこ)の「 室(むろ)・兄麻呂(えまろ)・弟麻呂(おとまろ)・御倉(みくら)・小倉(おくら)・針(はり)」の「六口」(むゆたり)を大連に送った。これが、吉備上道の蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部(やけひとべ)となった、という[2]

この「家人」とは豪族などに隷属して駆使される賤民に近い部曲のことで、天智天皇3年2月(664年)にはこれに類する「家部」が設置されている[3]。「家部」は奈良時代に西国各地に分布し、備前国にも多く設置されている。

わずか2ヶ月ほどの夫婦生活であったが、大海と小弓との間には、深い愛情に満ちた日々があったことが想像される。

和泉志』によると、吉備上道大海の墓は淡輪村の南にあり、「小陵」と称されている、という[4]

なお、『万葉集』巻第二217に柿本朝臣人麻呂が「吉備津采女」(きびのつ の うねめ)が死んだ時に作った長歌、および反歌が掲載されているが、後世の別人である。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇9年3月条
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇9年5月条
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇3年2月9日条
  4. ^ 『日本書紀』(三)p356補注、岩波文庫、1994年

参考文献[編集]

関連項目[編集]