古筆了佐

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古筆 了佐(こひつ りょうさ、元亀3年(1572年) - 寛文2年1月28日1662年3月18日))は、近江国生まれの古筆鑑定家

本姓は平沢通称弥四郎範佐(のりすけ)といい、出家して名を了佐と改めた。その後、古筆の鑑定を専業とするため、関白豊臣秀次の命により古筆に改姓した。

古筆[編集]

『糟色紙』藤原定信
西本願寺本三十六人家集』の中、『順集』の「切」である。この断簡には、『糟色紙』と『岡寺切』(岡寺に伝わったため)があるが、料紙の装飾技巧に継紙の手法のあるものが前者で、ないものが後者である[1]

古筆とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様の名筆をさしていう。時にはもっと範囲を狭くしてその名筆中でも特に「かな書」をさす。単に古代の筆跡という意味ではない[2]

安土桃山時代に入り、やや平和な世の中になると、知識者階級において、「美しい筆跡を手習の手本にしたい」、「鑑賞のために手に入れたい」という願望がおきてきた。さらに、天文24年(1555年)10月の茶会で、武野紹鷗藤原定家の『小倉色紙』を茶室の床掛けとして用いて以来、古筆が茶人達にも愛好されるようになった[3]。やがて古筆愛好の風潮は民間にも波及し、古筆は珍重されるようになった。

古筆切[編集]

古筆は主に貴族文化の中で、本来、冊子や巻物という完全な形で大切に保存、鑑賞されていた[4]。しかし、古筆愛好熱が高まり古筆の絶対数が不足してくると切断されることになり、この切断された断簡が「切」と呼ばれるもので、ここに古筆切(こひつぎれ)、歌切(うたぎれ)が誕生する[3]。古筆切は保存にも鑑賞にも不自由なため、これを収納、鑑賞するための帖(手鑑)が発達した。江戸時代初期、17世紀中頃には町人のあいだでも大流行したことが、当時の『仮名草子』に記されている。また、『茶会記』には、古筆切は茶席のを飾る掛物としても用いられ始めたことが記されている[4]

古筆鑑定[編集]

手鑑や茶会の床の掛物として古筆切の鑑賞が盛行すると、その筆者が誰であるのかということが重要になってくる。そして鑑定を依頼するようになり、古筆の真贋を鑑定する古筆鑑定家が生まれた。大村由己鳳林承章烏丸光広など多くの人が鑑定に携わっていたが、古筆了佐はこの古筆の鑑定を生業とした[5]

古筆了佐(平沢弥四郎)[編集]

平沢弥四郎(のちの古筆了佐)は元亀3年(1572年)、佐々木源氏の末流として近江国西川に生まれた。若い頃、父・宗休(そうきゅう)と京都に出て、父とともに烏丸光広に入門し和歌を学んだ。光広は和歌にもにも秀で、特に古筆の鑑識に長けており、自ら古筆の蒐集もしていた。その影響で、弥四郎も古筆鑑定の術を体得し、腕を上げていった。そして、光広から古筆の鑑定を専業にしてはどうかと勧められ、これをきっかけに話がまとまり、豊臣秀次より古筆の姓を名乗る命を受けた。鑑定は権威が必要と、秀次自らが発注した「琴山」という純金の鑑定印を与えられた。弥四郎はすでに出家していて了佐の法名を名乗っており、改姓して古筆家をたて、古筆了佐と称して古筆鑑定の第一人者となった[6]

烏丸家との交友[編集]

烏丸光広と了佐の交友がいつから始まったのか定かでないが、了佐が光広に古筆鑑定の方法を学んだことは、『御手鑑』[7]、『古筆名葉集』、『明翰集』などから知られる[8]

ここに了佐居士自然古筆を見習、及ばぬ所は烏丸大納言光広卿に尋伺ふ……一年東にくだり御手鑑持覧いたし、古筆といへる名をくだし給ふと也

— 『御手鑑』序より[8]

弟子の了佐が7歳年上であり、光広が寛永15年(1638年)に60歳で没した時、了佐は67歳であった。了佐と烏丸家との交友はその後も長く続き、光広の子・光賢(みつたか)、さらに光賢の子の資慶の代に亘った。資慶は家業の歌道に精通し、書も巧みで、烏丸家伝来の手鑑帖には模写した古筆類が貼られている。寛文元年(1661年)、資慶が法服に添えて了佐九十の賀に贈った和歌懐紙が現存する[6]

賀櫟材老人卆算 和哥
      亜槐資慶
九十年みちぬるとしに もゝとせをかぞへそめつゝ はるはきにけり
  添法服
苔のむす巌をなでゝ さゞれいしのむかしにかへせ 羽衣のそで

— 『古筆了佐九十賀祝歌』

この時、資慶は従二位権大納言で40歳であった。了佐はその翌年、91歳で没した。その他、光広が了佐に宛てた書状、了佐筆書状などが現存するが、これらは古筆了佐直系の古筆家の末裔が小松茂美に提供したものである[6]

古筆家・別家[編集]

了佐には 四男一女があった。2代目は三男の三郎兵衛が継ぎ、古筆了栄を名乗った。古筆家は安土桃山時代以降、連綿と一子相伝し、第13代了信に至り、太平洋戦争の頃まで古筆の鑑定に携わっていた。

了佐の次男、勘兵衛は江戸に出て、勘兵衛の子、守村(もりむら)が同じ勘兵衛を襲名し、古筆了任を名乗った。この了任が京都の本家とは別に古筆別家をたて、幕府に仕え、鑑定の仕事に専念した。幕府の組織の中では寺社奉行の傘下に置かれ、古筆見(こひつみ)という職名を与えられた[6]。さらに門人もそれぞれ栄え、古筆鑑定は職業として成り立つことになる[5]

鑑定[編集]

本阿弥切』伝小野道風
もと本阿弥光悦が愛蔵していたことからこの名がある[9]

古筆鑑定家は、筆者不詳の古筆切に、その書様に相応しい筆者(伝称筆者)を宛て、古筆の名称を付け、それを極札(きわめふだ)という小さな札に記した。そしてその極札に鑑定印を押し、古筆切の横に貼り、一定の配列のもとに古筆切を貼って手鑑の様式にした[4]。そして、この手鑑は鑑定の基準にも使われた[10]

鑑定印[編集]

豊臣秀次よりの「琴山」の鑑定印は純金であったが、小松茂美が古筆別家の末裔の古筆家で目にしたものは木製であった。しかし印面はまさしく「琴山」で、どの印もどの印も印面が墨で汚れており、極札の発行に所用されたものであることがわかったという[6]

古筆切目安[編集]

了佐の弟子、藤本了因(笠原箕山)が著したとされる『古筆切目安』という本は、古筆鑑定に1つの方法論を述べた点で価値が高い[5]

  • 目利稽古の事先古新を視次に何流といふ所を観次に筆力の位をさっすべし凡故筆の数は際限なき物なれども先行列の一書に記したるところ七百五十計也古代中世を見分に何流とみわくれば二十か三十の数也其中にて位の高下を考る時は五人か七人に成也其内にて一人を可選此位を見ざれば混雑して難弁
  • 真偽を見分る事は正真の筆意をよく見覚れば自然とにせはみゆる也
— 『古筆切目安』より

伝称筆者[編集]

高野切第一種』伝紀貫之
巻9の巻首の断簡17行がもと高野山に伝来したことからこの名がある[11]

伝称筆者(でんしょうひっしゃ、伝承筆者とも)とは、筆跡について、古来より言い伝えられている筆者のことで、筆者名は、「伝○○筆」・「伝○○書」、単に「伝○○」などと表記する。今日まで残されている古筆には、後年、古筆鑑定家によってつけられた伝称筆者名が冠せられている。しかし、今日では伝称筆者の多くは否定されている。例えば、『高野切第二種』の伝称筆者は紀貫之であるが、源兼行の筆跡であることが判明している。これは古筆鑑定家の鑑定があまり科学的でなかったこともあるが、古筆の筆者が自身の筆跡であることを隠蔽していたことにそもそもの原因がある。[12][13][14]

土佐日記』で紀貫之が自身を女性に仕立てているが、平安時代中期、男子は漢文日記をつけるのを常としたため、紀貫之が、かな芸術に挑むためには、自らを女性に仮装せざるを得なかったのであろう。日記開始の年(934年)さえ、「それのとし」(ある年)としている[15]

をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり。それのとしのしはすのはつかあまりひとひのひのいぬのときに、かどです。そのよし、いさゝかにものにかきつく。

— 『土佐日記』より

この時代、女性への差別がつよく、女性の漢字学習が禁止されていた[16]。そして、かなを女手(おんなで)と呼んで女性用の文字とし、漢字は男手(おのこで)と呼ばれた。伝存する古筆切のほとんどが、真の筆者名を明らかにしないのは、貫之の見せた姿勢と無関係ではあるまい[15]

古筆の名称[編集]

『石山切』(貫之集下)藤原定信
西本願寺本三十六人家集』の中、『貫之集下』の「切」である。昭和4年(1929年)『伊勢集』とともに切断された。本願寺がもと大坂石山にあったことからこの名がある[17]

古筆にはそれぞれの名称があるが、その名称の由来を次に示す[10][5]

所蔵地の名によるもの
高野切』、『本能寺切』、『寸松庵色紙』、『石山切』、『亀山切』、『岡寺切』など
所蔵者の名によるもの
本阿弥切』、『関戸本古今集』、『久海切』、『民部切』、『了佐切』、『荒木切』、『大江切』、『御家切』、『右衛門切』、『中山切』、『今城切』、『角倉切』など
料紙の特色によるもの
継色紙』、『升色紙』、『藍紙本万葉集』、『綾地歌切』、『筋切』、『通切』、『大色紙』、『小色紙』、『糟色紙』、『葦手歌切』、『鶉切』、『鯉切』など
書風によるもの
『針切』、『紙捻切』など
書写の年代によるもの
『元暦本万葉集』、『天徳歌合』など
切断した年代によるもの
『昭和切』、『戊辰切』など
詩文の最初の文字によるもの
風信帖』、『秋萩帖』など

脚注[編集]

  1. ^ 「書道辞典」(『書道講座』P.20)
  2. ^ 「書道辞典」(『書道講座』P.52)
  3. ^ a b 堀江きょう(冫+恭)子 「古筆切の誕生」(「時代を映す名品選」『書道藝術』P.8 - 9)
  4. ^ a b c 別府節子「古筆切と手鑑」(「時代を映す名品選」『書道藝術』P.14)
  5. ^ a b c d 酒本弘「『古筆名葉集』に見る古今集」(「古今和歌集」『墨』P.26 - 28)
  6. ^ a b c d e 小松茂美「古筆了佐九十の賀に贈られた和歌懐紙」(「古今和歌集」『墨』P.108 - 109)
  7. ^ 慶安4年(1651年)刊
  8. ^ a b 渡部清『影印 日本の書流』P.163
  9. ^ 渡部清「古今集の古筆」(「古今和歌集」『墨』P.11)
  10. ^ a b 鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』P.140 - 141
  11. ^ 渡部清「古今集の古筆」(「古今和歌集」『墨』P.4)
  12. ^ 高木厚人「平安朝仮名古筆の系統的分類」(「図説日本書道史」『墨スペシャル』P.94)
  13. ^ 森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』P.224
  14. ^ 渡部清「書道史概説【安土桃山・江戸前期】」(「図説日本書道史」『墨スペシャル』P.141)
  15. ^ a b 森岡隆「史料に拾う かな名言集」(「かな百科」『墨』P.49)
  16. ^ 村上翠亭『日本書道ものがたり』P.36
  17. ^ 渡部清「王朝 かな名品選」(「かな百科」『墨』P.34 - 35)

出典・参考文献[編集]

関連項目[編集]