南陽慧忠

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南陽慧忠
675年 - 775年
Nanyang Huizhong.jpg
諡号 大証国師
生地 越州諸曁
宗派 禅宗
寺院 南陽白崖山香厳寺
慧能
弟子 耽源

南陽慧忠(なんよう えちゅう、675年(上元2年) - 775年(大暦10年))は、中国唐代中期の僧。禅宗の六祖慧能の直弟子である。粛宗代宗と2代の皇帝の参禅の師となり、慧忠国師と称せられた。

生涯[編集]

慧能のもとで悟りを得た後、南陽の白崖山にある党子谷に庵を結び40年の間隠棲した。その後、皇帝粛宗の招請により都に上り、宮廷において教えを授けた。死後、皇帝は国師号を贈った。 中国では単に国師といえば、ほとんどの場合慧忠のことを指すといわれる[1]


公案[編集]

「無門関」第17則[編集]

無門関』の第17則は、「国師三喚」と呼ばれる慧忠と従者(おそらく耽源応真と思われる)のやり取りで、従者房にいた耽源が、師の呼び声に応じて隠寮に駆けつけるが返事がないので房に戻る、というやり取りを三度繰り返し、三度目には襖を開けて「何か御用でしょうか」と答えた。慧忠は嘆息しながら「今までお主が悟れないのは指導する私の責任だと思っていたが、ここまで親切に指導しても気がつかず「何か御用でしょうか」と言うようでは、お主の修行が切実ではなく、未熟なためだ。お前の責任である」と答えた、いう則である[2]

「碧巖録」第18則[編集]

碧巌録』の第18則は、慧忠と粛宗との問答である。粛宗は「師の100年を記念するために何ができるか」と問うた。これに対し慧忠は、「無縫塔を建ててほしい」という答えを返した。粛宗は「それはどのようなものか」と問うた。慧忠はしばし沈黙し、「お分かりか」と答えた。粛宗は「わからぬ」と答えた。この問答は、粛宗が慧忠の弟子である耽源に聞かせたもので、粛宗は本当にわからなかったのではなく、耽源に謎かけをしているのである、とされる。

脚注[編集]

  1. ^ 芳賀 1996, p. 62.
  2. ^ 芳賀 1996, pp. 62-64.

参考文献[編集]

  • 芳賀洞然 『五燈会元鈔講話:中国禅界の巨匠たち』 淡交社、1996年ISBN 4473014762 

関連項目[編集]


師:慧能 禅宗 弟子:耽源