千鳥型水雷艇
千鳥型水雷艇 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 水雷艇 |
艦名 | |
前級 | - |
次級 | 鴻型水雷艇 |
要目(竣工時→復元性能改善後) | |
排水量 | 基準:535英トン 公試:615トン → 772トン |
全長 | 82.00m |
全幅 | 7.40m(バルジを除く) |
吃水 | 2.00 → 2.30m |
機関 | ロ号艦本式缶2基 艦本式タービン2基 2軸、11,000馬力 |
速力 | 30.0ノット → 28ノット |
航続距離 | 14ノットで3,000海里 |
燃料 | 重油:120トン |
乗員 | 不明 → 120名 |
兵装 (竣工時) |
50口径12.7センチ連装砲1基 同単装砲1基 13mm機銃1挺 53センチ連装魚雷発射管2基4門 (魚雷8本[1]) 爆雷投射機1基 爆雷 単艦式大掃海具 |
兵装 (1935年) |
45口径三年式12センチ単装砲3基 13mm機銃1挺 53センチ魚雷連装発射管1基2門 (魚雷2本[1]) 爆雷投射機1基 爆雷 単艦式大掃海具 |
同型艇 | 4隻 |
千鳥型水雷艇(ちどりかたすいらいてい)とは、大日本帝国海軍が1931年(昭和6年)より建造した水雷艇。ロンドン軍縮条約の影響により、ミニ駆逐艦ともいえるほど重武装の艦艇であった。うち3番艦「友鶴」が、演習中転覆するという友鶴事件を引き起こした。
建造目的
水雷艇の衰退
水雷艇とは、主武装が砲ではなく、水雷装備(初期は外装水雷、後に魚雷)で敵艦を攻撃する艦艇のことである。しかし、この水雷艇を「駆逐」する事を第一義とし、砲も装備した大型水雷艇である駆逐艦が考案されると、各国は水雷艇の建造を行われなくなった。日本海軍でも1924年(大正13年)から艦艇類別標準から水雷艇の類別がなくなり、建造もされなかった。
水雷艇復活
日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約により主力艦数を制限されたため、補助艦である巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などを充実させることで補おうとした。ところが、その後のロンドン軍縮条約により補助艦まで制限を受ける事になった。そのため海軍では、既存艦の戦闘力を引き上げることに腐心する一方、条約の項目「600トン以下は条約の対象外」からこの対象外の艦艇を建造する事となる。これと同じ考えは、日本よりさらに制限が厳しいフランスやイタリアも持ち、これらの国でも水雷艇を復活させている。
水雷艇「千鳥」
フランスやイタリアの水雷艇が初期の水雷艇の発展系ともいえるものに対し、日本海軍のそれは、600トンというサイズに2から3世代前の「神風型駆逐艦(2代目)」に匹敵する装備を施すという「ミニ駆逐艦」ともいえるものとなった。しかし、この排水量での武装搭載量はあまりに過大であり、当時の新鋭艦「吹雪型駆逐艦」の武装搭載比率が約14パーセントなのに対し、千鳥型は24パーセントという超武装となっている。当時の日本艦の武装は(外国艦と比べて)明らかに多すぎるものであったが、千鳥型はそれが極端に進んだ艦といえる。
1番艇「千鳥」は1933年(昭和8年)11月に竣工したが、公試排水量で計画より15%もオーバーし復元性能が不足していた。そのためバラスト40トンを搭載したがそれでも転舵の際に大傾斜を生じ、舷側にバルジを装着することで復元性能を改善して竣工した。
- なお千鳥型は日本海軍で初めて高温高圧蒸気を機関に使用した。高温高圧蒸気の使用は機関の効率を高め、同一出力の場合は機関をより小さくできる。また1馬力当たりの燃料消費量が少なくなり、燃料搭載量の減少、または航続距離伸延にもなる。千鳥型の場合は蒸気過熱器を装備し、飽和蒸気を過熱することで圧力30kg/cm2、温度350度の蒸気を使用した[2]。後に「島風」で使用された圧力40kg/cm2、温度400度の高温高圧蒸気[3]に通じる第一歩であった。
友鶴事件
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/IJN_torpedo_boat_CHIDORI_in_1933.jpg/300px-IJN_torpedo_boat_CHIDORI_in_1933.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/80/Japanese_Torpedo_Boat_Hatsukari.jpg/300px-Japanese_Torpedo_Boat_Hatsukari.jpg)
このような艦艇の限界を超えるような過大な兵装は、艦の復原性が不足する事となるとの指摘があったが、艦政本部の責任者藤本喜久雄少将(当時)は用兵側の要求を満たすためこのような艦を建造し続けた。その結果、1934年(昭和9年)3月に3番艦「友鶴」が荒天のため転覆、殉職者72名を含む総数100名を超える犠牲者を出すという事故(友鶴事件)が起こった。
調査の結果、千鳥型を含む藤本が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、すでに完成していた3隻を含めた完成艦は改善工事が行われ、4番艦「初雁」は建造中だったため性能改善を施して竣工している。
本型の主な工事内容は以下の通り。
- バルジの撤去
- 艦底にバラストキールを取り付けバラスト98トンを搭載する。
- 艦橋を1段低める。
- 12.7cm砲(砲塔形式)3門を12cm単装砲3門と交換。
- 魚雷発射管は4門から2門へ、魚雷搭載数は予備魚雷を含めて8本搭載が発射管のみの2本に減少。
これらの工事により復元性能は改善されたが兵装は大幅に減少し排水量は公試状態で772トンにまで増加、速力は28ノットまで低下した。
第四艦隊事件
1935年(昭和10年)に第四艦隊事件が起き本型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる[4]。
戦歴
1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後は緒戦は南方の攻略作戦を支援、その後は船団護衛などに従事した。大戦終盤まで活躍したが昭和19年12月から翌年3月にかけて3隻が戦没。「初雁」1隻のみが香港で残存した。
機銃増備
大戦中の機銃増備の状況[5]。
艦名 | 25mm機銃 | 13mm機銃 | 電探 | 調査日 | |||
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3連装 | 連装 | 単装 | 連装 | 単装 | |||
千鳥 | 2基 | 6挺 | 8挺 | - | 1944年 8月20日 | ||
真鶴、友鶴、初雁 | 2基 | 6挺 | - | 1944年12月 4日 |
対潜兵装は「真鶴」「友鶴」の場合、八一式爆雷投射機8基、九三式水中聴音機1基、九四式探信儀1基(水流覆付)を装備した。
同型艦
- 千鳥(ちどり)
- 1933年(昭和8年)11月20日竣工(舞鶴工作部)。1944年(昭和19年)12月22日戦没(御前崎沖、米潜タイルフィッシュ)。
- 真鶴(まなづる)
- 1934年(昭和9年)1月31日竣工(藤永田造船所)。1945年(昭和20年)3月1日戦没(那覇、航空機)。
- 友鶴(ともづる)
- 1934年(昭和9年)2月24日竣工(舞鶴工作部)。1945年(昭和20年)3月24日戦没(東シナ海、航空機)。
- 初雁(はつかり)
- 1934年(昭和9年)7月15日竣工(藤永田造船所)。香港で終戦。イギリスが接収し1948年(昭和23年)に現地で解体と言われる。
脚注
- ^ a b 福井静夫「日本駆逐艦物語』によると竣工時の魚雷搭載数4本、復元性能改善後も同数。
- ^ 鈴木範樹「水雷艇が搭載した機関」『写真 日本の軍艦 第11巻』p210。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻』p124。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻』p220。
- ^ 『日本補助艦艇物語』p368、石橋孝夫作成「あ号作戦後の補助艦艇兵装状況一覧表」による。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦Ⅱ』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0461-X
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』原書房、1981年、第3刷。ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2