医王寺 (中津川市)

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医王寺
所在地 岐阜県中津川市落合1423-2
位置 北緯35度30分37.3秒 東経137度32分21.9秒 / 北緯35.510361度 東経137.539417度 / 35.510361; 137.539417座標: 北緯35度30分37.3秒 東経137度32分21.9秒 / 北緯35.510361度 東経137.539417度 / 35.510361; 137.539417
山号 瑠璃山
宗派 浄土宗
本尊 薬師如来
創建年 不明
開山 不明
開基 不明
中興年 天文13年(1585年)
中興 正誉存徹
別称 山中薬師、虫封じ薬師
札所等 中部四十九薬師霊場二十四番・恵那中部新四国八十八ヶ所 第四十一番
法人番号 5200005008971 ウィキデータを編集
醫王寺の位置(岐阜県内)
醫王寺
醫王寺
醫王寺 (岐阜県)
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医王寺(いおうじ)は岐阜県中津川市落合にある薬師如来を本尊とする浄土宗知恩院末の寺院。山号は瑠璃山。

中部四十九薬師霊場二十四番。恵那中部新四国八十八ヶ所 第四十一番。

歴史[編集]

古くは天台宗の巨刹であったとされる。創建年・開山・開基とも不明である。

山中薬師とも呼ばれ、古来より子供の虫封じの薬師の寺として知られ、各地に薬師講ができるほど厚く信仰されていた。

奈良時代聖武天皇の御代に諸国に疫病が流行した際、勅命をうけた行基が各地を巡り、薬師如来を刻んで安置し病気の治療を伝授したという由来が伝わる。

御嵩願興寺奥三河鳳来寺と共に三薬師の一つとされる。

保元平治文治元暦の兵火により焼亡して衰退し、その後再興するも戦国時代に再び戦禍に遭い中絶した[1]

天文13年(1585年)、戦乱により罹災し廃寺とになっていたが、正誉存徹浄土宗に改宗して中興を果たした。

正徳年間(1711~1715年)の文書控には、次の記述がある。「京都知恩院直系 浄土宗 瑠璃山 医王寺 鎮守弁財天一社 地蔵一宇 御両様より御除地」[2]

天明6年(1786年)に、七世の忍誉白雄の代に火災で焼失。八世の行誉本孝の代に再建されされたが、過去帳にもその年代は記されていない。

大正15年(1926年)に壱萬伍千圓を費やして本堂の改築ならびに書院・玄関を新築した。

昭和36年(1961年)に庫裡の再建を行い、今に至る。

寺宝[編集]

文政5年(1822年)の控には、

「本尊 薬師 行基御作、脇建 日光 月光新仏、十二神 新仏、弥陀 本造 恵心御作、観音 宮殿入」と、当時の什物が記されているが、

現在伝わる什物は、本尊、日光・月光菩薩、十二神像、弥陀がある。

下馬庚申とも言われる庚申像が安置されている。

本尊の薬師如来は、日光菩薩月光菩薩脇侍として伴った薬師三尊であり、十二神将を従えて四天王が四隅をおさえて須弥壇を護る構えとなっている。

釈迦如来阿弥陀如来の像があり、阿弥陀如来は観音菩薩勢至菩薩を脇侍としている。

浄土宗の高祖善導と、宗祖法然(円光大師)の像がある。

境内[編集]

銅造薬師如来像を安置する三重石塔、弘法堂、稲荷神社がある。

境内にはかつては木曽義仲が植えたと伝わる樹齢300年の枝垂桜があったが、伊勢湾台風時に倒れた。現在ある高さ2m程の桜は、若木を植え継いだものである。 

この桜の東には、根回り2m78cm、高さ10mの松が2本、幹を伸ばしており、その樹下に三世の香誉春我の代に建てた三重石塔があり、その中には銅造の薬師如来像が納められている。

これと並んで昭和9年(1934年)に建立の北部耕地整理組合完成記念碑があり、徳本上人の名号碑、恵那中部新四国八十八か所のうち、四十一番の弘法大師像を祀る弘法堂、

さらに奥庭の池には「梅が香に のっと日の出る 山路かな」と刻まれた松尾芭蕉の句碑がある。

狐膏薬[編集]

中山道落合宿の名物であった狐膏薬は、刀の切り傷によく効くと言われ、医王寺の薬師如来の加護により作られたという伝説があり、今も看板が残されている。

参考文献[編集]

  • 『落合郷土誌』 第十九章 社寺と文化 第二節 寺院 医王寺 落合郷土誌編纂委員会 p642~p645 昭和45年(1970年)
  • 『中津川市史 中巻Ⅱ』 第五編 近世(二) 第八章 寺社 第二節 寺院 ニ 近世の寺院 医王寺 p1615~p1616 1988年
  • 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年
  • 『東濃の古寺 (東濃探訪 ; 第6集)』 p14~p15 東濃教育事務所学校教育課 ききょう出版, 1982年
  • 『中部四十九薬師巡礼』 p118~p120 富永航平 1999年
  • 『尾張藩領落合村誌』 山川喬 1991年

脚注[編集]

  1. ^ 応仁の乱の文明5年(1473年)信濃から木曽家豊と伊那郡松尾城の小笠原家長が、落合村から美濃に侵攻し中山道沿いの村々を占領した。天文3年(1534年)小笠原貞忠は、家中の内紛により美濃から撤退したが、その後すぐに、信濃伊那郡の下条時氏が落合村と湯舟澤村に攻め込み占領した。天正2年(1574年)には、武田勝頼が信濃から落合村を通って美濃恵那郡へ侵攻した際に、城・神社・仏閣を悉く攻めて焼討した。
  2. ^ 塚田手鑑