助川喜四郎

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助川 喜四郎
生誕 1883年12月11日
日本の旗 日本 茨城県筑波郡大穂村(現・つくば市
死没 (1963-12-11) 1963年12月11日(80歳没)
日本の旗 日本 茨城県土浦市
教育 愛知医専(現・名古屋大学)卒業
著名な実績 狂犬病犬体注射法を完成
天然痘の鶏卵痘苗製造の成功
医学関連経歴
職業 医師医学
所属 北里研究所、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)、昭和病院、等
専門 ウイルス学細菌学
受賞 従五位勲六等

助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年明治16年8月7日) - 1963年昭和38年12月11日)は、日本医師ウイルス学者。

1915年大正4年)、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)にはいり、狂犬病を研究。1921年大正10年)「助川梅野法」とよばれる犬体注射法を完成。天然痘病原体の鶏卵内培養にも成功した。1928年昭和3年)、土浦市に昭和病院及び助川研究所を設立。[1]

経歴[編集]

医学研究及び業績[編集]

大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、梅野信吉より病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談があった。当時、パスツールによる人体に狂犬病予防注射する方法が行われていたが、応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事となった。大正5年に研究準備を整え、大正6年2月、神奈川県知事の許可を得て横浜公園にて初めて犬体予防を実施、大正7年10月までに6千余頭の接種を行った。この詳細な内容については北里細菌学雑誌に報告された。大正10年、助川梅野法を完成し、狂犬病の予防は著しく進歩した。大正15年、7年間の研究の末、狂犬病原体を発見、学界発表を行った。[2][3]

当時、大東亜共栄圏内における天然痘の撲滅のために、厚生省(現・厚生労働省)は[種痘]による予防のための大量の痘苗を必要としていた。当時、痘苗は牛痘をもとに製造されていたが、牛痘は仔牛の腹部に出来た痘疱に石炭酸を加えて殺菌を行うため無菌にはできなかった。また、近年仔牛が高価となり、多数の仔牛を集めることが困難になってきていた。そこで、助川喜四郎は、病院を開業し患者を診療するかたわら、大正5年、痘毒の人工培養の研究に着手した。そこで、以下の2点を目的とした。

 1.雑菌を含まない純痘苗を得る
 2.牛体を借りずに人工培養する

まず、試験管内の普通培地による数々の実験を試みたが、すべて失敗に終わった。そこで生体組織による培養に目を転じ、大正11年、孵化鶏卵による痘苗培養に成功した。さらに連続培養を試みて、関東大震災で研究室と設備が損壊等に見舞われながらも、昭和12年までに153代に及んだ。そして、昭和15年に、20年余にわたる成果を細菌学雑誌に発表した。[4][5][6] その後、厚生省(現・厚生労働省)より鶏卵痘苗製造の許可が与えられ、牛痘苗と並んで一般種痘に実施されるようになった。昭和24年までに助川研究所に於いて500万人分の鶏卵痘苗を製造して世に提供した。[7]

終戦直後、発疹チフスが全国的に蔓延した。厚生省(現・厚生労働省)の懇請を受けて、大量鶏卵培養に成功。流行を短期間に完封した。[8]

脚注[編集]

  1. ^ 板倉聖宣『辞典 日本の科学者:科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、424頁。 
  2. ^ “狂犬病原体を発見、助川喜四郎博士”. アサヒグラフ. (1926-12-15). 
  3. ^ 「世界に先んじて狂犬病原体を発見、七年間の苦心見ごと酬いられて、助川博士の大成功」『東京日日新聞』、1926年3月2日。
  4. ^ 「天然痘の病原体、助川博士が発見、世界学界に一大光明」『朝日新聞』、1932年3月24日。
  5. ^ 「鶏卵で天然痘予防、助川氏の研究実を結ぶ」『報知新聞』、1942年2月6日。
  6. ^ 「鶏卵で痘苗培養、世界的な新発見」『国民新聞』、1942年2月6日。
  7. ^ 高橋功『志賀潔』法政大学出版局、150-154頁。 
  8. ^ 「助川喜四郎氏」『いばらき』、1963年12月14日。

外部リンク[編集]

コトバンク

助川喜四郎アーカイブス