出水ツル渡来地
出水ツル渡来地(いずみツルとらいち)は、鹿児島県北西部出水平野の水田地帯にあり毎年10月中旬頃から翌3月頃にかけて約1万羽のツルが越冬することで知られる場所である。鹿児島県出水市内の245.3haが「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として国の特別天然記念物に指定されている
概要
毎年10月中旬から11月中旬にかけて、北または北西の風に乗ってツルが渡来する。おおむね1万羽のナベヅルとおおむね3千羽のマナヅルの他、クロヅル、アネハヅル、カナダヅル、ソデグロヅルも少数ではあるが渡来する。稲刈りの終わった水田や休耕田に生えるイネの二番穂、カヤツリグサ科の雑草、セトガヤ、マツバイ、クログワイ、ジャガイモ、カエル、カタツムリ、タニシ、バッタなどを食べながら越冬する。人為的な給餌も行われており、年間約75トンの小麦をはじめ籾、玄米、大豆などが与えられる。また、タヌキやイタチに襲われることがないよう浅く水を張った湿地がねぐらとして用意されるなど手厚く保護される。その一方で、周辺の農家は農作物を荒らされることがないよう畑に防護ネットを張らねばならない。ツルが北へ帰る直前には約8トンのイワシが与えられる。2月上旬から3月下旬にかけての晴天の日に、西または北西風によって発生する上昇気流に乗って円を描くように上昇し北へと飛び去っていく。
出水平野に飛来するツルの繁殖地は、ナベヅルがバイカル湖からアムール川中流域にかけての湿地帯、マナヅルがアムール川中流域から上流域にかけての湿地帯である。越冬地は出水平野のほか、山口県周南市の八代盆地や韓国の大邱、高霊郡および軍事境界線の湿地帯、中国の長江流域などがあり、その年の気象条件などによって越冬場所を変えるツルも多いことから出水平野に渡来するツルの数には増減がある。
歴史
もともとツルは日本各地の湿地や水田地帯に渡来して越冬しており、江戸時代の薩摩藩領内でも多くの場所でツルが観察されていた。出水平野でツルが観察された最初の記録は1694年(元禄7年)のものであり、当時造成されつつあった海岸沿いの干拓地で発見されている。江戸幕府がツルの保護を呼びかけていたことから薩摩藩も領民にツルの保護を命じ、以降もツルが渡来するようになった。
明治維新によってツルを保護する拠り所がなくなると一転して狩猟の対象とされるようになり、明治中期には乱獲によってついには1羽も渡来しなくなった。1895年(明治28年)に狩猟法が制定され保護されるようになってから再び渡来するようになり、大正から昭和初期にはツルを見物するための鶴見馬車が運行されたり見物所(鶴見亭)がつくられるなど出水平野の名物として定着していった。1923年(大正12年)に開通した鹿児島本線は、当初は出水平野中央部を通り抜ける計画であったが、鳥類学者の内田清之助が鉄道省にツルの保護を訴え渡来地周辺を迂回するルートに変更させている。渡来するツルの数は1919年(大正8年)の調査で150-160羽、1927年(昭和2年)には275羽、1939年(昭和14年)には3908羽と増加していったが、第二次世界大戦中に越冬地周辺に設置された海軍飛行場(出水海軍航空隊)の影響や保護活動の縮小などにより1947年(昭和22年)には275羽まで減少した。
戦後、1952年(昭和27年)3月29日に「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として特別天然記念物に指定された。1955年(昭和30年)、当時の防衛庁(後の防衛省)が旧海軍飛行場の再利用を計画したが市民の反対運動にあって断念している。1962年(昭和37年)に「鹿児島県ツル保護会」が結成され、翌1963年には渡来数が千羽を越えた。1976年(昭和51年)に軍事境界線での米韓合同軍事演習が始まってから渡来数が急増し、1992年(平成4年)には1万羽を越えるまでになった。1987年(昭和62年)から「出水ツルマラソン大会」が開催されるようになり、1989年(平成元年)11月1日には「ツル観察センター」が、1995年(平成7年)4月21日には「ツル博物館クレインパークいずみ」がそれぞれ開館し、啓蒙活動や観光の拠点として利用されるようになった。一方でツルが出水平野に集中することによる問題点が指摘されており、2001年(平成13年)から越冬地を西日本各地へ分散させるための調査が進められている。
また、1987年(昭和62年)11月1日には周辺の高尾野町とともに、国指定出水・高尾野鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている(全体で、面積842ha、うち特別保護地区54ha)。
参考文献
- 出水郷土誌編集委員会編 『出水郷土誌 下巻』 出水市、2004年
- 千羽晋示 『かごしま文庫20 出水のツル』 春苑堂出版、1994年、ISBN 4-915093-26-3