六甲比命神社

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六甲比命大善神社
多聞寺奥の院、六甲比命神社
所在地 兵庫県神戸市灘区六甲山町
位置 北緯34度45分58.72秒
東経135度14分21.91秒
座標: 北緯34度45分58.72秒 東経135度14分21.91秒
主祭神 六甲比命大善神(瀬織津姫)
神体 磐座
地図
六甲比命大善神社の位置(神戸市内)
六甲比命大善神社
六甲比命大善神社
六甲比命大善神社の位置(兵庫県内)
六甲比命大善神社
六甲比命大善神社
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六甲比命大善神社(ろっこうひめだいぜんじんじゃ)は、兵庫県神戸市灘区六甲山町にある、荘厳な磐座をご神体とする神社である。

六甲山頂尾根付近に位置し、近くには六甲山カンツリーハウス敷地内に天穂日命の磐座もある。

仰臥岩、雲が岩、心経岩の中間地点に位置する壮大な磐座が御神体で、7世紀にインドから渡来した法道仙人が創建した吉祥院多門寺(神戸市北区唐櫃)の奥の院となっている[1]

祭神[編集]

祭神名は六甲の山名の変遷とともに変わってきたようである。水の神としての神徳は六甲周辺において、日本三大名泉の有馬温泉、布引の滝のKOBE WATER、灘五郷の宮水に顕著である。

六甲山は江戸時代以前には武庫という漢字があてられ、むこうやま、むこやまと呼ばれ、さらに古くは、賀茂真淵の『冠辞考』 あまざかるの項に記されているように、向かつ峰の名が伝わるので、祭神名は当初はむかつひめと呼ばれ、近世まではむこうひめとよばれていたと思われる。六甲は「むかつ」と読める。

六甲山は、かつて西宮市廣田神社の社領であり[2]廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ 又の名を瀬織津姫)と六甲山の旧名の向かつ峰の名称が一致する。

歴史[編集]

六甲比命神社の磐座は天然に出来たものではなく縄文時代のころ、縄文人たちの手によって巨石を積み上げて出来た人工の磐座である。 一説によれば縄文中期(BC5,000年頃)に出来たのではないかと言われている。

役行者の縁者、四鬼家が奈良の天川村洞川より唐櫃に移住して、西六甲の山を管理していた。

六甲比命講によると、「かつては廣田神社の奥宮で、さらに天照坐皇大御神荒御魂をお祀りする伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の奥宮でもあったと考えられる」そうである。ちなみに、荒祭宮は、遷宮制度が導入される以前、内宮正宮の西側敷地で祀られていたことが、伊勢神宮の公式の由緒書きに記されている。また六甲比命講は、六甲比命が向か津姫=瀬織津姫と同一の神であることを特定し、六甲比命大善神の磐座の存在が六甲山の山名の由来であると推定しているが、これらは『ホツマツタエ』の記述から導き出されたものであるとする。

 瀬織津姫を主祭神としている神社の総本宮と位置づけうる神域とされる。

7世紀、インドからの渡来僧侶法道仙人が六甲山吉祥院多聞寺 (神戸市北区)を創建した際、六甲比命神社境内の雲ヶ岩に毘沙門天(多聞天)が降臨したことから、多聞寺の奥の院となった。毘沙門天と吉祥天は仏教本尊の中では珍しく、夫婦の関係である。

その後、江戸時代までは寺院と神社で共同管理されていたが、明治政府の神仏分離政策によって、境内の雲ヶ岩や法道仙人が作った心経岩は分けて管理されるようになった。

現在は多聞寺と六甲比命講によって共に管理され、秋には六甲比命講と多聞寺住職による護摩供養が催されている。

近年[編集]

近年、パワースポットとして知られるようになり参拝客も増えているが、増加に伴いゴミを境内に捨てていく者や、聖なる岩である雲ヶ岩の上に登って座り込んだり、雲ヶ岩の上で写真を撮るマナーの悪い参拝者や観光客もいる。 さらに多聞寺に許可を得ず、神社にあやかった写真販売やパワーストーンを販売したり、中には高額なツアーを組むスピチュアルグループ等がおり問題となっている。


アクセス[編集]

現在は、六甲比命講が『六甲山の上美術館 「さわるみゅーじあむ」』ゲート前の駐車場を月極め契約しており、参拝者は美術館の駐車場を利用して参拝が出来るようになっている。駐車場出入り口に六甲比命神社の案内看板が出ており駐車場から徒歩3分程度歩けば参道入口に着く。 (トイレは無いので周辺の公衆トイレを使用する必要がある。)

また境内が縄文時代から続く太古の自然の森の中にあるため、ごみ箱等が一切無く、参詣時のゴミは各自持ち帰りとなることに注意されたい。

写真集[編集]

出典・注釈[編集]

  1. ^ 『神戸の伝説』田辺眞人著神戸新聞総合出版センター
  2. ^ 『西宮神社』(学生社刊)p53

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

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