二木重高

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二木重高
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
官位 豊後(受領名)
主君 小笠原長時武田信玄
氏族 二木氏
父母 父:二木重信
兄弟 重高政久宗末
重吉盛正
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二木 重高(ふたつぎ しげたか)は、戦国時代武将信濃小笠原氏の家臣。信濃国安曇郡中塔城主。

生涯[編集]

二木氏は信濃小笠原氏の支流。南北朝時代小笠原貞宗の子・政経が信濃安曇郡住吉荘内の地頭職を分与され、二ツ木郷に移住する。その後、子孫の貞明の代で二木氏を名乗ったという。

重高は信濃守護小笠原長時に仕えた。天文17年(1548年)、長時に従って塩尻峠の戦いに出陣するが、合戦の最中武田方に寝返っている。同19年(1550年)の野々宮合戦には小笠原方として戦功を挙げている。

天文23年(1554年)、長時が越後国に流亡すると重高は武田信玄の傘下に入った。翌24年(1555年)、謀反の疑いを掛けられた三村長親粛清で功を挙げたが、以後の消息は不明。

二木一族の岩波平左衛門は天正10年(1582年)の織田信長甲州征伐に際し、武田勝頼に逆心し、岩岡佐渡守が守る中塔城に合流した[1]

逸話[編集]

三村長親謀反の際に、信玄は讒言をした長親と、起訴された重高を問い詰めた。重高は身の潔白を証明し、結果無罪となった。 が、三村長親に武田家は謀反され、信玄は「重高に図られた」と嘆いた。

しかし重高は馬場信春とともに、長親を討ち果たしたと聞き、信玄は、自らが重高の至誠を見抜けなかったことを恥じたという。

脚注[編集]

  1. ^ 『武田氏滅亡』KADOKAWA、2017年2月24日、600頁。