神風串呂
神風串呂(しんぷうかんろ)は、神皇正統の天皇家に極秘に伝承された皇霊学(神道学)のことでカミカゼクシロと呼ばれることもある。単に串呂(くしろ、かんろ)とも呼ばれ、また「串呂哲学」とも「地文学」ともいう。「串呂哲学」という名称は、三浦芳聖が1956年(昭和31年)に著述した『串呂哲学第一輯-絶対真理の解明』の原稿を読んだ京都の両洋学園長・中根正親(中根式速記法の創案者)が名付けたと言われている。
解説
[編集]元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴は、崇神天皇と垂仁天皇の御代、天照大御神が、御杖代と共に各地を巡行したのは元伊勢神宮による結界を張るためで古神道では結界のことをクシロといい「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べている[1]が、元伊勢クシロのクシロは神風串呂の串呂(くしろ)のことである。[2]
神風串呂という言葉が最初に活字になったのは、愛知県豊川市御津町出身の山口保吉の著書『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)で、服部美次の書いた叙に「神風串呂」という熟語が見られる。[3]このことから「神風串呂」は南北朝時代に三河吉野朝が存在したと伝承される東三河地方(豊川市御津町周辺)に、代々伝承されていた事が判明している。
神風串呂を串呂哲学として大成したのは、戦後、南朝正統の皇胤であると主張した愛知県豊川市の三浦芳聖である。1913年(大正2年)6月30日、父親が今わの際に発した絶叫「おくごおりのざおうざんより きそのみうらやまをみよ!(奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ!)」が串呂哲学解明のヒントになり、学生時代の1921年(大正10年)頃、陸地測量部(現・国土地理院)発行の地勢図で、愛知県田原市の「蔵王山の山巓」と長野県木曽郡王滝村の「三浦山の山巓」を糸で結んでみた所、その一直線上に、田原市の蔵王山、蒲郡市大塚町の大門、岡崎市牧平町の大門、岐阜県中津川市付知町の大門、長野県木曽郡王滝村の「三浦山の山巓」が串線していた事から、串呂の存在を知ることになったが何を意味するのか不明であった。[4]
この串呂の啓示する意味が判明したのは、三浦芳聖が父親の遺言に従い、1924年(大正13年)数えの21才になって徴兵検査を受けた後、父親から指定された場所から三浦家に一子相伝極秘で伝承された「三浦家系図」を掘り出し、三浦家が後醍醐天皇から三種の神器を継承した内伝の天皇である尊良天皇の嫡孫であることを知ってからであった。[4]すなわち、最後の内伝の天皇(大宝天皇)が、この串呂線上に天岩戸篭りし「三浦」と名乗った事が地文に秘められていると理解され、串呂哲学の要諦が一気に解明された。[2]
参考文献
[編集]- 山口保吉『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)
- 山口保吉『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)
- 三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す-神皇正統家極秘伝の神風串呂(串呂哲学と地文学)及皇統家系譜其他文献を以て』(神風串呂講究所、1970年)
- 保阪正康「天皇が十九人いた」『さまざまなる戦後』文藝春秋、1995年。
- 山田雅晴『続・太陽の神人黒住宗忠』たま出版、2009)
著書
[編集]- 『串呂哲学第一輯-絶対真理の解明』(大竹書店、1956年)
- 『日本歴史の誤謬を正す : 神皇正統家極秘伝神風串呂に依る』(神風串呂講究所、 1968年(昭和43年))
- 『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す-神皇正統家極秘伝の神風串呂(串呂哲学と地文学)及皇統家系譜其他文献を以て』(神風串呂講究所、 1970年(昭和45年))