ルートヴィヒ・ルドルフ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)
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ルートヴィヒ・ルドルフ Ludwig Rudolf | |
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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 | |
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在位 | 1731年 - 1735年 |
出生 |
1662年3月8日![]() ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、ヴォルフェンビュッテル |
死去 |
1735年3月1日(72歳没)![]() ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、ブラウンシュヴァイク |
埋葬 |
![]() ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、ブラウンシュヴァイク大聖堂 |
配偶者 | クリスティーネ・ルイーゼ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン |
子女 |
エリーザベト・クリスティーネ シャルロッテ・クリスティーネ アントイネッテ・アマーリエ |
家名 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 |
父親 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒ |
母親 | エリーザベト・ユリアーネ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ノルブルク |
ルートヴィヒ・ルドルフ(Ludwig Rudolf, 1671年6月22日 - 1735年3月1日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の一人で、ヴォルフェンビュッテル侯(在位:1731年 - 1735年)。アントン・ウルリヒの末息子。アウグスト・ヴィルヘルムの弟。
生涯[編集]
1690年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の下で少将になったが、大同盟戦争の最中にフランスとの戦いで捕虜になった。同年のうちに解放された後、父はブランケンブルク伯領を、兄アウグスト・ヴィルヘルムを差し置いてルートヴィヒ・ルドルフに与えた。1707年、ブランケンブルクは神聖ローマ帝国の侯領に昇格し、ルートヴィヒ・ルドルフは兄に先立って領邦君主となった。その後1731年、兄が子を残さずに死去したため、ヴォルフェンビュッテルも相続した。兄の下でヴォルフェンビュッテルの財政は破綻寸前に陥っていたが、ルートヴィヒ・ルドルフは経営を立て直した。
1735年3月1日に死去したが、男子がなかったため、従弟で末娘アントイネッテ・アマーリエの夫であるフェルディナント・アルブレヒト2世が相続人となった。しかし、半年後にこの娘婿も死去したため、孫のカール1世が後を継いだ。
子女[編集]
1690年にエッティンゲン=エッティンゲン侯アルブレヒト・エルンスト1世の娘クリスティーネ・ルイーゼと結婚した。2人の子のうち成人に達したのは3女である。
- エリーザベト・クリスティーネ(1691年 - 1750年) - 神聖ローマ皇帝カール6世と結婚。マリア・テレジアの母。
- シャルロッテ・クリスティーネ(1694年 - 1715年) - ロシア皇帝ピョートル1世の嫡男アレクセイと結婚。ピョートル2世の母。
- アントイネッテ・アマーリエ(1696年 - 1762年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世と結婚。
爵位・家督 | ||
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先代 アウグスト・ヴィルヘルム |
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 1731年 - 1735年 |
次代 フェルディナント・アルブレヒト2世 |