ラディスラウス・フィリップ・フォン・エスターライヒ

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ラディスラウス・フィリップ
Ladislaus Philipp
ハプスブルク=ロートリンゲン家
1893年の新聞のイラスト

全名 Ladislaus Philipp Maria Vincenz
ラディスラウス・フィリップ・マリア・ヴィンツェンツ
称号 オーストリア大公
敬称 殿下
出生 (1875-07-16) 1875年7月16日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国アルチュート英語版
死去 (1895-09-06) 1895年9月6日(20歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダペスト
父親 ヨーゼフ・カール
母親 クロティルデ
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ラディスラウス大公、1895年の写真
死せるラディスラウス大公

ラディスラウス・フィリップ・マリア・ヴィンツェンツ・フォン・エスターライヒ(Ladislaus Philipp Maria Vincenz von Österreich, 1875年7月16日 アルチュート英語版 - 1895年9月6日 ブダペスト)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇族、軍人。

生涯[編集]

ハンガリー系ハプスブルク=ロートリンゲン家ヨーゼフ・カール大公と、その妻のザクセン=コーブルク=ゴータ公女クロティルデの間の第5子、次男として生まれた。熱心なカトリック活動で知られたハインリヒ・ヒンメル・フォン・アーギスブルクドイツ語版陸軍中将が教育係となり、ハンガリー陸軍第6歩兵連隊(Ungarischen Infanterie Regiment Nr. 6)で軍事教育を受けた[1]。その後、ハンガリー陸軍第37歩兵連隊(Ungarische Infanterie Regiment Nr. 37)に転じ、同連隊所属の少尉となる。セルビア王国白鷲勲章英語版を受けたほか[2]、1895年にはオーストリアの皇族男子として金羊毛騎士団の1112人目の騎士にも任命された。

ラディスラウスは狩猟に熱中しており、1895年9月2日もアラド郊外の森で猪と山猫を獲物として狩りを楽しんでいた。彼は一匹の山猫を撃ち、その山猫を自分の銃床で叩いて獲物の息の根を止めようとした。ところが獲物に近づく際に銃の撃鉄が木の枝に当たったはずみで、ラディスラウスは自分に向けて弾を撃ってしまい、弾は右足の太腿を直撃した。銃弾は大腿骨の至近位置で破裂し、傷は衣服の一部が傷口に入り込むほど深いものであった。ラディスラウスはブダペシュトの聖エルジェーベト病院(Szent Erzsébet Kórház)に運び込まれたが、9月5日には骨髄炎ガス壊疽を発症し、翌日に20歳で死亡した。

大公に終油の秘跡を授けたイエズス会の司祭ペーター・シェファー(Jakob Schäffer)によれば、ラディスラウスは死に際して毅然とした態度を見せ、最後の力を振り絞って微笑みながら「私は[死を]怖れていません、神の許で休息できるのを喜んでいるのです(Ich fürchte mich nicht, ich kehre freudig ein zu meinem Gott.)」と述べたという[3]。遺骸はブダ王宮内の宮中伯家納骨堂ハンガリー語版に葬られた[4]

死後[編集]

ラディスラウスの事故死は、若い青年皇族の悲運として当時の多くの人々の注目を集め、その死は世界各国の新聞で報道された。オーストラリアロックハンプトンの地方新聞「南回帰線英語版」紙は、1895年11月2日付の記事の中で、ラディスラウスを「愛すべき人物で、賢く心優しい」皇子だったと紹介した[5]ドイツメンヒェングラートバッハで発行された絵入り新聞「カトリック世界(Die katholische Welt)」紙は、1896年第2号にラディスラウスの追悼記事を出した。

これらとは対照的に、1895年当時にオーストリア駐在ドイツ大使を務めていた外交官のフィリップ・ツー・オイレンブルク侯爵はその回想録の中で、ラディラウスは愛らしくはあるが「全く愚かな(gottvoll dämlichen)」若者であり、ハンガリー人として育ったのでハンガリー語訛りの強いドイツ語しか話せなかった、と批判的に評している。同じくオイレンブルクの回想録ではラディスラウスの死因を心臓を自ら撃ったことによるとしているが、これは事実ではない[6]

ラディスラウスの父ヨーゼフ・カール大公は、ブダペシュト郊外の村ピリシュチャバ英語版に所有する城をラザロ会英語版に寄贈していた[7]。1898年、ヨーゼフ・カールはこの村に息子ラディスラウスを記念した修道院を建設させた[8]

参考文献[編集]

  • „The Capricornian“, Rockhampton, vom 2. November 1895: Nachruf
  • „Die katholische Welt“ , Nr. 2, 1896, Mönchengladbach: Nachruf mit Bild

外部リンク[編集]

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脚注[編集]

  1. ^ Geschichte des K. und K. Infanterieregiments Karl I., König von Rumänien, Nr. 6., 1851–1907, Budapest, 1908, Seite 256; Ausschnitt aus der Quelle
  2. ^ Handbuch des allerhöchsten Hofes und des Hofstaates seiner K.u. K. Apostolischen Majestät, Hof- und Staatsdruckerei, Wien, 1895, Seite 17; Ausschnitt aus der Quelle
  3. ^ Nachruf in: Die katholische Welt, Nr. 2, 1896, Seite 85 des 8. Jahrgangs, Mönchengladbach
  4. ^ Webseite zur Palatinsgruft Budapest
  5. ^ Beispiel einer ausführlichen Pressemeldung in Australien, The Capricornian, Rockhampton, vom 2. November 1895
  6. ^ Philipp zu Eulenburg: Erlebnisse an deutschen und fremden Höfen, Band 2, Neuauflage 2012, Seiten 10 und 11, ISBN 384241949X; Scans aus der Quelle
  7. ^ Webseite zu Piliscsaba
  8. ^ Webseite über die Kirchengeschichte von Piliscsaba, mit Stiftungsbrief des Gedenkklosters für Erzherzog Ladislaus