ユーリ・レヴィタン
ユーリ・レヴィタン | |
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Юрий Левитан | |
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レヴィタン(1944年) | |
| 生誕 |
1914年10月2日 |
| 死没 |
1983年8月4日(68歳没) |
| 職業 | アナウンサー |
ユーリ・ボリソヴィッチ・レヴィタン(ロシア語: Юрий Борисович Левитан、1914年10月2日(ユリウス暦9月19日) - 1983年8月4日)は、ソビエト連邦のラジオアナウンサーである。第二次世界大戦中から戦後の1960年代にかけて、全連邦ラジオにおける主要な出来事の発表は、全てレヴィタンがアナウンスを担当した。その中には、1941年のドイツによるソ連侵攻、1945年のドイツの降伏、1953年のスターリンの死、1961年のソ連による世界初の有人宇宙飛行などが含まれる[1]。
生涯
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レヴィタンは1914年10月2日にウラジーミルのユダヤ系の家庭で生まれた。父は仕立て屋、母は主婦だった。1930年代、レヴィタンは俳優を志してモスクワに移ったが、激しい訛りのためにその道を断たれた。しかし、特徴的な低い声が買われてモスクワの全連邦ラジオに採用された。1934年、放送でレヴィタンの声を聞いたヨシフ・スターリンは、レヴィタンが所属する放送局に電話をかけ、自身の声明を読み上げてほしいと依頼した。これにより、レヴィタンはスターリンの専属アナウンサーとなり、ソ連を代表するラジオアナウンサーとなった[1]。 1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻(バルバロッサ作戦)以降、モスクワの放送局はドイツ軍の爆撃を避けるために閉鎖されたため、レヴィタンは1941年9月にエカテリンブルクに疎開した。当時のレヴィタンは、ソ連を代表するアナウンサーであることから、居住地が秘匿されていた。1943年3月、レヴィタンは秘密裏に、ソ連のラジオ委員会が置かれたクイビシェフに移動した。
モスクワから疎開している間も、レヴィタンの放送は必ず「お知らせします。モスクワからお送りしています」(ロシア語: Внимание, говорит Москва! )の一声で始まった。レヴィタンは第二次世界大戦中に約2000回の放送を行った。それらの多くは、戦後の1950年代にアーカイブ目的でスタジオでの再現録音が行われた[1]。
戦後、レヴィタンは赤の広場での国家行事や国家としての声明を伝える放送を行った。1978年から1983年にかけて、毎年5月9日のソ連の戦勝記念日の恒例行事である「沈黙の1分間」の放送を担当した。
1980年にソ連人民芸術家の称号を受けた。1983年8月4日に心臓発作で死去し、遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された[1]。
脚注
[編集]- 1 2 3 4 Belenitskaya, Olga (2015年4月16日). “Moscow is speaking: The voice that brought hope to a nation”. Russia Behind the Headlines. 2015年5月6日閲覧。