ユニオン・ミニエール

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ユニオン・ミニエール社、正式名称ユニオン・ミニエール・デュ・オー・カタンガUnion Minière du Haut Katanga)社は、かつて存在した鉱山会社。本社はベルギーにあった。ベルギー・イギリス合弁により設立され、非鉄金属、特に及びコバルトにおいて圧倒的なシェアを占めた。現在はユミコア社となっている。ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)のカタンガ州の鉱業権を独占し、カタンガに巨大な企業帝国を築き上げ、「ベルギー領コンゴにはユニオン・ミニエールというもう一つの帝国がある」といわれた。

創業[編集]

ユニオン・ミニエールはカタンガの工業資源を開発するため、ソシエテ・ジェネラルなどの出資で1906年10月28日に設立された。カタンガの銅は地元民が手近な含有量の高い鉱石を採りつくしていたが、調査により浮遊選鉱を前提として莫大な資源が眠っていることが分かった。ユニオン・ミニエールには1990年3月までのカタンガでの独占的鉱業権が認められていた。

1911年には北ローデシアとカタンガとの鉄道が開通し、カタンガの資源を大量に輸出することが可能になった。 最初の年には997トンの銅鉱石が産出され、1919年には22000トンに達した。 1929年、ユニオン・ミニエールが出資したベンゲラ鉄道が全通し、アンゴラロビト港からより安価での輸出が可能になった。

マンハッタン計画[編集]

ユニオン・ミニエールは世界のコバルトの75%を生産しており、また1922年からはウラニウムの生産も行っていた。マンハッタン計画時には、アメリカの要請でシンコロブエ鉱山で採掘されたウランを提供していた。1936年ナチスドイツが、ベルギーに侵行する直前に、ジョリオ・キュリー等は重役会議に2回も訪れて、エドガー・サンジエー(Edgar Sengier)にたいして、「ベルギー鉱山の釉薬原料のラ ジウムの残渣のぼた山に、将来戦略物資となる筈の大量のウラニウムを購入したい。」と、商談を持ちかけて 断られた。ジョリオは目的を聞かれたので、「フランス領のゴビ砂漠で、核爆弾を作る。」と話した。あま りに理解不能だった為、最後に断ったところ、同伴のキュリー婦人は「将来必ず高く売れるので、あるだけ 全てをアメリカ合衆国に持ち込んで、ナチスが占領する前にアメリカ合衆国に移住する。」ように助言した。結局は、ニューヨーク州のステタン島にありったけのラジウム鉱砕であるウラニウムの原石を貯蔵した。丁 度、マンハッタン計画が、1942年にグローブスによって計画立案実行された時には、計画を賄えるウラニ ウム全てを上回る量が貯蔵してあり、グローブスは、天啓だと大変喜んだ。マンハッタン計画は、ローズベル ト大統領に助言したのは、アインシュタインの書簡文書であるが、アインシュタインにそうするように持ちか けたのは、レオ・シラードであり、手引きしたのは、キュリー等のユダヤ系研究者である。1942年にハイ ゼンベルグ博士の研究所のシンクルトロンが火災にあって、2週間以上鎮火しなかった外電にビックリ仰天し た原子物理研究学者は多かった。ハイゼンベルグ博士が、原子炉の製作に完成間近であることを臭わせたた かったからである。これも、アインシュタイン等の大統領向けの書簡作成計画の動機の一部である。これは、「ハイゼンベルグの戦い」、「エンリコフェルミ」、「闇の奥」等 http://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/77e88aa97c849828d9a39208cfa56d5e 藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』 に詳しい。

絶頂期[編集]

ユニオン・ミニエールは戦後も成長を続け、1959年にはコンゴ政府の歳入の50%がユニオン・ミニエールからの税収によってまかなわれていた。1960年には、ユニオン・ミニエールの売り上げは2億米ドルにのぼり、西側のウラン生産の60%、コバルト生産の73%、及び銅生産の10%を握っていた。ユニオン・ミニエールは鉱山だけでなく、従業員のための学校や病院、発電所や化学工場、鉄道などを持ち、カタンガのほとんどの企業の支配権を握っていた。

国有化[編集]

1960年、コンゴが独立すると、モイーズ・チョンベカタンガ国の分離独立を宣言し、コンゴ動乱が勃発した。このときはそれほどの影響はなかったものの、やがてモブツ・セセ・セコが独裁者としてコンゴの実権を握ると、彼と対立していくこととなる。 1966年12月31日、モブツはコンゴ国内のユニオン・ミニエールの全施設の国有化を宣言し、ジェカミンという国有企業とした。