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モンテベッロの戦い

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モンテベッロの戦い

モンテベッロの戦い
戦争第二次イタリア独立戦争(オーストリア・サルデーニャ戦争)
年月日1859年5月20日
場所イタリア北部、モンテベッロ(当時はサルデーニャ王国領)
結果:フランス・サルデーニャ連合軍の勝利
交戦勢力
フランスの旗 フランス帝国
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
指導者・指揮官
エリ・フレデリック・フォレ英語版 フィリップ・フォン・シュタディオン・ウント・タンハウゼンドイツ語版
ギュライ伯爵ドイツ語版
戦力
兵力 6,600名 兵力 約19,000名
砲 約12門
損害
死亡 フランス軍81名 サルディーニャ軍52名
負傷 492名
死亡 331名
負傷 785名
捕虜、不明者 307名
第二次イタリア独立戦争

モンテベッロの戦い(モンテベッロのたたかい、: Battle of Montebello ; : Battaglia di Montebello)は、第二次イタリア独立戦争中の1859年5月20日イタリア北西部ロンバルディア地方モンテベッロ・デッラ・バッターリアを中心に行われた戦闘。エリ・フレデリック・フォレ英語版率いるフランス帝国軍と少数のサルデーニャ王国軍の連合軍が、フィリップ・フォン・シュタディオン・ウント・タンハウゼンドイツ語版率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルデーニャ連合軍が勝利した。第二次イタリア独立戦争では最初の戦闘であり、その規模は比較的小さいものであった。

背景

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モンテベッロの戦いで決定打となったマウリツィオ・ゲルベ・ソナス率いる騎兵隊
マウリツィオ・ゲルベ・ソナス

プロンビエールの密約により対オーストリア帝国への強力な後ろ盾としてフランスナポレオン3世を味方に付けていたカヴールは、オーストリア帝国が先に攻撃しなければフランスの援助を得られないため、オーストリア帝国国境近くでサルデーニャ軍を行軍させてウィーン当局を刺激した。それに危機感を抱いたオーストリア帝国は1859年4月23日に最後通牒を発し、サルデーニャ軍イタリア語版の動員を完全に解除するよう要求した。それがなされないことを見ると、オーストリア帝国は4月29日にサルデーニャ王国に宣戦布告、密約に基づいてフランスが戦争に巻き込まれる結果となった[1]

戦闘の経過

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両軍の移動

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宣戦布告の時点でサルデーニャ王国に駐留しているフランス軍はおらず、フランス南仏にも戦力を分散させていたとはいえ同じく列強であるオーストリア帝国に対抗できるほどの軍事力の重心はパリを中心とする北部にあった。そのため、フランスは世界初の軍用列車の大規模使用を敢行して自軍を素早くピエモンテに移動させた。オーストリア帝国軍はフランス軍がピエモンテに到着する前により弱体なサルデーニャ軍イタリア語版を撃破して戦争終結を目指したが、ロンバルディアのオーストリア軍指揮官であるギュライ伯爵ドイツ語版は慎重に、ティチーノ川周辺を特定の方向もなしに行軍、やがて渡河して攻勢を開始した。彼にとって不幸なことに、大雨が降り始めてしまい、サルデーニャ軍イタリア語版は稲田を水没させてオーストリア帝国軍の進軍を遅滞させた[2]

開戦

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やがて、ギュライ伯爵ドイツ語版率いるオーストリア帝国軍がヴェルチェッリに到着してトリノを脅かしたが、フランス軍とサルデーニャ軍がアレッサンドリアカザーレ・モンフェッラート近くにあるポー川にかかっている橋の守備を強化したことでいったん撤退を余儀なくされた[2][3]

いくつかの小集落では何度か両陣営による小競り合いも発生しているが組織的なものではなく、ただし小集落ジェネストレッロ(: Genestrello)で起こった衝突は例外で、死者を出すなど比較的大規模なものに発展した[2]。この際、槍兵部隊のノヴァーラ第5連隊イタリア語版アオスタ第6連隊英語版および騎兵隊のモンフェラート第13連隊イタリア語版によって構成される軽旅団を率いて応援に駆け付けたマウリツィオ・ゲルベ・ソナス大佐は高い指揮能力を発揮し、戦後にその武勲を讃えられている[4]

その後、5月20日ついに「モンテベッロの戦い」が開戦[3]、これが本格的な初の軍事衝突となったが、サルデーニャ軍イタリア語版は兵力として少なく、フランス軍対オーストリア帝国軍の様相を呈していた。フィリップ・フォン・シュタディオン・ウント・タンハウゼンドイツ語版率いるオーストリア帝国軍1個軍団とエリ・フレデリック・フォレ英語版率いるフランス第1軍の1個師団の間で戦われた。オーストリア帝国軍の人数はフランス軍の3倍だったが、フランスが勝利しオーストリア帝国軍は敗走を余儀なくされた[2]。また上記の通りサルデーニャ軍イタリア語版の兵力は限られていたが、その中でもマウリツィオ・ゲルベ・ソナスはこの本戦でも高い能力を発揮した[4]

戦後

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戦後、今回の戦闘で活躍したノヴァーラ第5連隊イタリア語版アオスタ第6連隊イタリア語版および騎兵隊のモンフェラート第13連隊イタリア語版は槍兵部隊モンテベッロ第8連隊イタリア語版として再編成され、それは現在でもイタリア軍の連隊の名として残っている。

敗北したオーストリア帝国側はいまだサルデーニャ王国に対しては優位を保っているとしつつも、「準備の十年間」で想定以上にサルデーニャ王国が軍事力や戦術を強化していた事を認識し、さらにはフランスとの軍事力の差も明らかとなった。早期終戦も不可能となり、戦時体制への転換を余儀なくされた[2]。またギュライ伯爵ドイツ語版はモンテベッロの方角に仏・サルデーニャ連合軍の主力があると誤認し間違った方向に兵を進めた結果、続くパレストロの戦いで不意を突かれ戦力的に劣るサルデーニャ軍イタリア語版単独に敗北する失態を犯した[3]

また、トッリチェッラ・ヴェルツァーテではオーストリア帝国軍の将校カール・フォン・ウルバンイタリア語版イタリア人一家を虐殺していたことが発覚(シニョーリ家の虐殺イタリア語版)。カヴールは外交的手段を用いてカール・フォン・ウルバンイタリア語版を逮捕するよう訴え、イタリアだけでなくオーストリア帝国でも波紋を呼んだ[5]

脚注

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  1. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 177ページ
  2. ^ a b c d e La Campagna d'Italie de 1859:chroniques de la guerre(フランス語)
  3. ^ a b c 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 185ページ
  4. ^ a b GERBAIX DE SONNAZ, Maurizioイタリア人名辞典 (イタリア語)
  5. ^ Strage della famiglia CignoliBIBLIO TOSCANA(イタリア語)

関連項目

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