モンク・イーストマン

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モンク・イーストマンMonk Eastman1875年 - 1920年12月26日)は、ユダヤ系ギャング。ブルックリン生まれ。親は中堅レストラン経営者。本名はエドワード・オスターマン(Edward Osterman)。これ以外にもジョーゼフ・"ジョー"・モリス(Joseph "Joe" Morris)、ジョー・マーヴィン(Joe Marvin)、ウィリアム・"ビル"・ディレイニー(William "Bill" Delaney)、エドワード・"エディ"・ディレイニー(Edward "Eddie" Delaney)など多数の偽名を使っていた。曲がった鼻とつぶれた耳と全身に傷があることで知られていた。

イーストマンズ[編集]

1895年ごろニューヨーク市ロウアーマンハッタンに移住した。ニューアービングのダンスホールの武装用心棒から出発して、その威圧的な風貌と体躯からすぐにギャングのリーダーになった。収入は、賭けトランプ、管理売春、各地のスリや略奪犯罪からの上納金、政治組織タマニーホールへの武力サービスなどで、構成員は一時1100人以上に膨張し、イーストマンズと呼ばれた。リチャード・フィッツパトリックマックス・ツヴェルバッハジャック・ゼリグ(Jack Zelig)などを部下に持っていた。

労働運動に最初に介入したギャングの一人といわれている。手下を使いストライキをする労働者やスト破りをする者を病院送りにした。誰を襲うかは誰が多くイーストマンに金を多く払ったかによって決まった。

腐敗した民主党政治団体"タマニー・ホール"は、選挙の時期になると、1200名以上のイーストマン一派による"Get out the Vote"運動(有権者を選挙に行かせる運動)に依存するのが常だった。

イーストマンはまた、イタリア系のファイブ・ポインツ・ギャングと激しい縄張り争いを繰り広げた。1902年9月29日、イーストマンズ総勢60人がファイブ・ポインツの縄張りに侵入し、ガンファイトになった。17人が逮捕され、リボルバー15個、ナイフ8個、ブラックジャック3つを押収した。1902年10月4日、ファイブ・ポインツのガンマン35人が9月29日の仕返しでイーストマンズのサフォーク通りのアジトを急襲し、2階のビリヤード場に駆け上がった。流血のガンファイトの結果、数人が怪我した。29人が逮捕された。同年10月、タマニーホールのトム・フォーリーの仲介でファイブ・ポインツと平和協定を結んだ。1903年9月にはポール・ケリーが率いるギャングとリヴィングトンで派手な銃撃戦を繰り広げた[1]

100匹以上の猫や鳥を飼っており、大の動物好きだったという。

釈放と従軍[編集]

1904年に逮捕され、収監された。1909年出所すると、組織を継いだマックス・ツヴェルバッハは既に死に、組織は小集団に分裂し、彼の命令を聞く者はいなかった。往時のギャングリーダーに戻れないまま、小物の泥棒稼業を始め、強盗やアヘン密売で数回服役した(1912年、内紛でボスを亡くしたイーストマンズに一時復帰した)。

1916年、44歳のとき、第一次世界大戦に際して米国陸軍第27部隊の第106歩兵隊"オライアンズ・ラフネックス"に入隊し、フランスで戦い兵隊として活躍する。終戦後、アメリカに戻ったのち1919年に除隊。その後ニューヨーク州知事アル・スミスにより、奪われていた市民権を回復される。

1920年に腐敗した酒密造取締官ジェリー・ボーハン(Jerry Bohan)により5発の銃弾を浴びて殺害され、軍葬の礼により埋葬された。ボーハンは第1級殺人罪で有罪となり、3年後に出所した。

死後[編集]

1933年ホルヘ・ルイス・ボルヘスはイーストマンを題材にして短篇「不正調達者 モンク・イーストマン」(『汚辱の世界史』所収)を書いた。

脚注[編集]

  1. ^ Eric Ferrara (2011), Manhattan Mafia Guide: Hits, Homes & Headquarters, p80~p82

外部リンク[編集]