モヤレ

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モヤレ

ሞያሌ
Moyale
モヤレの位置(ケニア内)
モヤレ
モヤレ
モヤレの位置
座標: 引数の形式が認識できません
座標: 座標: 引数の形式が認識できません
エチオピアの旗 エチオピア
 ケニア
(両国にまたがる)
エチオピア:オロミア州の旗 オロミア州
ケニア:マルサビット
人口
 • 合計 41,600人
等時帯 UTC+3 (東アフリカ時間)

モヤレモイェール(Moyale, Moyalle)はエチオピアケニアにまたがる町。エチオピア側が規模が大きい。 ケニアモヤレ県英語版の行政中心都市でもある。 ケニアの首都ナイロビからエチオピアの首都アディスアベバを陸路で移動する場合、モヤレの国境検問所を通る場合が多い。 モヤレの周囲はディデ・ガルガルという名の砂漠である。 モヤレよりも北はエチオピア高原となり、南のケニア側より標高が400メートルほど高くなる。 この辺りのエチオピア高原の境は崖になっている所が多いが、モヤレの辺りは比較的通行が容易な地形になっている。

人口[編集]

エチオピア側[編集]

ケニア側[編集]

民族[編集]

(ボラナ人英語版、ソマリ族のガッレ英語版氏族等)

言語[編集]

治安[編集]

2010年時点では、モヤレ付近には家畜強盗団が多く[4]、特にモヤレとイシオロ英語版間の道路は危険である。

歴史[編集]

19世紀の末、イギリスはケニアを植民地に加えてイギリス領東アフリカを作ったが、エチオピアとの国境は曖昧だった。1905年、イギリスはギリシャ系エチオピア人英語版[要リンク修正]のザフィロ(Zaphiro)に命じ、モヤレに通関所を設けてエチオピアからの侵入を監視し、エチオピア領との国境を1907年に確定した[5]。この通関所はハリントンの砦と名づけられた。1908年に訪れたC.W.グウィン(Gwynn)によると、ザフィロの屋敷は山脈の切れ目にあり、数エーカーの庭があった。グウィンは「この場所を通る道は将来大きな交易に使われるようになるだろう。ハリントンの砦はその管理に適した位置に置かれている」と評している[6]。ザフィロは1909年まで駐在した[5]

1909年になると、イギリスは今日のケニア北東部に北部辺境地区を設け、メル英語版マルサビット英語版とモアレを行政中心都市としている[5]

第二次世界大戦中の1940年、この町はイタリアが占領し、イタリア領東アフリカの一部となった。1941年7月15日にイギリスが取り返している。

1999年の始め、エチオピアの反乱組織オロモ解放戦線英語版(OLF)がエチオピア軍に追われてケニアに越境し、さらにエチオピア軍もそれを追ってケニア側で銃撃戦となる事態になった[4]。そのためエチオピアとケニアの間にも緊張状態が発生した。そうした中、モヤレでイマーム(イスラーム指導者)が射殺される事件があり、これがオロモ解放戦線英語版(OLF)に同調的なエチオピア警官の仕業であるとして、モヤレのケニア側でデモが発生している[7]

2009年11月、エチオピアの首相メレス・ゼナウィは、エチオピアの鉄道をモヤレまで延長する計画を発表した。これは、ケニアが港町ラムと各地とをターマックの道路で結ぶという計画に乗ったものだった[8]

脚注[編集]

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  1. ^ City Population(閲覧日:2016年8月22日)
  2. ^ City Population(閲覧日:2016年8月22日)
  3. ^ 1994 Population and Housing Census of Ethiopia: Results for Oromia Region, Vol. 1, part 1, Tables 2.1, 2.3, 2.14, 2.17 (accessed 6 April 2009)
  4. ^ a b 外務省 ケニアに対する渡航情報(危険情報)の発出、2010年10月06日付
  5. ^ a b c 和田正平 『現代アフリカの民族関係』、2001年、ISBN 4-7503-1420-X、pp.485-510
  6. ^ C. W. Gwynn, "A Journey in Southern Abyssinia", Geographical Journal, 38 (August 1911), p. 122
  7. ^ "Horn of Africa, Monthly Review, December '98-January '99", UN-OCHA Archive (accessed 23 February 2009)
  8. ^ "Kenya, Ethiopia for joint infrastructure (November 24, 2009)" Archived 2011年7月20日, at the Wayback Machine., press release of the Ethiopian Ministry of Foreign Affairs (accessed 28 December 2009)