ミールザー・ジャワーン・バフト (シャー・アーラム2世の皇子)

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ミールザー・ジャワーン・バフト
Mirza Jawan Bakht
ムガル帝国皇子
ミールザー・ジャワーン・バフト

出生 1749年
デリー
死去 1788年5月31日
ヴァーラーナシー、シワーラー宮殿
子女 4人の息子と8人の娘
父親 シャー・アーラム2世
母親 タージ・マハル
宗教 イスラーム教スンナ派
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ミールザー・ジャワーン・バフト(Mirza Jawan Bakht, 1749年 - 1788年5月31日)は、北インドムガル帝国の第15代皇帝シャー・アーラム2世の長男。同国第16代皇帝アクバル2世の兄でもある。ミールザー・ジャハーンダール・シャー(Mirza Jahandar Shah)とも呼ばれる。

生涯[編集]

1749年、ムガル帝国の皇帝(このときはまだ皇帝ではない)シャー・アーラム2世とその妃タージ・マハルとの間に生まれた[1].[2]

1760年10月9日、傀儡の皇帝シャー・ジャハーン3世マラーターに廃位されたとき、ミールザー・ジャワーン・バフトは一時的にデリーの摂政となった[1]。その翌日、彼は帝国の皇太子となった[1]

1761年1月14日マラーター同盟軍とアフガン勢力ドゥッラーニー朝第三次パーニーパットの戦いで激突し、アフガン軍が勝利した。そののち、ナジーブ・ハーンがその代官となると、彼とともにデリーを統治することとなった。

1772年1月に父帝シャー・アーラム2世が帰還するまで、ナジーブ・ハーンらとデリーを統治した。なお、この間にデリーはマラーターのマハーダージー・シンディアによって占領されていた。

同年から帝国の武将ミールザー・ナジャフ・ハーンが帝国の巻き返しを図ると、ミールザー・ジャワーン・バフトもこれに付き従い、1782年までに帝国の版図を一定の地域にまで広げた。この間、1781年5月2日に弟のミールザー・アクバル(のちのアクバル2世)が皇太子に任命され、これはイギリス東インド会社からも認められた[3]

1782年にミールザー・ナジャフ・ハーンが死亡し、マハーダージー・シンディアがその副官の争いを収めて帝国の実権を握った。だが、彼を嫌っていたミールザー・ジャワーン・バフトは、1784年4月14日にデリーを逃げ、アワド太守の首都ラクナウに定住した[1]。その後、イギリスからの年金受給者となり、ヴァーラーナシーのシワーラー宮殿を与えられた[1]

1788年5月31日、ミールザー・ジャワーン・バフトはヴァーラーナシーの宮殿で死亡した[1]

出典・脚注[編集]

関連項目[編集]