ミハウ・フリデリク・チャルトリスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハウ・フリデリク・チャルトリスキ
Michał Fryderyk Czartoryski

出生 (1696-04-26) 1696年4月26日
死去 (1775-08-13) 1775年8月13日(79歳没)
配偶者 エレオノーラ・モニカ・ヴァルドシュタイン
子女 アントニナ
コンスタンツィア
アレクサンドラ
家名 チャルトリスキ家
父親 カジミェシュ・チャルトリスキ
テンプレートを表示

ミハウ・フリデリク・チャルトリスキポーランド語:Michał Fryderyk Czartoryski, リトアニア語:Mykolas Frederikas Čartoriskis, 1696年4月26日 - 1775年8月13日)は、ポーランド・リトアニア共和国の大貴族(マグナート)、公。

生涯[編集]

リトアニア大法官を務めたカジミェシュ・チャルトリスキ公の長男。実弟アウグスト・アレクサンデル、義弟スタニスワフ・ポニャトフスキと共に形成した「ファミリア」の総帥として、共和国内におけるチャルトリスキ家の勢力伸長に努めた。彼は1720年リトアニア大膳官に、1722年ヴィリニュス城代となり、1752年にはリトアニア大法官の座についた。またグロズク、ウツク、ウシヴィアツク、ユルボルスク、クピスク、ピェニャンスクの代官でもあった。1726年10月にプラハでエレオノーラ・モニカ・ヴァルドシュタインと結婚し、3人の娘をもうけた。長女アントニナの娘イザベラ・フレミングと、弟アウグスト・アレクサンデルの息子アダム・カジミェシュは1761年に結婚している。また三女アレクサンドラはミハウ・カジミェシュ・オギンスキと結婚した。

叙勲[編集]