ミハイル・プルサク

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ミハイル・プルサク
Михаил Михайлович Прусак
ミハイル・プルサク(左、右隣はウラジーミル・プーチン)
生年月日 (1960-02-03) 1960年2月3日(64歳)
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ウクライナイヴァーノ=フランキーウシク州
出身校 コロミスコエ教育大学
前職 コムソモール第一書記ソフホーズ所長、ソ連人民代議員最高会議代議員、ロシア連邦上院議員
所属政党 ロシアの統一と合意党我が家ロシア統一ロシア

在任期間 1991年 - 2007年
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ミハイル・ミハイロヴィチ・プルサクロシア語: Михаил Михайлович Прусак、ラテン文字転写の例:Mikhail Mikhaylovich Prusak1960年2月3日 - )は、ソビエト連邦およびロシア政治家1991年から2007年までノヴゴロド州知事。西ウクライナイヴァーノ=フランキーウシク州出身のウクライナ人。なお姓の「プルサク」については、露語版ではプルーサクПру́сак) 、英語版ではプルサークПруса́к)と表記揺れが見られる。

経歴[編集]

1979年コロミスコエ教育大学を卒業する。大学卒業後、教職に就く。兵役を終了した後、1982年ソ連共産党中央委員会付属党学校で学んだあと、コムソモール活動入りし、1986年から1988年にノヴゴロド州ホルムスク地区コムソモール第一書記。1988年から1991年ホルムスク地区ソフホーズ所長。1989年から1991年までソ連人民代議員最高会議代議員。[1] 1991年10月24日ノヴゴロド州行政長官(知事)に任命される。1993年ロシア連邦議会選挙上院連邦会議議員に当選する。上院ではロシアの統一と合意党会派に参加し、独立国家共同体(CIS)問題委員会委員。1995年ロシア下院選挙と同時に実施されたノヴゴロド州知事選挙では56.17パーセントを獲得し、再選された。1995年我が家ロシアに参加。1996年上院国際問題委員会委員。2001年ロシア民主党議長に選出された。2005年統一ロシアに入党し、同年6月統一ロシア・ノヴゴロド書記に選出された。

2007年8月3日北西連邦管区イリヤ・クレバノフ大統領代表にノヴゴロド州知事職の辞表を提出した。ウラジーミル・プーチン大統領は辞任を認める署名をし、後任にセルゲイ・ミーチンを任命した。

脚注[編集]

  1. ^ Mikhail Mikhaylovich Prusak biography”. Centre for Russian Studies. 2007年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年9月26日閲覧。

外部リンク[編集]


公職
先代
(創設)
ノヴゴロド州知事
1991 - 2007
次代
セルゲイ・ミーチン