ポストドラマ演劇

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エルフリーデ・イェリネク
ハイナー・ゲッベルス。
サラ・ケイン作4.48 Psychoseのドルトムント公演。
フェリドゥン・ザイモグル

ポストドラマ演劇(Postdramatisches Theaterドイツ語、Postdramatic Theatre英語)は、ドイツの演劇学者ハンス-ティス・レーマン(Hans-Thies Lehnmann)が1999年に刊行した演劇研究書。また同書により定着した現在の新しい演劇傾向を指す演劇用語。

内容[編集]

レーマンは『ポストドラマ演劇』で1970年代以降主にヨーロッパ演劇界で起きていたさまざまな新傾向を紹介、概括した。同書は国際的反響を呼び[1]、2002年日本語版(谷川道子ほか訳、同学社、全訳)を皮切りに十数の言語に翻訳された[2]。これに伴い、ポストドラマ演劇も演劇用語として定着した。

ポストドラマ演劇は、ドラマ演劇(イプセン作品に代表される言語・台詞が主要な役割を果たす演劇)以後の演劇という意味であるが、その内容を巡ってさまざまな論争を引き起こした。論争の重要な焦点は、ポストドラマ演劇の提唱は、“戯曲を否定する演劇”の提唱だとみなされたことであった。レーマンがポストドラマ演劇を提唱した重要な背景に、ドラマ演劇の基礎になっていた“個性をもった人間”という概念が今日では通用しなくなったというフランス現代哲学思想があることが指摘されている[3]。しかしレーマン自身は『ポストドラマ演劇』の中で“ポストドラマ演劇”が生まれてくる必然性を強調しつつも、同時に決して“ドラマ演劇”を否定するものではなく、“ポストドラマ演劇”が将来“ドラマ演劇”を消滅させたり“ドラマ演劇”に取って代わったりするものでもないと、繰り返し述べている。

日本演劇学会は2019年に機関誌『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号(2019年3月)で「ポストドラマ演劇『研究』の現在」特集を組んだ。特集編集にあたった山下純照は巻頭の「特集へのガイダンス」で「ポストドラマ演劇とは、文学的テクストつまり戯曲を用いるか否かにかかわらず、それがもはや中心にはなっておらず、言い換えれば戯曲を上演することとしては定義できない演劇であって、むしろ多様な演劇的要素を平等に扱うような演劇のことである」[4]と彼の“理解”を述べている。山下は、これは“理解”であって“定義”ではないことを強調している。すなわち、ポストドラマ演劇は1970年代以降の各種の演劇新傾向の紹介と総括であって、一つの理論を提出したものではなく明確な定義は困難、ということである。また、ポストドラマ演劇はさまざまな新傾向演劇の総称であり、単一のポストドラマ演劇という演劇形態が存在するわけではない、ということでもある。

結局のところ、ポストドラマ演劇はこれまで前衛演劇、実験演劇などと呼ばれてきた演劇形態とほぼ同一のものを指す用語と言える。レーマンの新しさは、それをドラマ演劇と結びつけたポストドラマ演劇という用語を提出することで、その演劇史上の位置をより明確にしたことにあるといえよう[5]

日本のポストドラマ演劇[編集]

レーマンは『ポストドラマ演劇』プロローグ・名前で、日本の演劇人として勅使川原三郎鈴木忠志を挙げている[6]。この二人以外に、『ポストドラマ演劇』の中でアジア系演劇人の名は挙がっていない。山下純照は、上述の「特集へのガイダンス」注4で日本のポストドラマ演劇の演劇人として、倉持裕岡田利規三浦大輔宮沢章夫藤田貴大矢野靖人松本雄吉天野天街三浦基らの名を挙げている[7]

参考文献[編集]

  • 谷川道子ほか訳『ポストドラマ演劇』 同学社 2002年
  • 『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号「ポストドラマ演劇『研究』の現在」特集(日本演劇学会 2019年3月)
  • Marijke Hoogenboom、Alexander Karschnia: NA(AR)HET THEATER-劇場の後?、アムステルダム2007、ISBN 978-90-812455-1-7

参考資料[編集]

  • Sugiera, Malgorzata (2004). Beyond Drama: Writing for Postdramatic Theatre. Theatre Research International, 29 (1), pp. 6-28. doi:10.1017/S0307883303001226
  • Lehmann, Hans-Thies (2006). Postdramatic Theatre. Translated and with an introduction by Karen Jürs-Munby. London and New York: Routledge. ISBN 978-0-415-26813-4 
  • Fischer-Lichte, Erika; Wihstutz, Benjamin (2018). Transformative Aesthetics. Oxon and New York: Routledge. ISBN 978-1-138-05717-3 
  • Jürs-Munby, Karen; Carroll, Jerome; Giles, Steve (2014). Postdramatic Theatre and the Political: International Perspectives on Contemporary Performance. Methuen Drama. ISBN 978-1408184868.

出典[編集]

  1. ^ 本文で述べられているように、日本演劇学会機関誌『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号は「ポストドラマ演劇『研究』の現在」特集を組み、ドイツ以外にイギリス、ベルギー、フランス、中国での反響を各論文で紹介している。十分に国際的反響を呼んだと言えよう。
  2. ^ 「ハンス-ティス・レーマン(Hans-Thies Lehnmann)Postdramatisches Theater(ドイツ語)、Postdramatic Theatre(英語)は1999年にドイツで刊行されて以後大きな反響を呼び、今日まで十数の言語に翻訳されたという。」瀬戸宏「レーマン『ポストドラマ演劇』、中国と日本」『Act』(国際演劇評論家協会日本センター関西支部機関誌)26号、ネット誌のためページ数記入不能
  3. ^ 「「ポストドラマ演劇」におけるこうした行動の中断や主体の解体という契機の思想的な背景には、デリダラカンなど、主にフランス現代思想に見られる脱構築の哲学がある。」針貝真理子「ベルギー・フランデン文化圏から見る『ポストドラマ演劇』-ニードカンパニー『ロブスターショップ』における「中断」の演出を例に」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号p11上段
  4. ^ 『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号p2上段
  5. ^ 「レーマンの本書は、「演劇」を間領域性のなかに雲散霧消させてしまうのではなく、広義においてドラマ/パフォーマンスの中に位置づけ返し、ウイルソンヤン・ファーブルピナ・バウシュ等々まで含んださまざまな新しい演劇を「ポストドラマ演劇」という視覚から把えなおす、演劇(論)のサバイバル戦略ともとれる。」谷川道子「可能性としての演劇、あるいは「ポストドラマ演劇」?-訳者あとがきに代えて-」『ポストドラマ演劇』p348下段
  6. ^ 『ポストドラマ演劇』p25上段
  7. ^ 『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号p7下段

外部リンク[編集]