フランツ・ヨシアス (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)

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フランツ・ヨシアス
Franz Josias
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
Francis Josias, duke of Saxe-Coburg-Saalfeld.jpg
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・ヨシアス、1750年頃
在位 1729年 - 1764年

出生 (1697-09-25) 1697年9月25日
ザールフェルト
死去 (1764-09-16) 1764年9月16日(66歳没)
バート・ローダッハ
埋葬 コーブルク、ザンクト・モーリッツ教会
配偶者 アンナ・ゾフィア・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット
子女 エルンスト・フリードリヒ
ヨハン・ヴィルヘルム
クリスティアン・フランツ
シャルロッテ・ゾフィー
フリーデリケ・カロリーネ
フリードリヒ・ヨシアス
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=ザールフェルト公ヨハン・エルンスト
母親 シャルロッテ・ヨハンナ・フォン・ヴァルデック=ヴィルドゥンゲン
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フランツ・ヨシアスFranz Josias von Sachsen-Coburg-Saalfeld, 1697年9月25日 - 1764年9月16日)は、ドイツテューリンゲン地方の諸侯の1人。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵(在位:1729年 - 1764年)。

生涯[編集]

ザクセン=ザールフェルト公ヨハン・エルンストと、その2番目の妻でヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯ヨシアスの娘であるシャルロッテ・ヨハンナ(1644年 - 1699年)の間の息子として生まれた。1718年に神聖ローマ皇帝の軍隊に仕官し、1719年には四カ国同盟戦争に従軍し、フランカヴィッラの戦いパレルモメッシーナの包囲に参加している。しかし1720年には父親の命令によりコーブルクの宮廷に戻された。

1729年の父の死後、その遺言により、異母兄のクリスティアン・エルンストと一緒に公爵領を相続した。クリスティアン・エルンストが家族の反対を無視して貴賤結婚をしたため、1724年には父ヨハン・エルンストが息子2人の共同統治を決めていたのだった。クリスティアン・エルンストはザールフェルトに、フランツ・ヨシアスはコーブルクにそれぞれ宮廷を置いた。

エルネスティン家内の相続争いに関して、フランツ・ヨシアスはザクセン=マイニンゲン公爵家のコーブルクに対する相続請求を1735年に最終的に斥け、ザクセン=コーブルク公爵領に対する支配権を正当なものとした。これ以後、ザクセン=ザールフェルト公爵家は「ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵家」と名乗る様になった。1745年に異母兄クリスティアン・エルンストが死ぬと、フランツ・ヨシアスはコーブルクとザールフェルトの両宮廷の主人となった。1733年にはコーブルクとザールフェルトの2つの公爵領に長子相続制を導入し、これは1747年に神聖ローマ皇帝の認可するところとなった。

1750年から1755年まで、ザクセン=ヴァイマル公爵家の未成年の当主エルンスト・アウグスト2世の摂政を務めた。公爵は堂々たる体躯をした為政者だったが、フェーダーバールバドミントンに似た球戯)の最中の事故で左目の視力を失っている。

1764年にローダッハの城で死去し、コーブルクのザンクト・モーリッツ教会に葬られた。

子女[編集]

1723年にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ルートヴィヒ・フリードリヒ1世の娘で従姪にあたるアンナ・ゾフィア・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット(1700年 - 1780年)と結婚し、間に6人の子供をもうけた。

参考文献[編集]

  • August Beck (1877), "Franz Josias, Herzog von Sachsen-Koburg-Saalfeld", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (ドイツ語), 7, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 296–
  • Das herzogliche Haus Sachsen-Coburg-Gotha. Seine Geschichte und gegenwärtige Stellung in Europa. C. Macklot, 1842, S. 234 ff. (Digitalisat)
先代:
ヨハン・エルンスト
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公
1729年 - 1764年
クリスティアン・エルンストと共同統治(1745年まで)
次代:
エルンスト・フリードリヒ