ビーコンズフィールド伯爵

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ビーコンズフィールド伯爵

紋章記述

Arms:Per saltire Gules and Argent a Castle triple towered in chief of the last two Lions rampant in fess Sable and an Eagle displayed in base Or.Crest:Issuant from a Wreath of Oak proper a Castle triple towered Argent.Supporters:Dexter: an Eagle Or; Sinister: a Lion also Or, each gorged with a Collar Gules pendent therefrom an Escutcheon of the last charg_ed with a Tower Argent
創設時期1876年8月21日
創設者ヴィクトリア
貴族連合王国貴族
初代初代伯ベンジャミン・ディズレーリ
最終保有者同上
相続資格初代伯爵の嫡出直系男子
付随称号ヒューエンデン子爵
現況廃絶
断絶時期1881年4月19日
モットーForti Nihil Difficile
(強き者に成し難きものなし)
ビーコンズフィールド女子爵

紋章記述

Arms:Argent a Slip of Vine fructed and leaved proper between two Flaunches Sable each charged with a Boar's Head of the field.Crest:Issuant from a Wreath of Oak proper a Castle triple towered Argent.Supporters:Dexter: an Eagle Or; Sinister: a Lion also Or, each gorged with a Collar Gules pendent therefrom an Escutcheon of the last charged with a Tower Argent
創設時期1868年11月30日
創設者ヴィクトリア
貴族連合王国貴族
初代初代女子爵メアリー・ディズレーリ
最終保有者同上
相続資格初代女子爵の嫡出直系男子
付随称号なし
現況廃絶
断絶時期1872年12月15日
モットービーコンズフィールド伯爵に同じ。

ビーコンズフィールド伯爵(ビーコンズフィールドはくしゃく、: Earl of Beaconsfield)は、かつて存在したイギリスの伯爵。ヴィクトリア女王の寵愛を受けた首相ベンジャミン・ディズレーリのために1876年に創設された[註釈 1][3]

本項では、彼の妻メアリーに創設されたビーコンズフィールド女子爵についても触れる。

歴史[編集]

ビーコンズフィールド女子爵(1868)[編集]

英国首相ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)の妻メアリーは、夫の首相(第1期)退任後にあたる1868年11月30日連合王国貴族としてバッキンガム州ビーコンズフィールドのビーコンズフィールド女子爵(Viscountess Beaconsfield, of Beaconsfield in the County of Buckingham)に叙せられた[3][4]。この叙爵は、彼女の権利としてなされたものであったため、夫のディズレーリは庶民院の一員として残ることができた[3][4]

この叙爵は、長年付き添ってくれたメアリーに感謝するディズレーリが女王に嘆願して実現したものであったが、彼女はこの時点で既に病魔に侵されており、4年後の1872年にその生涯を閉じた。彼女の死去に際して、爵位は消滅した[5][3]

ビーコンズフィールド伯爵(1876)[編集]

初代ビーコンズフィールド伯爵

ディズレーリは妻メアリーの死後、1874年グラッドストンを下して再び首相に返り咲いた。彼は首相在任中の1876年8月21日連合王国貴族としてバッキンガム州ビーコンズフィールドのビーコンズフィールド伯爵(Earl of Beaconsfield, of Beaconsfield in the County of Buckingham)及び、バッキンガム州ヒューエンデンのヒューエンデン子爵(Viscount Hughenden, of Hughenden in the County of Buckinghamshire)に叙された[3][6]。ディズレーリはこの叙爵によって自動的に庶民院の議席を失ったが首相ではあり続け、貴族院から政府を率いた[3]

ビーコンズフィールド英語版バッキンガムシャー州の町の名称である。ディズレーリは議会での経歴の大半をバッキンガムシャー選挙区英語版選出の議員として働いた[7]。ディズレーリは近隣のハイ・ウィカムに私有地としてヒューエンデン・マナー英語版(荘園)を所有していたが、ビーコンズフィールドに居住することはなかった[8]。ディズレーリが称号にビーコンズフィールドを選択したのは、ディズレーリが賞賛していた保守政治哲学者で国会議員のエドマンド・バークの影響かもしれない。バークは自身をビーコンズフィールド卿として貴族に列するというジョージ3世の提案を辞退していた[9]

ディズレーリは1878年に彼を公爵に叙するというヴィクトリア女王の提案を断り[10]、代わりにガーター勲章を授与された。ディズレーリは跡継ぎがないまま1881年に死去し、すべての爵位は途絶えた。ヒューエンデン・マナーはビーコンズフィールド卿の甥であるコニングスビー・ラルフ・ディズレーリ英語版に渡った。

ビーコンズフィールド伯爵(1876年)[編集]

ビーコンズフィールド女子爵(1868年)[編集]

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ ヴィクトリアはディズレーリの競争相手であった自由党のウィリアム・ユワート・グラッドストンよりもディズレーリのトーリー党的政策を好んだ。ディズレーリはまた、ヴィクトリアを「インド女帝」として戴冠させる1876年国王称号法を推進した。[1][2]

出典[編集]

  1. ^ 川本(2006) p.206
  2. ^ 君塚(2007) p.134-135
  3. ^ a b c d e f Beaconsfield, Earl of (UK, 1876 - 1881)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月13日閲覧。
  4. ^ a b No.7908”. The Edinburgh Gazette 4 December 1868. 2020年1月13日閲覧。
  5. ^ ブレイク 1993, p. 601.
  6. ^ No.24355”. The Gazette 18 August 1876. 2020年1月13日閲覧。
  7. ^ ブレイク 1993, p. 297.
  8. ^ モロワ(1960) p.182-183
  9. ^ See, e.g., Isa Carrington Cabell, "Lord Beaconsfield (1804-1881)"
  10. ^ See, e.g., Biography at the National Portrait Gallery's website

参考文献[編集]

  • ブレイク, ロバート 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000 
  • 川本静子松村昌家 編『ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象』ミネルヴァ書房〈MINERVA歴史・文化ライブラリー9〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4623046607 
  • 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社中公新書〉、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165 
  • アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6 

関連項目[編集]