ヒッグス場入門

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これはヒッグス場に関する入門記事です。より専門的な内容は、ヒッグス粒子ヒッグス機構を参照してください。


ヒッグス場(ヒッグスば)は、普遍的に存在する量子場の一種であり、おそらく素粒子質量を持つ原因であると理解されつつある概念である。

すべての量子場には対応する素粒子が存在する。ヒッグス場に対応するのはヒッグス粒子(ヒッグスボソン)である[1]

概要[編集]

場の量子論では、万物の根源的な実体・構成要素は粒子ではなく「」であるととらえる。たとえば電磁場もその一つである。粒子は、これら「場」の振動、あるいは持続的な変動として表される。すなわち、電磁場の振動は光子と呼ばれる。そして、ヒッグス場の振動はヒッグス粒子と呼ばれる[2]

いくつかの量子場によって既知の素粒子を表現・記述することができ、それ以外の量子場によって異なる種類の粒子や力が世界に存在する原因となる現象である「自発的対称性の破れ」を説明することができる。つまり、自発的対称性の破れによってそれぞれの粒子や力の違いが生じる。たとえば電弱相互作用の理論では、なぜ低温状態で電磁力弱い力の性質が大きく異なるのか、つまり対称性が破れるのかを説明するためにヒッグス場の存在が導入された。

素粒子物理学における標準模型には、粒子に質量を与える機構が組み込まれている。これがヒッグス機構であり、ヤン=ミルズ理論に質量の概念を導入するため、1964年にピーター・ヒッグスが発展させた[3]アブドゥッサラームスティーブン・ワインバーグはそれぞれ独立に、弱い相互作用と電磁相互作用の理論を統合した単一の「電弱相互作用」のゲージ理論を構築するためには、ヒッグス機構が重要であると認めた。

ヒッグス機構を用いることにより、彼らは弱い相互作用の担い手であるWボソンとZボソン(ウィークボソン)が大きな質量を持つのに対し、電磁相互作用の担い手は質量を持たないことを明らかにした。このことから、ヒッグス機構はしばしば質量の「起源」や「発生」を説明するものであると紹介される[4]。しかし、ヒッグス機構が質量の本質に対して十分な理解を与えるものであるかについては、疑問も呈されている。たとえばマックス・ヤンマーは以下のように述べている。「もしある過程が質量を"発生させる"のであれば、その"発生させた"物の性質についての情報も同じく与えるべきである、と考えてもおかしくはない[5]」。しかしヒッグス機構では、質量は「クレアティオ・エクス・ニヒロ英語版(無からの創造)」の奇跡により粒子の中に「発生する」のではなく、エネルギーの形で質量を蓄えているヒッグス場から粒子へと移し変えられるものである。そして「ヒッグス機構もそれを精緻化したものも、(中略)われわれが質量の性質を理解する役には立たない[6]。」

ヒッグス機構の「からくり」、つまり対称性の自発的破れが質量のないゲージ場に質量を与える方法は、宇宙全体に広がるスカラー場である「ヒッグス場」の存在を仮定することに基づいている。このヒッグス場と結合することにより、質量のない粒子はポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)に加え、質量とエネルギーの等価性による質量を得る。この結びつきが強いほど、その粒子は重くなる。

粒子がヒッグス場との相互作用によって質量を獲得する方法は、吸い取り紙がインクを吸収する様子に例えられる[7]。吸い取り紙一切れが個々の粒子に、インクはエネルギーに対応する。異なる種類の粒子は、各自のエネルギー吸収力とヒッグス場の強さに応じて、異なる量のエネルギーを吸い上げる。

インフレーション[編集]

ヒッグス場は、自身以外のあらゆるものを生じさせた真空のエネルギーとして提案されてきた。時間の始まりの瞬間、宇宙のすべてであった未分化のエネルギーは特徴のない対称性を持っていた。続いて対称性の破れによる真空の相転移が起こり、それまでとは不連続的に温度密度が低下し、それによりこの宇宙が生じた。最後に電弱力が崩壊し弱い力と電磁力が解き放たれた。現在の実験はこの現象を再現することができるエネルギーにまで達しているが、電弱相互作用と強い力を分離する相転移はまだ達成出来ていない。しかし、すべての静止質量の起源として提案されているヒッグス場は、弱い力同様に強い力を探索する実験の中心である[8]。ヒッグス場は宇宙のインフレーションの原因として仮定されてきた[9]。そのような理論は標準的なインフレーション模型を構成するものではなく、"包括的" (generic) インフレーションという呼び名が提案されている。そこではインフレーションの原因については課題が残されている。ヒッグス場は"非熱的な" (non-thermal) 場であり、宇宙が広がっても温度が減少しない場である。エネルギー密度が高いと宇宙の膨張速度は速くなるため、大きなヒッグス場はインフレーションの原因と仮定されている。

統一温度以上においては、単一の電核力(電磁力と強い核力と弱い核力が統一された力)があったとされ、電弱力を担うゲージ粒子と強い力を担うゲージ粒子は区別されていなかったと提唱されている。宇宙の温度が低下することで、ヒッグス場によって電弱強力(電核力と同じ意味)が電弱力と強い力に分かれ、電弱力を担う粒子(光子W・Z粒子)と強い力を担う粒子(グルーオン)の区別が生じたと考えられている。

最終的に、ヒッグス場のエネルギーさえもゼロまで減少し、インフレーションは終わりを迎えた。

ダークエネルギーはヒッグス場から涌き出す真空のエネルギーと仮定されている[10]

標準模型[編集]

標準インフレーションモデルでは、アインシュタイン方程式における幾何的なのエネルギー源は、場の量子論仮想粒子-反粒子の対および輻射により与えられる物理的な真空エネルギー英語版であるとされている。この"真空エネルギー"は宇宙初期の膨張の原因とされている。

包括模型[編集]

包括模型では、初期の量子真空以外の新種の物質が仮定されている。通常の物質の間に働く重力引力であるが、この物質は通常の物質と反発し合う点で通常の物質とは異なっている。これがヒッグス場と仮定されている。ヒッグス場は通常の物質を膨張させたまま、自身は通常の物質に崩壊した。これが現在観測される宇宙の膨張を説明するこの理論のシナリオである。

批判[編集]

包括インフレーション模型に適用される批判はいくつかあり、その中には標準インフレーション模型に適用されるものもある[11]

ヒッグス場は観測される宇宙の膨張に関する主導的で理論的な説明の一つである。しかし、この宇宙模型や10次元のの存在に関して実験上や数学上の決定的な証拠はない。

負の質量の概念は、反重力をすでに予言している。

動機[編集]

ヒッグス場を仮定する主な動機の一つは、単純で対称的な自然の法則を発見しようとする探究から来ている[12]物体は横向きにではなく下に向かって落ちるものである。空間の三次元の各方位は同等であることを認識するには相当な努力が必要である。ガリレオ・ガリレイまで、人々は慣性の法則の単純さが隠されているのは「地球の(引力の)せいである」ことは学ばなかった。慣性の法則の空間における基本的な物理法則を定式化するのには良い考えであった。

現在の物理学者たちは空の空間自体が複雑な環境であると確信している。彼らは多くの複雑さを「真空のせいにしている」。背景場は空の空間に充満している。この場は物理法則の十分な単純さと対称性を隠している。

中性子崩壊で放射されるほとんどすべての電子左巻きスピンを持つ。つまり、点粒子である電子のスピン角運動量直線運動量は反対方向を向いている(これが同じ方向なら右巻き電子となる)。北に向かって運動する左巻き電子(従ってスピンは南向き)がどのように見えるかを考えるとする。電子より速く北に向かって運動する観察者にとっては、この電子は右巻きに見える。相対性原理は一定の速度で動く観察者にとっては同一の物理法則が与えられるとするが、"左巻き電子"はすべての観察者が左巻きであると観測できるようなものではない。従って相対性原理が正しいならば、左巻き電子のみが弱い崩壊から生じるとするのは厳密には正しいとは言えない。

電子の質量がゼロである世界においては、左巻き電子を識別する問題は生じない。なぜなら、そのような世界では電子は常に光速で運動するため、観測者は電子より速く運動することはできないためである。このとき、どのような速度で運動していてもすべての観測者は電子の巻きの方向を同じ向きに観測するであろうとされる。この場合、電子が左巻きであることは相対性原理と矛盾しない可能な物理法則となるため、弱い崩壊において左巻き電子だけが放射されることができる。

宇宙は電子の質量がゼロであることにより電子が左巻きのみであるような単純なものに近いだろうというヒントを自然は与えている。真空自身がその単純さの違いの原因であるだろう。電子に質量を与え、その速度を光速より遅くすることに関与する、すべての空間に満ちている背景場が存在することを想定することができる。この質量を生成する場がヒッグス場である。

そのアイデアの最も直接的な検証は背景ヒッグス場を仮定する物理と仮定しない物理を比較することであろう。不運なことに、背景ヒッグス場を消すという仮定は実用的ではない。しかしながら、ヒッグス場の小さな痕跡を取り除き観測することはすぐに可能になるであろう。実験的な証拠がなかったとしても多くの物理学者はヒッグス場の概念は存在し、人がより完全な世界を想像しヒッグス場をわれわれが住む世界に体系的に関連付けることを可能にしていることを確信している。

弱い相互作用は、すべての基本的なフェルミ粒子が左巻きの形態を取ることを好む傾向がある。もしヒッグス場が消滅すれば、すべてのフェルミ粒子は質量を持たないであろう。左巻き粒子のみが弱い相互作用に関与することは厳密な法則としてありうる。このヒッグス場が存在しないとする想像上の宇宙と異なり、現在、宇宙にあまねく背景ヒッグス場が広がっていると仮定している。この背景ヒッグス場と粒子の相互作用は粒子に質量を与えるが、それによってそれらの粒子の弱い相互作用が変わることはない。その弱い相互作用は依然、フェルミ粒子が左巻きの形態を取ることを好む。計算によると、条件によって、背景ヒッグス場はそのスピンの反転を引き起こしうることが示唆されている。そのため、弱い相互作用は左巻き粒子を好むという近似的な法則は厳密な法則を符号化する。

背景ヒッグス場は宇宙のどの点でも同じ値を持つはずである。なぜなら、遠方の銀河からの光は地球上で観測するとすべて同じスペクトル線を含んでいることは、電子は宇宙のどの点でも同じ質量を持つことを示しているからである。もし電子がヒッグス場から質量を得るなら、その場はあらゆる場所で同じ強度を持っていることが示唆される。

磁石を加熱すると消磁される。その電子は空間中のどの特定の方向も認識せず、その系は完全に対称である。しかし、それを冷却すると電子はそれらのスピン間に働く力によりそのスピン軸をそろえる。この空間の方向についての完全な対称性は自発的対称性の破れによって壊される。対称的な力には非対称的な解が与えられている。物理法則は、それらがもっと安定に実現されたときよりも対称性が高い。

物理学者は類似の効果が宇宙に広がる背景ヒッグス場にも働いていると想像している。「われわれの真空はなぜもっと空ではないのか?」という疑問への答えは、「空であることは不安定だから」ということになる。

電磁場電荷の大きい粒子の近くでは大きいのと同じように、ヒッグス場は重い粒子の近くでは大きくなるはずである。例えば、近い将来に加速器によって膨大に生産されることになっているZボソンの近くではヒッグス場は変わる。Zボソンは不安定であり、それがより軽い粒子に崩壊するときは、ヒッグス場に起こる擾乱はZボソンのときとは別の形となるはずである。このとき、ヒッグス場自身の中で運動する擾乱は、外側に伝播するエネルギーの小さなまとまり、すなわちヒッグス粒子の形となって現れる。ヒッグス粒子と広く行き渡った質量を生成するヒッグス場の関係は、光子と電磁場の関係と同じようなものである。

宇宙の歴史の初期は、基本粒子は質量がなく、世界を記述する方程式はより単純で対称性が高かった。

出典[編集]

  1. ^ Reucroft, Stephen (1999年10月21日). “What exactly is the Higgs boson?”. Ask the Experts. Scientific American. 2012年7月8日閲覧。
  2. ^ Barrow, John D. (2001). Coles, Peter. ed. The Routledge Companion to the New Cosmology. London: Routledge. p. 300. 
  3. ^ Higgs, P. W. (1964). “Broken Symmetry, Massless Particles and Gauge Fields”. Physics Letters 12: 132–133. ; Higgs, P. W. (1966). “Spontaneous Symmetry Breakdown Without Massless Bosons”. Physical Review 145: 1156–1163. 
  4. ^ Castmore, R.; Sutton, C. (1992). “The Origin of Mass”. New Scientist 145: 35–39. ; Nambu, Y. (1992). “A Matter of Symmetry: Elementary Particles and the Origin of Mass”. The Sciences 32 (May/June): 37–43. ; LaChapelle, J. (1994). “Generating Mass Without the Higgs Particle”. Journal of Mathematical Physics 35: 2199–2209. 
  5. ^ Jammer, Max (2000). Concepts of Mass in Contemporary Physics and Philosophy. Princeton University Press. p. 162. 
  6. ^ Jammer (2000), p. 163 およびそこに挙げられている出典。
  7. ^ Veltman, M. J. G. (1986). “The Higgs Boson”. Scientific American 255 (November): 88–94. ; M・J・G・ベルトマン 「ヒッグス・ボソンは実在するか」『別冊サイエンス』85、藤井昭彦(編)、藤井昭彦(訳)、日経サイエンス、1987年ISBN 4-532-06685-9
  8. ^ Gerard Piel, The Age of Science: What Scientists Learned in the 20th Century (New York: Basic Books, 2001) 160
  9. ^ Tony Rothman, and George Sudarshan, Doubt and Certainty: (Cambridge, MA: Perseus Publishing, 1998) 238, Questia, Web, 13 Jan. 2012.
  10. ^ Piel 180
  11. ^ Mendel Sachs, Relativity in Our Time: From Physics to Human Relations (London: Taylor & Francis, 1993) 155-156
  12. ^ Frank Wilczek, and Betsy Devine, Longing for the Harmonies: Themes and Variations from Modern Physics (New York: W. W. Norton, 1988) 240-246

外部リンク[編集]