パウル・シュピーゲル

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パウル・シュピーゲル(2005年)

パウル・シュピーゲルヘブライ語: פאול שפיגל‎, ドイツ語: Paul Spiegel、本名Jitzhak Ben Chaim Paul Spiegel イツハク・ベン・ハイム・パウル・シュピーゲル)、 1937年12月31日 - 2006年4月30日)は、ドイツジャーナリストドイツドイツ・ユダヤ人中央評議会ドイツ語版の議長を務めた。ホロコースト生還者である。

経歴[編集]

ヴェストファーレンのフェアスモルト生まれ。ナチスの台頭に伴い、ユダヤ人である一家は近くの農村に隠棲する。さらに1938年の「水晶の夜」ののち、一家でブリュッセルに移る。自身はある農家に隠れて難を逃れたが、姉妹のRosaは逮捕され、後にベルゲン・ベルゼン強制収容所で死去。父も逮捕され、ブーヘンヴァルト強制収容所アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ダッハウ強制収容所などに収容されたが生き残り、シュピーゲルと母は戦後になって父と再会できた。第二次世界大戦の終結後、一家はドイツの故郷に戻る。父はそこでシナゴーグを再建した[1]

1958年からデュッセルドルフの新聞『ユダヤ週刊新聞』でボランティアとして働き始める。1965年まで同社に編集者として勤務。その他、モントリオールアムステルダムバーゼルユダヤ人向け新聞社や、ドルトムント、デュッセルドルフの一般紙で働く。1973年から1974年、『モードと住宅』誌の編集長。その後、12年間にわたりライン貯蓄銀行協会会長を務める。1986年に芸術・メディアのエージェンシーを設立。1991年からWDR(西ドイツ放送)の顧問委員。

1967年にデュッセルドルフのユダヤ人コミュニティの評議会員に就任。1978年に執行部会員、1984年から2002年まで議長を務めた。1989年にドイツ・ユダヤ人中央評議会指導部会に入り、1989年から2000年までドイツ・ユダヤ人福祉部会長。1993年からドイツ・ユダヤ人中央評議会執行部副議長。1995年ノルトライン=ヴェストファーレン州のユダヤ人コミュニティの代表。2000年1月9日、イグナツ・ブービスの後任としてドイツ・ユダヤ人評議会議長に就任。議長として2003年1月にドイツ政府とユダヤ人中央評議会の間で結ばれた協約に調印。また、ドイツ国内に建設されたシナゴーグの開所式に初めてイスラエル大統領の参列を実現した。

1964年にギゼレ・シュパッツと結婚し、二女をもうけた。2006年3月、心臓発作を起こしたうえ肺炎を併発し、昏睡状態に陥った後、4月30日朝に死去[2]。デュッセルドルフ北墓地に埋葬された。

表彰[編集]

語録[編集]

  • 「平和への叫びの背後には殺人者が隠れている」
  • 「アプリオリに戦争反対を唱えてはならない。強制収容所はデモ行進ではなくソ連軍によって解放されたのだ」

出典[編集]

外部リンク[編集]