ノート:朝鮮通信使/過去ログ1

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雨森芳州についてもひとことお願いします。Mishika 2004年9月4日 (土) 19:06 (UTC)

うーん、いちいち関連のあった儒家に言及するのは全部の通信使に言及することになりかねませんから……。現状でざっとした知識は入手できるんでいいんじゃないですかね?Commonsenses 2004年10月6日 (水) 14:40 (UTC)

冒頭の定義では、李氏朝鮮時代における「名称」とだけ定義されているのに対し、少し進んだ次の節では少々時代をまたいだ広義の歴史用語(?)としての「朝鮮通信使」が示されていますね。私はそのふたつの定義の中間を読んでいるほんのちょっとの間だけ解釈に戸惑ってしまいました。あるいはそれも一種の狙いかもしれないとも思ったのですが、最初にふたつ一緒に書いてあってもいいのかなあと思いました。細かくてスミマセン。。Mulukhiyya 2005年9月20日 (火) 12:53 (UTC)

記述変更の件について[編集]

①「両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府からの要望で称され」を削除した事に関して

  • 削除した理由が分かりません。なぜでしょうか?
通信使は室町時代からあったものですから、江戸期に書くべきでしょうね。書くとすればですが。どちらにせよ冒頭に書くことでありません。
気付きませんでした。江戸期に書くべきですね。あと署名も忘れてました。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)

②「外交権を制限されていたためでもある」に関して

  • 「通信使」と言う名称は、当時朝鮮から中国に派遣されていた「正朝使」や「謝恩使」と同じく、正式な国使であります。また、もし、本当に外交を制限されていたなら、足利義満からの「日本国王使」の受け入れも拒絶したはずですではないでしょうか?
手元に資料が見つかりませんので、この文章は戻してもいいでしょう。
では、ここは差し戻しということで--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)

③「李氏朝鮮では儒教思想によって職人階級に対する差別があったことが原因である」に関して

  • 李氏朝鮮の正式な身分階級は「良民」と「賤民」の二種類しかなく、陶工などの職人は、個人個人の事情により良民に属する「常人」や賤民に属する「奴婢」などに分かれておりました。職人の全員が単一の身分階級を形成していたわけではありません。よって、職人の個人個人が置かれていた状況によって待遇は大きく違っていたので、この文は正確ではないと思います。
階級云々ではなく、儒教思想による手を動かすこと、身体を動かすことを生業とする職人に対する差別は今現在の朝鮮半島にも存在していますが?
ですので李氏朝鮮での待遇と比較して書くのなら誤解が無いように「階級」を抜かして、その他に「冷遇」もいれて「「李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する冷遇や差別があったことが原因である」とした方が良いと思いますがいかがでしょうが?--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)
  • 水車

揚水式水車じゃなくてもいいんですかねぇ? まあ、普通の水車がなくてもいいけど。

あ、揚水式水車に対して意見はありません。消してしまって申し訳ありません。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)
  • 一種の見世物という記述

『一種の見世物』という表記は料金の有無とは明らかに関係ありません。

そうですね。私の勘違いです。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)
  • 豊臣秀吉に派遣された通信使について

なにも考えずにrevertすることをやめてください

これも消してしまって申し訳ありません。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 11:34 (UTC)

李氏朝鮮側の視点による朝鮮通信使[編集]

  • 「日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。」
李氏朝鮮側の視点を描くのに現在の韓国の教科書にある嘘をそのまま引用しなくてもいいんじゃないですか?当時の通信使から何かを学ぼうと懸命になるのは儒学者ぐらいじゃない? --Ypacaraí 2006年8月26日 (土) 00:40 (UTC)
この部分を一番最初の形に差し戻したので、どなたか引用の部分が引用であると分かる形式にしてください。幾ら節の見出しが李朝POVを明記しているからといって引用は引用であると分かる様にしておいてください。 --Ypacaraí 2006年11月3日 (金) 03:36 (UTC)

現代の韓国の教科書の記述を引くのでは「李氏朝鮮側の視点による朝鮮通信使」と言えないでしょう。これじゃ「大韓民国の歴史教育における朝鮮通信使」とした方が適当と考えます。(ということで、そう変えておきました)▼これはこれでひとつの有益な情報かと思いますが「李氏朝鮮側の視点による朝鮮通信使」とするならば通信使が帰国後報告書を出しているのですけど、それから引いてくるのが良いと思います。どなたか加筆していただけませんか。--220.146.147.77 2007年6月27日 (水) 01:46 (UTC)

そうですね。朝鮮語Wikipediaサイトの記事を翻訳機にかけてよむと、いかにも日本と朝鮮が対等であったことや、幕府から頼まれて日本にいったとか、お互い明など中国大陸政権に一緒になって事大していたか、みたいな記事になっちゃってます。いたるところに「要出典」を韓国語でいれたくなるような、記事でした。 222.144.8.172 2007年12月11日 (火) 13:10 (UTC)

貨幣経済について[編集]

また、基本的に日本人を「倭人」として見下す者が少なくなかったが、京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さや、乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げている。(李氏朝鮮では、その末期においても都市部で中国の銅銭が流通していた程度であり、最後まで貨幣経済と呼ぶに足るものが成立せず、物々交換が主であったため)

イタリックの部分が、「関連性が不明瞭。」ということで、コメントアウトされているようですが、なぜ、そう言えるのでしょうか。「(物々交換が主であった朝鮮人が)貨幣経済の発達に対して驚いている」と言う風に私は受け止めました。それならば、なぜ朝鮮人が驚いたのかが説明してある、ごくごく普通の文章だと思うのですが、どうでしょうか。また、同様に、「日本人を「倭人」として見下しながらも」が、上記の通り「日本人を「倭人」として見下す者が少なくなかったが」に再三書き換わっています。そこいらの正誤関係は資料がないので何ともいえませんが、「見下すものが少なくなかった」ということは、「対等と考える者もいた」ということでしょうか。そのように扱ったという資料の提示を求めます。Bow 2006年9月15日 (金) 13:33 (UTC)

「朝鮮人来聘記」の出典について厳密な検証を提案します。[編集]

直前のIPユーザによる編集で「朝鮮人来聘記」について出典が記載されたのですが、少なくともネット上で一般公開されている京都大学蔵書検索において「朝鮮人来聘記」というタイトルの書籍はヒットしません。

ものが韓国・朝鮮関連なだけに、例によって意図的に不正確な情報が書き込まれているという可能性もあり、厳密に検証されるべきだと思います。

仮に再度、この書籍を出典として示されるのであれば「正確なタイトルか」「著者は誰か」「当時書かれた書籍か、資料をもとに後世になって書かれたものか」ということくらいは百科事典に必要な情報として提示して欲しいところですし、また第三者が内容を検証しやすいようノートに「そもそもこの書籍は京大内のどこに所蔵されているのか」を書いていただけるとよいと思います(編集された以上はそうした情報をお持ちであって当然だと考えます)。それらがなされないようであれば、しばらく後にこの出典による記述全体を削除するのもやむ得ないでしょう。 Yoh-yoh 2007年10月14日 (日) 11:45 (UTC)

こんにちは、Yoh-yohさん。『朝鮮人来聘記』自体は京都大学文学研究科図書館蔵として存在するようです。手持ちの本では、吉田光男『日韓中の交流 ひと・モノ・文化』[1]206頁に写真あり。ただし、それをどう本文に反映するかは独自研究とならないように「要検証」ですね。さしあたり、どの文からどの文までを検証の対象とするかを示されたら良いのではと思います。--Tatsujin28 2007年10月14日 (日) 12:08 (UTC)
『朝鮮人来聘記』についての疑点みで、節丸ごとを未検証とするのは、ずいぶん大雑把なやり方のように思えましたので、とりあえずタグは外しておきました。 Jinzuu 2007年10月15日 (月) 13:10 (UTC)

遅くなりましたが上記で紹介されている本を確認しました。出典が明らかになりましたのでその点は納得しました。ただ『日韓中の交流』の当該箇所を読んでみると、あくまで朝鮮人が肉食を好んだのでそれが当時の日本人の目に不快に映り蔑視に繋がった、という内容であり、(だいぶ改定されていますが、当時の)引用の仕方にはやはり独自研究のきらいがあったように思います。また「節丸ごとは大雑把」というのは言われてみればそうですので、以後は気をつけます。ただまた別の疑問なのですが、現在このページをふつうに見ると、トップにいきなりこの鶏泥棒の絵が来るようです。「イタリア」のページでいきなりトップにマフィアが抗争している写真があったら、それはイタリア人を悪く言おうとしていると取られても仕方ないでしょう。「朝鮮通信使」のページにおいてトップに他ならぬこの絵を持ってくることは、果たして適切なのでしょうか。--Yoh-yoh 2008年2月29日 (金) 05:17 (UTC)

”交流”節の出典の確認[編集]

交流部分で、継ぎ接ぎであまり文章として美しくない(と思う^^;)段落を編集しましたが、以下の記述の出典をご存じの方があれば提示をお願いします。前々から気にはかかっていたのですが、出所がどうも分からないもので。 Jinzuu 2007年10月30日 (火) 05:18 (UTC)

『横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。喧嘩が発生すると侍は本来警護の者として制止すべき立場であるにもかかわらず、止めるふりすらしなかったといい、道中の内実がいかなるものであったかが伺える。』


李氏朝鮮の貨幣経済について[編集]

 李氏朝鮮における経済活動は、金貨・銀貨といった高額貨幣は用いられず、その終わりまで布(布貨)・米を基準とした物々交換が主であったものの、次のように、17世紀末以降は自国鋳造の銅銭がそれなりに用いられたようです。

【参考】朝鮮初期は農本思想に基づく「務本抑末」政策から商工業は両班官僚と官府の需要を満たす程度に止まり、そのため貨幣経済の発達は見られなかった(韓(1991)pp268)。交易媒体に米・五升綿布が用いられ、第4代世宗(在位1418-50)代に「楮貨」と「朝鮮通宝」を併用したが、通貨価値の低下と貨幣に対する需要および銅生産の不足から鋳造が停止された。1608(宣祖41)年京畿道で初めて貢納制に大同法を実施して後、貢納を請負う貢人が現れ、また農村から漢城へ人口が流入するに従い商業活動が広がった。平安道と咸鏡道を除き、1623(仁祖元)年江原道、1651(孝宗2)年忠清道、1708(粛宗34)年黄海道と、順次同法が全国にわたり実施されるや、やがて貢人から都賈が現れ、地方では「客主」や「旅閣」が商圏を拡大していった。商業の興隆とともに米・布による徴税から貨幣によるそれへと変わり、貨幣需要も増加した。1633(仁祖11)年には「朝鮮通宝」を鋳造したが、この当時は、「漢城と開城で一部の商人が使用する程度」(李(1971)pp21)の量しか発行されなかった。また、国内で貨幣を鋳造する費用が嵩むため、1650(孝宗元)年に、「明国から唐銭15万貫を輸入し、安州と平壌の地域で使用」(同上pp21)したという。物価は、「銀子1両=銅銭600文、米1升=銅銭4文程」であった。しかし品質に劣る私鋳銭が大量に出回ったので、1678(粛宗4)年に「常平通宝」として「一文銭」、「二文銭」、大型の「折二銭」が発行され(同上pp22)以前よりは広く流通したが、重量・品位共に均一ではなかった。 (高崎経済大学論集 朝鮮後期貨幣・金融制度の改革と第一国立銀行/今野昌信 より引用)

 したがって、Sielrace氏の編集をいったん戻しましたが、上記引用文に見られるように、17世紀末以降は中国銭ではなく朝鮮で鋳造した銅銭が流通するようになったため、前半部『李氏朝鮮では17世紀まで都市部で中国の銅銭が流通していた程度であり、』については適切な編集だと考えます。しかし、後半部『貨幤経済の成立の以後にも銅の不足によって貨幤不足現象がひどかったため』は、李氏朝鮮に必要な銅を輸入するだけの経済力がなかったこと、そして朝鮮銭の品位にばらつきがあった理由の一つでしかありませんから、あえて従前の内容と差し替える必要があるとは思えません。

 また、といっても李氏朝鮮の貨幣流通についてこの記事で詳述する必要もないと思われますので、そのあたりを勘案して簡易化・穏健化する方向で少し修正してみました。ご意見等ありましたらお願いします。 Jinzuu 2008年1月15日 (火) 09:46 (UTC)

私は1764年の朝鮮通信使の書記だった元重挙の『和国志』を参照して後半部を書きました。 1764年には貨幤経済が成立されていて、元重挙は日本には銅が多くて貨幤も多いと記録しました。それで貨幤経済が成立された以後に派遣された朝鮮通信使は貨幤が多いことに驚いたという意味でした(朝鮮には銅が少なくて貨幤も少なかったから)。曖昧に書いて本当に申し訳ありません。
そして, 銀貨について記録が一つあります。
近日酒肉豆泡鹽醬柴草小小之價皆用銀子中外居民賴此資生初則試用於唐兵買賣之間行之旣久習俗已成賣酒賣柴之人如遇買之者必先問銀子有無此無他知其利之所在而然也。
(『宣祖実録』三十一年四月八日)
また、「都市部で銅銭が流通していた程度で」について、
且民間行用莫要於錢貨而西關之江界北關之長津處在三水之接界而已皆行錢
(『正祖実録』二十年五月八日)
という記録があります。北の咸鏡道でも貨幤を使いました。都市部だけで使ったということは少し変ではないでしょうか?御意見お願いします。--Sielrace 2008年1月15日 (火) 10:32 (UTC)


Sielraceさん、こんにちは。先だってはいきなり編集を戻して失礼しました。m(_ _)m
 さて、まず銀貨についてですが、『宣祖実録』の”銀子”をイコール官鋳銀貨と解釈するのは無理があると思います。時期的に日朝貿易が盛んな頃ですから、日本側からの決済として流入していた銀が一時的に銀地金として流通していたということを示す事例ではないでしょうか。その後、日朝貿易が下火になると共に、李氏朝鮮は逆に対中国貿易の支払いにあてていた銀に窮するようになりますね。また、定説としても李氏朝鮮で”通貨”としての銀貨が用いられたとはされていないと思います。(儀礼的貨幣として少量が鋳造されるということはあったのかもしれませんが)
 加えて李朝末においては、イザベラ・バードが『朝鮮紀行』(1897)で「銀を穴あき銭に両替しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、誰も銀など信用してくれないか、そもそも銀というものを知らないかで、必需品がなにも買えなかった」と記しています。
 次いで、都市部以外での貨幣流通については、やはり李朝末にシャルル・ダレが『朝鮮事情』(1874)で「金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。北部地域ではこの貨幣すら流通していない」と書き記していますし、また、イザベラ女史は、日本の1円銀貨1枚(=1ドル)の公式交換レートが銅銭3200枚、また鶏1羽の代金が銅銭1280枚といった記録を残していますが、数百枚単位の束で使用するのが常態であった銅銭は、こと村落部においては日常使うのに非常な不便が伴ったであろうことは想像に難くありません。 Jinzuu 2008年1月16日 (水) 08:38 (UTC)
私がした編集が気早でした。むしろ私が謝らなければなりません。
ところで, 宣祖三十一年は1598年です。唐兵は文禄・慶長の役の時の援軍、すなわち明の兵です。日朝貿易が盛んな頃というのは少し無理があるのはないでしょうか?「対中国貿易の支払いにあてていた銀に窮するようになった」というのはどの時ですか?17世紀の明の使臣たちが多い量の銀を持って行ったことはありますが、それは交易ではなく賄賂に近いです。あの時も、1609年まで日本との貿易は禁止されて日本の銀は流入しなかったんですが、使臣が来る度に37kg~370kgを支払いました。したがって、おっしゃったように日本との交易による一時的な現象ではないと思います。
(確かに高麗の銀瓶は朝鮮時代の時に使用が禁止されたんですが、秤量貨幤も貨幤と思います。それはだだの意見です。無視してください。)
また、イザベラ女史が朝鮮へ来た1894年にはもう銀貨を鋳造していました(1881年)。銀を信用しないのではなく、外国人であるイザベラ女史を信用しないことだと思います(高麗時代の銀瓶が廃止された理由も、銅などの金属を混ぜ合わせる事が多くて信じることができなかったからでした)。加えてインフレーションが社会的問題だった時代を基準にすることも無理があります。公式的に、丁銀(銀70%)一両(約38g)が銭二百個でした(違う場合、処罰されました)。
米代が高騰すれば実録に記録されたが、米一石(約70kg)が1695年8月には銭750個、1696年春に銭3000個であったし、1698年4月には銭2000個でありました(王が対策を立てなければならないほどの凶作のことでした)。1731年から平市署で物価統制をしたが、一石に銭500個~600個を維持しなければならなかったです(よく施行されたという記録があります)。2007年の韓国人の1人当り年間米消費量は77kgだから、これを基準にしても6人家族が2ヶ月の間食べることができます。--Sielrace 2008年1月18日 (金) 09:29 (UTC)
 ちょっと表現がまずかったかもしれませんね。確かに戦役中は貿易は行われなかったでしょうけれど、しかしその前後、16世紀末から17世紀初頭にかけては日本は全世界の銀産出量の1/3を占める銀の大輸出国であり、その内のかなりの部分が朝鮮経由で明・清へと渡ったとされています。ですから、当時、朝鮮における銀流通のかなりの割合は日本産であったと解釈するのが妥当と思われます。また、既にコメントされているとおり、14世紀にはすでに使用されなくなっていた高麗の銀瓶が16世紀末の李氏朝鮮で流通しているとするのは無理がありますし、まして秤量貨幣としての銀であるならば、時期的にそれは日本から流入したものと解釈する方が自然かと思いますが。なお、日本からの朝鮮への銀輸出は1750年に禁じられていますね。
 なお、イザベラ女史は村落部で行商人と公定レートよりは分が悪い銀貨1枚を銅銭3000枚で交換したとの記録も残していますから、外国人である女史の信用問題というよりも、少なくとも李氏朝鮮の末期においては、やはり銀(銀貨)の流通は一般的ではなかったものと考えます。
 もう、かなり朝鮮通信使とは、テーマがずれてしまっていますし、李氏朝鮮の貨幣流通の実際の検証が主眼ではありませんのでこれくらいで。^^; Jinzuu 2008年1月18日 (金) 17:04 (UTC)

イザベラ女史の記録は朝鮮末期の銅銭の価値低下を意味すると思いますが、銀についてのは終わらせます。

では「李氏朝鮮では、都市部で銅銭が流通していた程度で、貨幣経済と呼ぶに足るものが成立しておらず、布・米を媒体とした物々交換が主であったため」というは修正しても良いでしょうか?北部の国境地域でも銅銭が広く使われたという記録があるのに貨幤経済が成立しなかったとは思わないです。18世紀後半からの朝鮮通信使は貨幤の流通の自体に驚く事もほとんどないです。修正について御意見お願いします。--Sielrace 2008年1月19日 (土) 11:43 (UTC)

 どのように修正したいのでしょうか? 私は妥当な記述だと考えますので、李氏朝鮮の貨幣経済を肯定する記述に書き換えようと言うのであれば不同意です。銅銭のみで高額貨幣がなく、19世紀に至っても依然として物々交換が行われ、また17世紀末の銅銭発行後も度々貨幣無用論・有害論が為政者レベルで繰り返し唱えられていた李氏朝鮮においては、貨幣経済が発達していたとは到底見なせないと考えます。 また、この”乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達”の下りは室町時代・15世紀の朝鮮通信使の書き残した記録(宋希景/「老松堂日本行録」)によりますから、その当時の李氏朝鮮の経済は完全に物々交換ですので、これに18世紀後半を反証として持ち出すのはいずれにしても明らかに不適当でしょう。
 2人だけではこれ以上論が進まないと思われますので、他の方のご意見を待ちたいところです。 Jinzuu 2008年1月20日 (日) 09:34 (UTC)
17世紀以後の銅銭廃止論議は銅の不足と銅銭の偽造のためだったし、この場合にも代替貨幤を論議しました。
私が編集したことを見れば分かると思いますが、私も17世紀以前に貨幤経済が成立したと主張することではないです。確かに15世紀の朝鮮通信使の記録には日本の貨幤に驚いたという部分が多いですが、18世紀から貨幤の流通の自体に驚く記録はないです。具体的に「1420年の回礼使である宋希景は乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げた(その時の李氏朝鮮では、都市部で楮貨という紙幣が流通していた程度で、貨幣経済と呼ぶに足るものが成立しておらず、布・米を媒体とした物々交換が主であったため)」と編集するのはどうでしょう?--Sielrace 2008年1月20日 (日) 14:07 (UTC)
異見がないようなので修正しました。--Sielrace 2008年1月30日 (水) 07:02 (UTC)

出典からの引用の仕方に問題はないですか[編集]

前回『日韓中の交流』が鶏泥棒云々の引用元だというので実際に購入して調べたところ、この図は『朝鮮人来聘記』という京大所蔵の希少な資料であり、なおかつ鶏泥棒については大きな図の中のほんの小さな一箇所を抜き出したものに過ぎず、さらには『日韓中の交流』においては『朝鮮人来聘記』をのちの征韓論や朝鮮人に対する偏見と絡めて考察する材料としていました。同書では当時の浮絵などで不正確な内容のものが多かったことについても言及されています。

またリンク先『朝鮮聘礼使淀城着来図』には以前から[2]へのリンクが張られていましたが、そこでは「(そもそも鶏泥棒でなく)子供と仲良く遊んでいる」と紹介されています。

にもかかわらず、この記事のトップには『日韓中の交流』の中で数多く列挙された資料のうち、比較的検証困難(つまりマイナー)な資料である『朝鮮人来聘記』に納められた大きな図版の、さらにごく一部だけを抜き取ったものを、引用元の書籍での図に対する解釈を紹介することなしに、鶏泥棒であることのみを抜粋して掲載しているのです。

きちんと読めば先述のような文脈であることは分かるはずのに、それを鶏泥棒の図が残っている=鶏泥棒が史実であるかのように書き記しているというのでは、「資料の紹介をするに辺り、わざわざ利用者がその意味を誤解しやすいような形に抜粋したうえで引用している」と受け取られても仕方がないように思います。

通信使行列見物が庶民の娯楽であったこと、そして沿道住民が賦役にかり出されたことは各種の記録にある事実です。このような通信使の解説にあたって重要な史実を”恣意的”などと称して、削除するのは非常に問題有りと考えます。 Jinzuu 2008年3月3日 (月) 13:13 (UTC)
では、その「各種の記録」を出典として具体的に書名等を付記してください。出典がいつまでも提示されない状態で恣意的などと批判しても無意味です。わかりやすいように上記論議を参考に出典要求されている部分を具体的に示しておきました。--Miwa.SS 2008年3月4日 (火) 04:49 (UTC)
全てに出典を要求するというのは、まぁ常套手段ではありますね。(笑) Namisenjin氏から概ね提示していただきましたが、賦役関係は現在手元に史料がありませんので、また追って提示します。図書館に資料請求しておきましたが、来週になると思いますので性急に削除はしないで下さい。なお、下女を孕ませたというのは私は原典は知りませんが、民団のコラムにそういう言及がありますね。http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=91&corner=8
あと、”ない”証明は不可能ですから、通信使が日本文化に影響を与えたと主張されるのであれば、その証拠を提示されれば済む問題だと思います。削除削除とマイナス方向に向かわずに、あなたが記事を加筆してプラス方向で貢献されることを期待しますが、いかがですか? Jinzuu 2008年3月4日 (火) 13:00 (UTC)

どうもJinzuuさんは、私が呈した疑問と別のことに反論されているようです。

まず娯楽や賦役云々の記述については各種の記録があるということなので、Miwa.SSさんも言われたように、きちんと出典さえ示していただければ復帰していただいて構いません。そもそもその点は、ここで提起したのとは全く別の問題ですので。

今回、こちらは「恣意的な引用である」とは断定していません。むしろ「恣意的な引用であると受け取られても仕方がないくらい、引用の仕方に偏りがある」ことを問題視しています。もう一度言います。

(1)『日韓中の交流』の筆者はこの絵を「朝鮮人への偏見を示すもの」として引用しています。(2)外部リンクの読売新聞記事の教授は、「単に子供と遊んでいる」絵だとしています。

ところがなぜか、これまでに書かれた記述では、単に

(3)「通信使の中には鶏泥棒をはたらくものがいた」

と書かれていた、そのことを問題にしています。有力な出典である『日韓中の交流』にも読売の記事にも、(3)のような主張は全然書かれていないのです。

さて以上のことを踏まえたうえで。改めてJinzuuさんに質問します。今回「娯楽や賦役については資料がある」と言われます。それなら娯楽や賦役にまつわる記述だけを復帰すればいいのに、なぜ「鶏泥棒である」というキャプション込みで、この絵への引用までをも復帰されたのでしょうか? --Yoh-yoh 2008年3月4日 (火) 06:08 (UTC)

>なぜ「鶏泥棒である」というキャプション込みで、この絵への引用までをも復帰されたのでしょうか?
 鶏を巡って争っていると思われる史料があり、それについて鶏泥棒を描いているとする解釈がなされている書籍が出典ですから、これはあなたのお好きな”検証可能性”を満たす記述・画像ということになります。(著者自身の見解がどうか、また真実かどうかは問われません) ですから、これを一方的に削除するのは、荒らし行為にあたると判断したからですよ。 Jinzuu 2008年3月4日 (火) 12:31 (UTC)
この数時間の間にNamisenjinという方が色々と追記されたようです。大半は一応出典が示されているようなので、それらの内容についてはぼちぼち検証させていただきますが、どうやらこのノートでの議論を無視して鶏泥棒うんぬんのキャプションから要出典タグを取り除かれたようです。何度も繰り返すようですが、これについては単に出典がないというだけでなく、鶏泥棒ではないという別の説が存在するのです。対立する説がある以上、仮に妥当な出典が見つかったからと言って鶏泥棒であるという一方の説だけを肯定したキャプションをつけていいことにはならないのではないですか?--Yoh-yoh 2008年3月4日 (火) 11:04 (UTC)
出典は出てますので、要出典は変では?両論を併記すればいいだけのことではないでしょうか?隠す必要はありません。もっとも「遊んでる」「喧嘩してる」どう考えても後者の絵としか思えませんけどね。両論かけばいいだけでしょう。--Namisenjin 2008年3月4日 (火) 11:22 (UTC)
鶏泥棒という解釈をした出典は何でしょうか?--Miwa.SS 2008年3月4日 (火) 11:37 (UTC)
出した出典に『船着場から上陸して町の中をうろついていた朝鮮通信使一行が、町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人とけんかになっている。』 と書かれてるじゃないですか。そもそもこの出典を消して[要出典]を貼り、読売の部分は貼らないってどういうことなのでしょうかね。恐らく読売部分は原文を読んでないで書き込んでると思われる。--Namisenjin 2008年3月4日 (火) 11:50 (UTC)
正確に訂正させていただきましたので、よろしくお願いします。--Namisenjin 2008年3月4日 (火) 12:14 (UTC)
よくわからないのですが、『日韓中の交流』においてはこの絵自体を偏見に基づくものとして事実とは認めていないし、読売の記事はYoh-yoh氏も引用しているリンク先しか見ていませんが、こちらでは泥棒とは解釈していないのですが?何か読み間違っています?それとも読売の原文は「泥棒」と書いてあるということ?それならそれが出典でかまいませんが。--Miwa.SS 2008年3月4日 (火) 12:22 (UTC)
『日韓中の交流』に該当部分は『船着場から上陸して町の中をうろついていた朝鮮通信使一行が、町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人とけんかになっている。』 と解されているので表現的に正確だと思います。読売(京都大教授)は「一緒に鶏を追いかけている図」と解しています。両論書けばいいだけですね。原文を確認したら読売の出典をお願いします。--Namisenjin 2008年3月4日 (火) 12:37 (UTC)
Yoh-yoh氏は、”子供と遊んでいる”という解釈を主張されているようですが、藤井教授の「日本の子どもと遊んだり」は別場面のことを言っているのだと思いますよ。私は直接原画を見たわけではありませんけれど、この絵図には他に”子供に菓子を与えている”と解釈できる描写があるようです。藤井教授のこの部分についての言及は「鶏を一緒に追いかける」であって、これは新聞掲載ということを鑑みて婉曲に表現したものともとれると考えますが。まぁ、曖昧ですけどご参考まで。 Jinzuu 2008年3月4日 (火) 12:46 (UTC)
私の説明が悪いので話がかみあっていませんね。『日韓中の交流』において朝鮮通信使を描いたものではない可能性を筆者は書いているわけで、その著者すら朝鮮通信使を描いたものであることに疑問を呈しているものを朝鮮通信使の項目に書く必要があるのかが、まず一点。それとは別に読売新聞の出典もあり、そちらはこれを朝鮮通信使と描いたものと解釈しているのであるのなら、その解釈のほうのみを掲載すべきではないのかというのがもう一点。Yoh-yoh氏の引用している読売新聞2004年5月4日の記事では「藤井教授は「日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる」と話している」と書かれているのですから、あの絵を掲載してキャプションを付けるのなら「鶏を一緒に追いかける朝鮮人」くらいしか書けないと思いますけどね。--Miwa.SS 2008年3月4日 (火) 13:36 (UTC)

Miwa.SSさんへ。ちょっと『日韓中の交流』の内容について誤解があるようなので。まずそもそもこの図は「平和外交が育んだ侵略・征韓論」という章で引用されています(『朝鮮人来聘記』の詳しい内容については朝鮮聘礼使淀城着来図のノートも参照してください。できれば実際に読んで欲しいところですが)。確かにこの図(図6とされている)について、キャプションでは「朝鮮通信使が鶏を盗んで町人とケンカになった様子」と書いてあります。厄介なことに、本文ではこの図に対する記述は全くなく、書かれたことが史実であるかどうかも検証していません。しかしこの段落自体、『朝鮮人来聘記』そのものについて「神功皇后や三韓征伐を持ち出して、通信使を属国による朝貢使節であると見なしている」と述べ、こうしたことが後の征韓論に繋がったと論じています。

上記はいずれも、筆者の説にしか過ぎません。本当にこの図が鶏泥棒の図なのかも含めて、あくまで一つの説だと言ってよいでしょう。もしこの書籍のこの図に対するキャプションこそが「鶏泥棒が史実であることの根拠だ」というのであれば、当然、筆者の提唱する説も併せて掲載すべきなのではないですか?(ということを当初から言っています)

ところが最初の記事では、そもそもそうした筆者の意図は一切無視して鶏泥棒であるという部分のみを抜粋して取り上げていたわけです。それがあまりに不自然だったので「もしかして『日韓中の交流』以外の出典があるのだろうか?」と思って要出典タグを張ったしだいです。

というわけでJinzuuさんとNamisenjinさんにまずこの点だけは確認しないと議論が続かないのですが、出典は『日韓中の交流』のその図だけ、ということでいいのですね?

Namisenjinさん >「両論かけばいいだけでしょう。」その通りです。ですがこちらがこの問題を呈しているにもかかわらず、ノートで先に議論しないうちに片方の説だけが書かれたキャプションを復帰されたのはNamisenjinさんですよ(2008年3月4日 (火) 10:16)。

>「読売の部分」この外部リンク、最初に朝鮮聘礼使淀城着来図の記事に引用されたのは他ならぬJinzuuさんなのですが。Jinzuuさん自身、リンク先で紹介されている読売の記事をきちんと検証することもなく、このリンクを張られたのでしょうか? もしそうであれば確かに問題です。「遊んでいる」説の要出典タグを外したのは失敗でしたね。

あのリンクは、あの時点での所在が不明だったことと、本来は彩色図であるにも関わらずカラー画像が入手できなかったために、原図がどのようであるのかの参考として画像を示すために張ったものです。元より出典として示したわけではありませんから、あくまで外部リンクなのであって、それを出典として利用されたのはあなたの勝手ですので、そのつけ回しをされても困ります。(苦笑) Jinzuu 2008年3月4日 (火) 15:07 (UTC)

なるほど。外部リンクは参考だから検証しなくてもよくて、本文の出典は厳密にやる必要があると。でもWikipedia:外部リンクの選び方に「外部リンクであっても三大方針を満たさなくてはならない」と明記されていますので、その言い分は通らないことは知っておいてください。いずれにせよ、少し時間は掛かるでしょうが、例の記事はこちらが図書館でチェックします。

あと結局、出典は『日韓中の交流』のその図だけ、ということでいいのですね? 僭越ながら「ノートにおける議論の回答拒否」はすべきでないそうです。--Yoh-yoh 2008年3月4日 (火) 16:18 (UTC)

はて、検証可能だからこそ図書館へ行くのではないですか?(笑) なお、なにやら一人でいきりたっているようですが、回答拒否もなにも、他に出典があるとは言ってないでしょうに。 Jinzuu 2008年3月4日 (火) 16:54 (UTC)

朝鮮聘礼使淀城着来図が独立した項目であり画像もそちらにあるのだからここに載せる必要が無い。リソースの無駄使い。よってカット--220.99.252.163 2008年3月4日 (火) 23:08 (UTC)

強引な削除すぎるのでは?その論理ですと柳川一件など詳細のあるページはすべて記述できなくなってしまいます。朝鮮聘礼使淀城着来図はより詳しく記載する記事であり、さわりに触れることは何ら問題はないと思いますが、いかがでしょう。--Namisenjin 2008年3月5日 (水) 00:45 (UTC)

Namisenjin氏に同意します。IP氏の無茶な主張通りなら包括的・概説的な上位項目では図版を表示することは一切出来なくなりますね。 Jinzuu 2008年3月5日 (水) 01:17 (UTC)

何が強引なのでしょう?本文はカットしていないから「鶏泥棒」の一件は残っているし、図版を示すのが目的ならリンクで十分。泥棒を強調したい目的なら別ですがね。朝鮮通信使を紹介した図版を示したいというなら部分でなく本体全部のほうを引用されたらいかがですか?さわりなら全体図のほうがふさわしいと思いますがね。鮮聘礼使淀城着来図の一部だけの図版のほうをわざわざ引用する理由にはまったくなりませんね。もしそれが、自身のレイシズムの欲望を満たしたいがための行為であるのならおやめください。--125.200.255.104 2008年3月5日 (水) 01:33 (UTC)

広島のocnさん・・・。どのアカウントの方ですか?合意もなく現在論争されてた部分を急に削除するのは強引と言えるのではないでしょうか?まさに編集合戦となるだけです。
>一部だけの図版のほうをわざわざ引用する理由
その部分の説明をしてるからです。それが何か問題があるのですか?
閲覧者が分かりやすい図の載せることは何ら問題ありません。問題があるならば、どんなガイドラインをもとに判断されてるのでしょうか?ソースをお待ちしております。個人の思想からの感情的強行行為はお止め下さい。出典のある記載でなにが「レイシズム」なのでしょう。その説明もお願いします。編集合戦になるだけの行為はお止め下さい。無駄な行為です。(皆でまずCUしてみませんか?どうもいくつもIPになったりアカウントこねくり回してるように思えるのですが)--Namisenjin 2008年3月5日 (水) 01:58 (UTC)

だから二重表記だっての。それが理解できていないようですし、図版にどうしてもこだわるようなので、図版残したうえで一箇所にまとめました。--220.96.243.25 2008年3月5日 (水) 02:18 (UTC)

ああ、あとダイアルアップだから数分ごとに毎度IPは変わりますがそれは仕様ですから。プロバイダもアクセスポイントで変わりますから。最初が空港、以後、大学、某企業と変わってますから。夕刻にまた時間があれば空港IPになりますよ。以後もここにかかわるとIPが羽田アクセスから川崎に最終的になるでしょうが全部同一人ですから。--220.96.243.25 2008年3月5日 (水) 02:22 (UTC)

意味不明ですが二重表記が嫌とのことで図の解説様式に変えました。--Namisenjin 2008年3月5日 (水) 02:25 (UTC)

そんなんだったらアカウントとったらいかがですか?みな混乱しますから。他のアカウント使いつつipでもこちらに参加してないことを祈ります。--Namisenjin 2008年3月5日 (水) 02:36 (UTC)

広島ocnさん。現在の状態[3]ならば私は合意します。--Namisenjin 2008年3月5日 (水) 02:44 (UTC)

Namisenjinさんも鶏の絵の出典は『日韓中の交流』だけということでよろしいですか?あとIPさん。混乱を避けるため、出来れば私もアカウントを取っていただきたいです。でなければせめて投稿の頭にHNっぽいものを入れて貰えると嬉しいのですが。--Yoh-yoh 2008年3月5日 (水) 07:00 (UTC)
ええ。そもそも『日韓中の交流』は講演を文章化したものであり、ロナルド・トビ氏の論ですので、彼の書物を探すと同じことが書かれてるかもしれませんね。現在の表現スタイルで何ら問題ないのでは?まだ何かあるんですか?--Namisenjin 2008年3月6日 (木) 06:59 (UTC)
はい、あります。まず「鶏泥棒の図」そのものは『日韓中の交流』からの出典ですが、同書籍の当該の章の中にはたくさんの図版があり、同じページにも別の絵が引用されています。なのになぜその絵だけをことさら引用する必要があるのか? 鶏泥棒を史実として強調したいがゆえのPOVなのではないのかという点。
もう一点、こちらは既に申し上げていますがもう一度。同書籍においてたしかに図に対するキャプションは「通信使が鶏泥棒を働いている」旨であることは間違いありませんが、本文中でこの図が史実かどうかの考察はなされていません。ですが最新の記事本文では「庶民と喧嘩沙汰になることもあったようである」となっています。筆者はこの図が史実であるかどうかを論じているのでなく、あくまで「のちの差別に繋がった根拠」として引用しているわけで、その図だけで鶏泥棒を史実として紹介するのはORに該当します。
あと瑣末ですが、「ようである」などの曖昧表現、WPのガイドラインWikipedia:言葉を濁さないにおいてはPOVが入り込む元なので避けるべきとありました。こちらもうっかりそうした記述をしがちなので今後注意しますが、気をつけたほうがよさそうです。--Yoh-yoh 2008年3月6日 (木) 14:04 (UTC)
>同書籍の当該の章の中にはたくさんの図版があり~なのになぜその絵だけをことさら引用する必要があるのか
多くの画が使われてますか?他には「朝鮮人が動物を解体している絵」をはじめ、わずかだと思いますが。ともあれ、他の図で必要だと思うものがあるならば記載してみればいかがですか?何もそれをアナタのようになぜか必死に公に出ている図と解説を消し去ろうとする人はいないと思いますよ。それこそPOVではないでしょうか。今回の記事はちっとも偏った記述ではないと思いますが、万が一偏った記事だとしてもPOV「偏った意見を削除して良いか」をお読み下さい。
あとの論については「ようである」を「述べている」と表現を変えましたので終了ということで。--Namisenjin 2008年3月6日 (木) 15:08 (UTC)
表現を悩みましたが「ようである」→「~とされる絵も描かれている」としました。--Namisenjin 2008年3月6日 (木) 15:34 (UTC)

『東槎録』は当然原本ではなく現代語訳されたものが出典でしょうから、現代語訳版をちゃんと付記しておいたほうが良いと思います。『大系朝鮮通信使』ですかね?--Miwa.SS 2008年3月7日 (金) 09:19 (UTC) あと、出典として『東槎録』と『江戸時代を「探検」する』を連記されていますが、できればどっちがどっちの出典か明確にされたほうがよいと思いますよ。--Miwa.SS 2008年3月7日 (金) 09:24 (UTC)

コメントはこちらへ[編集]

Yoh-yoh氏がコメント依頼を出されました[4]。そこでこのコメント依頼で書かれた内容で気になった所を指摘させていただきます。

「泥棒をして喧嘩になっている絵」が引用され著者が史実であると述べているという記述がされています
されていません。何のためにあなたとここで話して改良してきたのか。あなたがコメント依頼する前に「通信使が泥棒をして喧嘩になっているとされる絵」という表現の記事に改良されてます。どこに「史実である」という記述・表現があるのでしょうか?捏造してコメント依頼をしたのでしょうか?
「当時の偏見が後の差別に繋がった」という文脈の中でその絵を取り上げています
著者は「差別」などということは一切語っておりません。著者は「通信使が泥棒をして喧嘩になっている絵」等があり、「当時の偏見が征韓論などに繋がったのではないか。そして朝鮮人にも偏見があり、お互いが自己中心的であった」という主張です。現在の記事ではほぼその内容になっています。第三者にコメントをお願いする時には正確に書いていただきたいものです。
引用元の意図を無視したうえで史実としてWPの記事に引用するのはORやPOVに当たるのではないかと考え、ノートにてその旨を呼び掛けましたが、平行線となっています。
現在の記事は引用元、そのままの記述になっていますが?どこが違うのか具体的に指摘してみてください。お願いします。上にも記載したようにあなたがコメント依頼する前にすでに史実っぽさを感じさせる表現は改良されていました。現在の記事のどこが「史実として」書かれているのでしょうか?具体的におっしゃっていただきたいものです。
以上から、コメント依頼で語っている内容自体が、すでに現在の記事とズレタ内容となっていることを指摘させていただきます。--Namisenjin 2008年3月6日 (木) 17:43 (UTC)
Namisenjin氏の指摘通り本記事においても、また朝鮮聘礼使淀城着来図においても、出典書籍の著者が史実であると述べているとは記述されていませんね。このコメント依頼を出したYoh-yoh氏の行動は、あくまで該当画像・解説を削除するという自分の我意を通すために、新たな議論参加者に虚偽の歪曲した情報をあらかじめ刷り込むことで、意図的にミスリードを誘っているようにしか受けとれません。 Jinzuu 2008年3月7日 (金) 01:01 (UTC)
ノート:朝鮮通信使#出典からの引用の仕方に問題はないですか」という節の中で議論していたのに、私がコメント依頼を提出したら、なぜ不意に節を改められたのでしょうか。コメントに来られた方が勘違いして、以前のコメントのやり取りを見ないままコメントする可能性について考えられた上でのことでしょうか。コメント依頼で来られた方は、ぜひとも上記の節の内容を読んだうえでコメントしていただくようお願いします。
「現在の内容とずれている」とありますが、私が問題にしたのは3月6日 (木) 15:29の版です。それ以前の3月5日 (水) 02:46の版では「喧嘩沙汰になることもあったようである」とあったことについて私が3月6日 (木) 14:04に異を唱えたら、3月6日 (木) 15:29の版で「喧嘩沙汰になることもあったとも述べられている」と表面的に書き換えただけだったのです。その時点で、あなた方のされた編集だとまだ史実として扱っていますね。こちらとしては運悪く、コメント依頼を出すための手続きを取っている間に現在の記述内容に修正された、と。でもほんの数時間前までそのような出展元の意図を無視した記述だったわけです。たまたまこのタイミングで自分たちの手で現在の内容に改めたからと言って、それを逆手に取ってそちらのほうが現在の表現を支持しているかのように取り繕われているだけですね。--Yoh-yoh 2008年3月7日 (金) 05:16 (UTC)
根本的に思い違いしているようですが、検証可能な史料・出典が示されている以上、”史実として扱う”かどうかが問題なのではなく、出典書籍の著者が史実だとしていないのに、”著者が史実であると述べている”と著者の著述内容について事実と異なる記述すること(あるいはそう誤解させること)が問題なのでしょう。史料が史実かどうかの判断自体については、なんら著者の解釈に拘束されるものではありません。
なお、Namisenjin氏の編集は、あなたの2008年3月6日 (木) 14:04 (UTC)での主張を受けて表現をあらためた訳ですから、その間に自分がこっそりコメント依頼を出していたという非を棚に上げてのお門違いの非難じゃないですか?(笑) Jinzuu 2008年3月7日 (金) 07:08 (UTC)


>「出典書籍の著者が史実だとしていないのに、”著者が史実であると述べている”と著者の著述内容について事実と異なる記述すること(あるいはそう誤解させること)が問題なのでしょう。」→まさしくその通りです!
実際、3月1日 (土) 00:07以前の版では「鶏を盗むなどして喧嘩沙汰<ref>『朝鮮聘礼使淀城着来図』(1748) 鶏を盗んで町人と喧嘩をする随行員の姿が描かれている</ref>になることもあったようである。」という史実であるかのような記述がありました。これをこちらが3月1日 (土) 05:03に修正したところ、Jinzuuさん自身が3月3日 (月) 13:05において00:07版と同じ記述に差し戻してしまった。そのことを問題にしています。
Jinzuuさん、あなたは『日韓中の交流』をお持ちだからこそ「出典書籍の著者が史実だとしていないのに、”著者が史実であると述べている”と著者の著述内容について事実と異なる記述すること(あるいはそう誤解させること)が問題」だと言えるのだと思います。ならなぜ、あなた自身の手で3月1日 (土) 00:07に著者の記述と異なる記述を復活しているのでしょうか?
ついでに、さらに履歴を調べたところ。Jinzuuさん、あなたは10月30日 (火) 05:03において「喧嘩沙汰になることも多々あったようである。<ref>『朝鮮聘礼使淀城着来図』鶏を盗んで町人と喧嘩をする随行員の姿が描かれている<ref>横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。」などと書いています。あなたはこのノートで以前、『日韓中の交流』以外この件について出典がないことを認めていますが、それならなぜあなたは『日韓中の交流』に一言も書いていないことを記述されたのでしょうか?これらは「事実に反し、Wikipediaの価値や信頼を損ないかねない記事の投稿」だと思うのですが。--Yoh-yoh 2008年3月7日 (金) 07:36 (UTC)
>私が問題にしたのは3月6日 (木) 15:29の版
それはコメント依頼を出した時点ですでに過去のものですから、コメント依頼のあなたの説明内容がズレテいるのは間違いないことです。コメント依頼するときは、お互いにこちらで話して改良中なのですから、ここの当事者に報告して様子を見てから行ってください。コメント依頼を出す直前に一応確認するくらいのことはしてください。そしてなぜ未だに訂正していないのか不思議でなりません。とにかくあなたが指摘していることは、すでに過去のものであり、ノートで話し合いつつ改良されていった理想的な流れだったと思います。不可思議なコメント依頼だけが残念でした。コメント依頼を読まれた方が混乱するかもしれないので、少なくとも訂正しておくべきでしょう。--Namisenjin 2008年3月7日 (金) 09:01 (UTC)

訂正とはコメント依頼を取り下げろと言うことですか?“編集における合意に向けて出したコメント依頼”です。現状の記述がたまたま書き換えられてそうなっているからと言って「それでおしまい」というものではないでしょう。議論を終わらせたいようですが、むしろ性急にコメント依頼を取り下げる必然性がありません。あなたもせっかくだから、第三者の意見を聞いてみたいとは思いませんか。

なおWikipedia:論争の解決Wikipedia:コメント依頼には、特にコメント依頼を出すに当たってノートで合意を得る必要があるとは書いてありません。合意が得られないからコメント依頼に出すわけで、コメント依頼を行うのも同意が必要だとするとコメント依頼そのものが機能しません。

あと別問題として、ノートで議論していく上でJinzuu氏が『日韓中の交流』が引用元であることを認めているにもかかわらず、明らかに書籍にない記述「喧嘩沙汰になった」を復帰したり、「簡単に叩きのめされた」という記述を放置したりしていることが分かりました。これもおかしな話ですね。--Yoh-yoh 2008年3月7日 (金) 10:09 (UTC)

「訂正」と「取り下げる」は意味が違うので、言葉を正確に捉えてください。あなたがコメント依頼した時点でその指摘内容と記事内容がズレているのですから、訂正するのは当然ではないでしょうか。「訂正」を「取り下げる」とあなたの中で脳内変換してしまっている時点であなたの上記の論理もズレテしまっています。また、改良中に当事者に何の連絡もせずに依頼を出すから、ずれた内容で依頼してしまうというミスをしてしまっていることにお気づき下さい。ルール以前の問題です。
ところで、すでに改良され、あなたの指摘内容が存在していない記事において、何の「合意」を目指してらっしゃるのですか?--Namisenjin 2008年3月7日 (金) 10:54 (UTC)
こちらの主張に合わせて変更したと言いますが、変更した瞬間に議論が終わるわけではありません。当たり前のことですが、議論というのは相手が納得して初めて終わるのです。まだこちらが納得していない、即ち議論が終わっていないのだから、ズレもミスもありません。
現在の内容だと結局、鶏泥棒の絵は(『日韓中の交流』しか出典がないにもかかわらず)『多くの賦役を課される沿道の町人や農民には嫌われ、右上の朝鮮聘礼使淀城着来図にあるように「町の中をうろついていた通信使一行が、町人の飼っていた鶏を盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩になっている」という絵も描かれている』という文脈の中で引用されています。そしてくどいようですが、『日韓中の交流』におけるその絵の扱いはあくまで「当時から偏見が育まれていた」という文脈の中にあるものです。引用元の解釈とは異なる文脈の中で絵を引用しているのですから、やはりこの引用の仕方がORであることに変わりはありません。私がコメント依頼に出した問題は依然として解決していません。
あとコメント依頼に出されたのが不快だったかも知れませんが、私などは一度、謙虚に他の方の意見も聞いてみたいものです。--Yoh-yoh 2008年3月7日 (金) 20:08 (UTC)

拘っておられる部分を明確にしました。ようはこの点について出典を付記すればいいのでしょう?また上記にも書きましたが『東槎録』は当然原本ではなく現代語訳されたものが出典でしょうから、現代語訳版をちゃんと付記しておいたほうが良いと思います。『大系朝鮮通信使』ですかね? 出典として『東槎録』と『江戸時代を「探検」する』を連記されている部分は、どれがどの出典か明確にされたほうがよいと思いますよ。--Miwa.SS 2008年3月7日 (金) 22:42 (UTC)

なるほど。というかそもそも、少し後ろに「むしろ朝鮮通信使がのちの朝鮮人蔑視に繋がったとする説もある」という『日韓中の交流』からの引用がもう一度あるわけです。その文脈の中で引用された図なわけですから、本文中の「鶏を盗んで喧嘩になった図が残っている」云々の件はそっくりそのままそちらへ移動させたほうが適当なのではないでしょうか。議論中に記事を弄ることになりますが、試しにこっちでやっていいでしょうか?--Yoh-yoh 2008年3月8日 (土) 02:48 (UTC)
コメント依頼その他を見てきました。その本を私は持っていないので答えようがありませんが、その本では『この絵は「鶏を盗んで逃げようとしている」と言われているが、実は偏見からくるものである』という書き方がなされているのに、最初の強調部分だけ抜き出しているというのが問題なのでしょうか?となると、「批判目的で書かれた出典から肯定派の資料を持ち出すのはおかしいことではない」と思いますし、「そういう意見がある一方、否定派では~」と後ろに追記して書けばいいのでは?あと、コメント依頼のほうですが、あそこでは基本的に依頼者の意見を書いたりしないようにせねばならず(議論の場になることを防ぐため)、そういう意味で今回の件では「この絵の解釈をめぐって議論がなされている」という程度にしておいたほうがよかったでしょう。その点については少し問題があったかなと思います。--青子守歌会話/履歴 2008年3月8日 (土) 05:32 (UTC)
Yoh-yoh氏へ
>ズレもミスもありません。
では、どこに「史実として」書かれてあるのか、指摘してみてください。あなたが依頼した時点ですでに改良されていました。ミスはしっかり認め、訂正しましょう。第三者が混乱しますし、そんな我を通す姿勢では他人と「合意」をするなど不可能ですよ。
>コメント依頼に出されたのが不快だったかも知れませんが
コメント依頼は歓迎です。ただし依頼内容が事実と違うことを述べているのは問題であり、それを批判されていることにお気づき下さい。
>『日韓中の交流』しか出典がないにもかかわらず
出典は一つあれば十分であり、反証する出典があるならば出せばいいだけです。意味不明なお言葉です。
>引用元の解釈とは異なる文脈の中で絵を引用している
まずこの絵の解釈として著者自身が記事の通り「泥棒の絵」としています。そして「日本人が朝鮮人をどのように見ていたのか」の一つとしてこの絵を上げています。事実はここまでです。著者はこの絵について「偏見のもとだった」などという解説は一言も書いてません。
しかし全体を読むとこの「泥棒の絵」や「日本人が朝鮮人を野蛮と見ていた文献」等を挙げた上で、「日本人は朝鮮人を迷惑がり、野蛮と見ていた」という日本人が当時持っていた朝鮮人イメージを著者が語っていることは判断はできます。ならば、現在の記事の「嫌われていたからこの絵が書かれた」という表現は著者の解釈と同じであると思えますけどね。まあ、著書とほぼ同じ表現で書き直してみましょう。
>少し後ろに「むしろ朝鮮通信使がのちの朝鮮人蔑視に繋がったとする説もある」という『日韓中の交流』からの引用がもう一度あるわけです
もう一度あるって・・。あなたが後から書き足しただけでしょ。ご自分で執筆部分を除去してください。そもそも「蔑視」などと著者は一言も述べていないにもかかわらず独自判断でその言葉を使ってはいけません。--Namisenjin 2008年3月8日 (土) 05:53 (UTC)
miwa氏へ
Yoh-yoh氏の主張を見ると、確かにmiwa氏が明確にした部分(要出典箇所)だけですね。その部分を著者の指摘どおりの表現に変えてみようと思います。また、『東槎録』と『江戸時代を「探検」する』をより詳細に書いて分けたいと思います。
青子守歌氏へ
コメントありがとうございます。著書は『この絵は「鶏を盗んで逃げようとしている」と言われているが、実は偏見からくるものである』ではなく、『「鶏を盗んで逃げる通信使」の絵があり、こういう絵から当時の日本人が持っていた朝鮮人へのイメージがうかがえる』という論です。著者自身がこの絵は「鶏を盗んで逃げようとしている絵」と主張しています。--Namisenjin 2008年3月8日 (土) 05:53 (UTC)

指摘箇所など気にされた部分を改良してみましたが、いかがでしょう--Namisenjin 2008年3月8日 (土) 07:03 (UTC)

>「史実として」 コメント依頼文のその語句のみに拘られていたんですか。確かに依頼を出した時点では修正されていたことは認めます。また主観的な依頼文になったことも今後気をつけます。依頼自体は妥当だと思いますが。
>この絵は「鶏を盗んで逃げようとしている」と言われているが、実は偏見からくるものである』ではなく ええ、私もそんなことは一度も言っていませんよ。くどいようですが、(1)『日韓中の交流』本文中ではこの絵に対しての解釈は一切ありません。(2)キャプションに「鶏を盗んで喧嘩になっている図」とあります。(3)この絵の掲載されたページでは「文化の違いから来る偏見が、のちに征韓論や侵略に繋がった」という説が展開されています。ここまでは共通見解ですね? 事実かどうかはWP利用者の想像に任せればいいことです。ただし情報の提供のさいに、引用元の意図が誤解されないよう表現に注意しなくてはいけません。
こちらが問題にしているのは、あくまで「当時から肉食など文化の違いによる偏見があって、それが後の征韓論に繋がったと考えられる」というのが本来ワンセットで著者の主張である点です。色々表現を改めらているようですが、現行の表記でも結局「文化の違いから好意的に見られていなかった」として「それに対して後の征韓論に繋がったという説もある」と分けて記述してある。さらに前半は「うかがえる」と言い切りの形なのに、後半は「説もある」を残すのはまずくありませんか? 利用者に「文化の違いから好意的に見られていなかった」説だけが単独で存在するかのように誤解させてしまいますよ。それどころか鶏泥棒云々が、別の出典による直前の文「礼儀のない行為をした記録も多く残っている」の傍に来てしまっています。別の出典『江戸時代を“探検”する』による記述と『日韓中の交流』による記述は、段落分けすべきでしょうね。毎回そちらにばかり書き直させるのも悪いですし、こちらでやってみましょうか。
>あなたがあとから書き足した ある本の著者の主張を、引用を示した上で書き足すことのどこがいけませんか? WPの方針に従って書いた文章を「>除去してください」などと、なぜ言われなくてはいけないのでしょうか。これはちょっとあまりに酷い言い分じゃないでしょうか。
>蔑視 たしかに蔑視と言う言葉“自体”は使ってませんが…ではそれは「征韓論や侵略に繋がった」辺りの言葉に置き換えればいいでしょう。その言葉は本文中にありますし、章のタイトルにもありますので。しかし本文中で使われていない言葉を使ってはいけないなら「迷惑な人々と感じていたことがうかがえる」もアウトなのではないですか。「迷惑」という語もないし、「うかがえる」という言い回しはWP編集者の主観だと読めますが。
あと見逃していましたが、いつの間にか『画図入朝鮮来聘記全』という出典が追記されています。これって二百年以上前に書かれた本ですが、単独で検証可能な資料なんですか? 『日韓中の交流』の本文で引用されているしか確認できないのであれば、直接の出典とは言えないのであくまで『日韓中の交流』内の主張の一部として紹介するのが妥当です。鶏泥棒と同じことを繰り返されるのはちょっと…という気がします。 --Yoh-yoh 2008年3月8日 (土) 15:42 (UTC)
修正しました。こうして分けた方が、誤解が生まれる余地がないものと考えます。先に言っておきますが、キャプションの文章を変更したのは「引用元の文章をそのまま引用するのは著作権違反」だからです。なるべく忠実に引用するのはいい心掛けですが、そのままは感心しません。
あと僭越ながらNamisenjinさんの編集に一つ注文が。記事を短時間のうちに何度も変更するのは避けていただけませんか。誤字脱字のような細部の変更はしょうがないとして、サーバにアップロードしながら推敲しているかのようです。これはWPですべきでないとされている行為です。サーバ資源の無駄遣い、履歴チェックの妨げ、他者の編集との衝突の元だからです。
もう一つ「記録も残っている」を「記録も多く残っている」と改められていますが、これはどういう意図があったのですか。
遅くなりましたが青子守唄さん。この絵が「鶏を盗んで逃げようとしている様子」だという主張(絵が史実かどうかではなく、絵そのもの意味するところの解釈)自体、そもそもこの書籍でしか見受けられないものなのです(今のところ要出典扱いですが[5]という異なる解釈もあります)。他に出典がないのであれば、分けるのは不適当ということでいいですね?--Yoh-yoh 2008年3月8日 (土) 16:58 (UTC)

少し訂正しましたが、現在の状況ならば文句はありません。あと引用が著作権違反とおっしゃってますが一応「著作権法第32条」の規定をお読みください。まあ、一段落と言うことで。--Namisenjin 2008年3月9日 (日) 01:10 (UTC)

そうですね。まあ町人云々の追記くらいは瑣末なことですし、あと要出典となっていた読売新聞に「この絵を所蔵していた京大教授は子どもと一緒に鶏を追いかけていると評している」記事があったという情報について削除されましたが、これは裏が取れましたら復帰します。それも異論ないでしょう。この点について念のため1~2日、他の方の意見を待った上で、この件についてはコメント依頼を終了します。期間が長過ぎるというならそちらで削除していただいて結構ですが、あまり急ぐと協力していただいた他の方も言いたいことがあるかも知れませんので、その辺はお任せします。
なお、引用の例外についてはこちらもよく存じています。ただそれを適用するには厳密な検討を行うようWPのガイドラインにありますので、例の文章については念のため引用を避け、噛み砕いた表現にしたものです。これも異論ないですね。
さて、じつは申し訳ないのですが、議論している最中「交流」の節にそれらとは別の問題があることに気付きました。ただちょっと…対象箇所は同じでも、内容がこれまでの議論と全く異なりますので、論点の混乱を避けるため後回しにしていました。この件、すぐに取り掛かるのと、コメント依頼完了を待つのと、どちらがいいですか。--Yoh-yoh 2008年3月9日 (日) 04:54 (UTC)
少し修正かけておきました。また、絵もあまりにも小さくされすぎていて、見にくかったので、少しだけ大きくしましたのでよろしく。--Namisenjin 2008年3月9日 (日) 06:46 (UTC)

Yoh-yoh氏に対して訂正文の掲載および謝罪を要求します[編集]

>ついでに、さらに履歴を調べたところ。Jinzuuさん、あなたは10月30日 (火) 05:03において「喧嘩沙汰になることも多々あったようである。<ref>『朝鮮聘礼使淀城着来図』鶏を盗んで町人と喧嘩をする随行員の姿が描かれている<ref>横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。」などと書いています。あなたはこのノートで以前、『日韓中の交流』以外この件について出典がないことを認めていますが、それならなぜあなたは『日韓中の交流』に一言も書いていないことを記述されたのでしょうか?これらは「事実に反し、Wikipediaの価値や信頼を損ないかねない記事の投稿」だと思うのですが。--Yoh-yoh 2008年3月7日 (金) 07:36 (UTC)

太字強調までして非難していますが、該当記述は私の書いたものではなく、あなたの全くの事実誤認による誹謗中傷です。私はその部分については、逆に上記『”交流”節の出典の確認』 [6]の通り、太字該当部分の出典の確認を求め、本文には要出典タグを張りつけています。 したがって、全く受ける謂われのない誹謗であり、私の編集スタンスに対して他の方の誤解・疑念を生じせしめる看過できない中傷行為ですので、あなたに訂正文の掲載及び謝罪を求めます。 Jinzuu 2008年3月9日 (日) 08:19 (UTC)

そういうことは個人のノートでやり取りしたほうがいいのでは?ここに書くにしても先に相手のノートに書くべきでしょう。せっかくいい具合に編集改善されてきているのに。--Miwa.SS 2008年3月9日 (日) 09:30 (UTC)

平たい話が「横柄な態度の割に~。」という引用元にない記述“そのもの”を「Jinzuu氏が記述した」と言っているのではありません。(1)投稿の前半で指摘した「Jinzuu氏が引用元の主張にそぐわない記述を復活した」事実 及び (2)投稿の後半で指摘した「引用元にない『横柄な~』という記述(太字で表現)を含んだ箇所にもかかわらず、Jinzuu氏が出典を『着来図』だと記述した」事実について「なぜ記述されたのか?」聞いています。
まあたしかに文章後半だけ抜き出して読むと、誤解を生みかねない表現であることは謝ります。ここから先はもはや、この記事の議論対象から外れるのでMiwa.SSさんが仰るようにこちらのノートに書いてください。投稿ブロックに問題提起されても結構です。
が。いずれにせよ、まずあなた自身が「WP記事の記述について、その資料にない記述にもかかわらず、この資料が引用元だとする」編集行為を何度か行われたことについて、まず説明されるのが筋だと思います。--Yoh-yoh 2008年3月10日 (月) 06:30 (UTC)
あなたの釈明の通りであるなら、私の関与がないと承知の上で、意図的に批判に利用した大変悪質な行為ということになりますね。 まぁ、あなたが誠意をもって謝罪する気がないのはよく解りましたから、この件はここまでにしましょう。既に私への個人攻撃ページと化しているあなたのノート[7]で続ける気は元よりありませんから。
さて、あなたの主張は”出典書籍の著者が史実と主張していないので史実として扱うことは許されない”ということに尽きるのかと思いますが、端から理解する気がないのか理解するだけの読解力がないのかは解りませんが、私は既に『検証可能な史料・出典が示されている以上、”史実として扱う”かどうかが問題なのではなく、出典書籍の著者が史実だとしていないのに、”著者が史実であると述べている”と著者の著述内容について事実と異なる記述すること(あるいはそう誤解させること)が問題なのでしょう。史料が史実かどうかの判断自体については、なんら著者の解釈に拘束されるものではありません。』と明確に見解を示しています。この画像に関して具体的に言えば、朝鮮通信使の接待を実際に務めた者がその記録として残したものですから、当然史実を記しているものと推定され、そのように扱われるべきものです。そして、これを史実ではないと主張するのであれば、そう主張する者が反証を上げるべきものです。(ですから書籍著者も史実ではないという主張もまたしていませんね) あなたが自分の主張に沿わないからといって自分の独自解釈を押しつけようとしきりに絡んでみたところで、到底同意はしかねます。
なお、あなたが前段で問題にしているという、3月3日 (月) 13:05の編集は、あなたが『出典からの引用の仕方が恣意的だったので修正。』との要約で、何の合意形成もなく行った削除を基本的には原状に差し戻しただけ(画像位置についてはあなたの先立つ意見に理があるものとして変更)であって、「事実に反し、Wikipediaの価値や信頼を損ないかねない記事の投稿」などと非難されるべきものだとは全く考えません。また、3月1日 (土) 00:07の私の編集というのは該当するもの自体がないので全く意味不明です。(同タイムスタンプの編集は水野白楓氏によるもの)
まぁ、何はともあれ、事実関係はきちんと確認して、もう少し落ち着いて冷静に投稿されては如何ですか? Jinzuu 2008年3月10日 (月) 11:33 (UTC)
今でもその考えが正当であって、(感情的な問題としてでなく、記事の問題として)まだこのノートで議論する必要があると考えていますか。他の方とは合意形成が出来ているのですが、もしあなたが「いや、まだだ」と言うのであれば止むを得ません。
「『日韓中の交流』本文では史実かどうかを論じていない」のは、あなたも他の方も認めている事実です。また、史実かどうかを論じていない『日韓中~』を「史実として記述した(その当時の)WP記事本文の引用元にしているからおかしい」と言って削除したところ、その記述をあなたが復帰されたのも事実です。
結局、「書籍で論じてもいないことを引用した」記述を復帰されたわけです。この点、端的な事実であり、筆者の意図すら無関係でしょう。そちらが復帰された当時の記述を、知らない人が読んだら「出典は史実だとしているのだな」と誤解しますよ。
それについて、「著者の解釈に拘束されるものではありません。」「当然史実を記しているものと推定され、そのように扱われるべきものです。」などと仰るわけですが、この言い分にしてもWikipedia:独自研究は載せないに抵触するでしょう。WPの記事に「そう解釈するのが当然」などと編集者の推定を忍び込ませてはいけない。どうしてもそれが分かっていただけませんでしょうか?--Yoh-yoh 2008年3月11日 (火) 05:40 (UTC)
あなたが『まず説明されるのが筋』などとしつこく要求していたので、再度私の見解を示したまでです。現状の記述は概ね妥当だと思っていますよ。なお、相変わらず編集者の推定などと曲解しているようですが、当然ながら史料の性質から推定される蓋然性のことを指しています。 Jinzuu 2008年3月11日 (火) 09:35 (UTC)

>史料の性質から推定される蓋然性 えーっと…まあ聞いてください。『日韓中の交流』の内容について、他の方と議論になった時に、共通していた見解があります。いずれも「意見」ではなく、書籍の内容についての「ありのままの事実」です。(1)本文中では史実かどうかも含め、その絵そのものに対する言及は一切ない。(2)絵のキャプションでは、「通信使が鶏泥棒してケンカになっている様子」と説明している。(3)その絵が掲載された段落は「友好使節のはずの通信使が、肉食など文化の違いもあってかえって偏見を生み、後の征韓論に繋がった」という趣旨である。

上記3点のうち(3)は今はさておき、(1),(2)について、ここまではあなたも事実であることを認めていると。そのうえでの議論ですね?--Yoh-yoh 2008年3月11日 (火) 12:47 (UTC)

コメント依頼のガイドラインによると、「対立がきちんと解消するか、最後の投稿から1月経った」場合にコメント依頼解除するとありますので、とりあえず様子を見ます。コメント依頼から来られた方は、このノート内の「出典からの引用の仕方に問題はないですか」「コメントはこちらへ」の節もご覧ください。--Yoh-yoh 2008年3月14日 (金) 04:29 (UTC)

読売新聞の記事について[編集]

読売新聞の記事において「『着来図』の鶏の描かれた箇所について(泥棒ではなく)単に子どもと遊んでいるとする見解」が紹介されていたという情報、出典が確認できましたので復帰します。--Yoh-yoh 2008年3月17日 (月) 13:00 (UTC)

案の定、先の指摘の意味を理解していなかったようですが、新聞記事にある「日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写され」という藤井教授の解釈は、あくまで全体図についてのものであって、「日本の子どもと遊んだり」という解釈が、この鶏泥棒とされる場面についてのものかどうかは新聞記事からでは判別不可能です。
この『朝鮮聘礼使淀城着来図』については、「朝鮮通信使一行を絵図で見ると、城下町を行進しているが、決して整然としていない。行列からはみでて鶏を追いかけている者、路上で子供に菓子を与えている者などがある」(辛基秀/『朝鮮通信使往来』 労働経済社)といった解釈もあり、むしろ藤井教授の子ども云々のくだりはこの菓子を与えている別の場面を指している可能性の方が高いでしょう。
少なくとも、この部分図についてのものであるかどうかが定かでない藤井教授のコメントを援用して、鶏泥棒を描いた図でないとするのは、あくまであなたのPOVにすぎません。 Jinzuu 2008年3月17日 (月) 15:15 (UTC)
私は最初、読売の出典が確認できれば良いと思ってましたが、Jinzuu氏の指摘により、確かに該当部分の図の解説かどうかがわかりませんね。全体図の解説としてはよろしいのでしょうけど。Jinzuu氏の意見に賛同します。--Namisenjin 2008年3月17日 (月) 22:54 (UTC)
一つ質問したいのですが、「『着来図』の中には他にも鶏が描かれている場所がある」のでしょうか?
あとJinzuuさん、あなたは『朝鮮通信使往来』という『日韓中』や読売新聞記事とは別のソースを持っていて、その書籍には「鶏を追いかけている者」とだけあるということも知っていたのだけれど、そのことは今まで取り上げて来られなかったのでしょうか。--Yoh-yoh 2008年3月19日 (水) 03:32 (UTC)
質問も良いですが、本項に何を書くべき、何を書かぬべきという具体的な話から遠ざかりつつある様な気がします。建設的な進行でありたいですね。--yasumi 2008年3月20日 (木) 03:01 (UTC)
他に鶏を描いた場面があるかどうかは知りません。鶏が他に居ようと居まいと、『日本の子どもと遊んだり、』という解釈が、鶏泥棒とされる場面のものであると特定できない以上、それを援用することはできないという至極単純な道理をまだ理解できませんか? なお、『朝鮮通信使往来』については、あなたにそんなことまでいちいち回答する必要も意味もないと考えます。
あなたの一連の行為は、言ってみれば他人のふんどしどころか、対戦相手のふんどしで相撲をとって(私の張った着来図旧外部リンク[8]の援用)、しかも相手からは、そのふんどしは綻びているから、と事前に忠告(着来図ノート[9])されていながら、それ無視して力んだところ、当然ながらふんどしが切れた(本件のあっけない差し戻し[10])のに逆ギレして、相手に代わりのふんどしを要求しているようなものです。 Jinzuu 2008年3月20日 (木) 04:42 (UTC)
Yoh-yoh氏が井戸端で質問をされているようですが[11]、この質問はここのことではないですよね?もしここのことでしたら、またズレタ質問(例に挙げている内容がJinzuu氏に指摘されたことと違いすぎる)をしていることになってしまいます(質問に回答していただいている方々に失礼になってしまいます)。もしここのことでないのならば、申し訳ありません。--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 02:03 (UTC)
この件のことなのでしょうね。おかげでYoh-yoh氏が先の指摘の意味を全く理解していないことがよく解りました。 上でコメントを寄せている青子守歌氏も、別の井戸端での質問からYoh-yoh氏のノート、コメント依頼と引っ張り回されてのことのようですし、自説に都合の良い例にすり替えて賛同意見を募るというのはYoh-yoh氏一流の手法なのでしょう。 時間を割いて真面目に回答している方がお気の毒ですね。 Jinzuu 2008年3月20日 (木) 04:42 (UTC)
>Yasumiさん。実際に読売新聞の記事が出展として見つかったので、当然それを記述してよいものと考えました。ところがそれを削除されてしまったのです。その削除の是非を議論しなかったら、WPにおいていくら記事を書いてもその傍から削除されてしまいます。少なくとも一つ目の「他に鳥が描かれている場所があるのか」はそもそも相手方の言い分を確認するためのもので、議論を続ける上でどうしても必要だと考えています。
>Namisenjinさん。井戸端の話題はこのケースを意識していますが、質問自体はこのケースと全く一緒ではないです。ただこちらが井戸端でどのような話をしようと、それをそちらが監視してどうこう言う権利はないと思います。「例えばこういうケースはどうか」「具体的にこういうケースで揉めているが」そういう質問をするための井戸端なのではないですか。別にそちらが井戸端に出て来られてもよいのですよ。
あと結局のところ「他に鳥が描かれている場所が確認できる」のでしょうか。--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 04:58 (UTC)
確実にここの件のことでもない、ということで安心しました。失礼しました。逆に質問ですが、「他に鶏が描かれていない」とする出典は出せるのでしょうか?--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 05:40 (UTC)

>他に鶏が描かれていない すみませんが順番上、先にこちらの質問にご回答いただけないでしょうか。現時点でそちらは「鶏が他にいることを確認出来ていない」ということでよろしいですね?--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 05:55 (UTC)

基本をお忘れでは?記述を残したい方が、証明しなければなりません。読売の出典を該当の絵の部分の解説であるとしたいのならば、その証明が必要です。最低でも「図に他に鶏が描かれていない」とする出典が必要となります--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 06:03 (UTC)
少し考えれば分かりますが、「『アビニョンの娘たち』には3人の女が描かれている」と書いた書籍はあっても、「『アビニョンの娘たち』にはマントヒヒは“描かれていない”」などと、いちいちないものを書いた書籍はまずありません。恐らくそこまで考えられた上での質問だとは思いますが、原理原則で言うなら「あると主張するほうが、あることを示す」べきです。
こちらはあくまで「鶏の絵がある」「読売新聞で鶏について記載があった」この2点を根拠としてこのWP記事に追記しました。これを掲載するための出典は『日韓中~』と読売記事を示すだけで十分です。この追記のために「いるかいないかも分からない他の鶏が、描かれていないことまで証明する」必要があるのでしょうか? それこそこんな論法を認めたら、WPの全ての記事(そちらが書いたものも含めて)について、「じつはおまえの示した出典は別の○○のことを言っているかも知れない。違うと言うなら別の○○でない証拠を示せ。出来るわけがないから削除する」などとして、いくらでも削除出来てしまうわけです。
そちらが「他に鶏がいる」ことを仮定して削除されたのですから、そちらが「他に鶏がいる」ことを示すのが筋です。--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 07:02 (UTC)
それ以前に「他に鶏がいない」ことを仮定して記載したじゃないですか。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に
「鶏の絵がある」のは結構ですが、読売の解説は全体図として通用するものです。ですから朝鮮聘礼使淀城着来図‎のほうに全体図の解説として記載したらいかがでしょうか?とても貴重な解説だと思いますよ。しかしこちらでは『日韓中の交流』で出されているピンポイントで示されている絵ですので、その他の文献で出されたピンポイントの部分の絵の解説とするには、そのピンポイントの解説であるとする証明が必要です。aとbの史料を見て、自分の判断で両者をつなげてa+c=cとするのは独自研究です。自分で勝手に「その部分の解説だろう」と判断するのは編集者の個人的観点となりWikipedia:独自研究は載せないに反してしまいます。また、こちらに出典を求めていますがWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にをしっかりお読み下さい。
一つだけ現在の状態で書く方法があるとしたら「朝鮮聘礼使淀城着来図‎の全体図の解説として~と読売で解説されている」と朝鮮聘礼使淀城着来図全体図‎の解説としてどこかに書くことはできるかもしれません。ただピンポイント部分の解説でないはないので、ピンポイントの絵の解説部分に載せることは出来ません。(まあ、しかし確実にどう見ても喧嘩していると思われる絵をそこまで誤魔化したいという、ものすごい朝鮮通信使への愛があるのですね)--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 07:40 (UTC)

例えば誰がどう見ても鶏でない他の部分の絵を藤井教授は鶏と思って書いてるかもしれないのです。--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 07:47 (UTC)

>「まあ、しかし確実にどう見ても喧嘩していると思われる絵をそこまで誤魔化したいという、ものすごい朝鮮通信使への愛があるのですね」 なるほど。要するにあなたは、私やこの図に対してそういう主観を抱いてらっしゃったわけですか。しかしそれをここへ書いた意図はなんでしょうか。議論の材料にはならないと思いますが。
「どう見てもケンカに決まっている」→編集者の主観を排するというWPの基本が分かっていれば、この発言はあり得ないのではないですか。それともあなたは今まで、言葉に出さないだけでそうした主観を拠り所として記事を書かれて来たのでしょうか。「誤魔化したい」→それは議論する相手に対してあまりに失礼ではないでしょうか。「朝鮮通信使への愛がある」→こちらの態度に問題があるのならブロック依頼に提出していただいて結構です。でなければ、相手に対してのレッテリングは議論の妨げにしかなりません。
>誰がどう見ても鶏でない他の部分の絵を藤井教授は鶏と思って書いてるかもしれないのです。 こればかりはさすがに目が点になりました…。「ブッシュ大統領は女性かも知れない」「徳川家康は宇宙人だったかも知れない」。WPに記事を書くためには本当にもう、無限の可能性を虱潰しにしないといけません。
くどいようですが、そちらは他の鶏を確認したのですか? そこに回答がないうちに、妥協案だけ提案されても困ります。折衷案は、少なくとも双方の立場をはっきりさせた上で考えるべきものです。それをせずに「妥協策を示したのに相手が妥協しなかった」などと言われるようなことは避けたいですので。--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 08:42 (UTC)
あと、議論中は基本的に当該箇所の近辺は編集されないほうがよろしいかと。余計な混乱の元です。記述案があるのだとしても、まずはノートに書けばいい話です。--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 08:49 (UTC)


なるほど。要するにあなたは、私やこの図に対してそういう主観を抱いてらっしゃったわけですか。しかしそれをここへ書いた意図はなんでしょうか。議論の材料にはならないと思いますが
あ、主観と気付いていただけたのですか。これは意外でした。何度も説明しても理解していただけないので「主観」ということが理解できない方なのかと思ってしまいました。すいません。「喧嘩している絵に決まっている」「該当箇所の鶏の解説に決まっている」同じですよね?そこには主観で判断している独自研究があるのですよ。
「ブッシュ大統領は女性かも知れない」「徳川家康は宇宙人だったかも知れない」
「徳川家康は宇宙人だったかも知れない」と公の信頼できる書物に書いてあれば、それを書けないことはないでしょうね。また、「徳川家康は人間だ」と書いて、それに疑問を持った人が万が一おり、出典を求めてきたら、出典を出さなければならないでしょうね。それがwikipediaのルールですから。執筆者が事実かどうかの判断してはならず、検証の可能性が重視されます。出典ナシの状態で求められたらどんな内容でも提出しなければなりません。大変ですがそれがwikipediaではないでしょうか。他の人が見ても鶏とは思えない他の部分の絵を藤井教授は鶏と思って書いてるかもしれないのです。 この可能性がある以上、藤井教授の解説が該当部分の解説であることの証拠を出さなければ独自研究です。証拠がないのなら、あなたが勝手に「該当箇所の解説だ」と判断しているだけなのですから。
WPに記事を書くためには本当にもう、無限の可能性を虱潰しにしないといけません。
Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に 記事に反対する者がいる場合は、記事を残したいとする人に出典の義務が生じます。大変ですがそれがwikipediaでしょう。私も細かい部分まで出典を求められてきました。中には「(右図)」という記入すら反応する方もいるくらいですから。
くどいようですが、そちらは他の鶏を確認したのですか?
確かにくどいです。しっかりお読み下さいWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に。しかし応えてあげましょう。私は鶏が他にいるかどうか知りません。いるかもしれないし、いないかもしれない。また、自分で絵を確認しても誰がどう見ても鶏でない他の部分の絵を鶏と捉える人もいるかもしれないですので意味がないです。自分で絵を見て、藤井教授がどこの解説をしたのか判断したら「独自研究」「独自レポート」になってしまいますから。
妥協案だけ提案されても困ります。
勘弁してくださいよ。お願いします。私が何の妥協をしないとならないのでしょうか?ルール上、その方法しか無理ですよとアドバイスしてるのです。理解していただけなかったようで残念です。何か勘違いしてるようですが、私の個人的思いとしては、「載せてもいいかな」という思いは元々あるのです。私はあなたのようにルールを無視して自分の願望を通そうという気はありません。しかしルールを考えると、あなたのやりたいことは無理だとしか言えないです。
出典をはやくお出しになって記載できることをお祈りいたします。--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 10:03 (UTC)
何度もくどく言うのは、「そもそもこの点に、まだ根本的な見解の相違がある」ということを明らかにする必要があるからです。私は「そちらが出すべき」だと考えるから何度も言いますし、そちらは「そちらが出すべき」と仰って答えないわけです。この時点で「どちらが出典を出すのが正しいのか」について、まだ十分な議論がなされていないのです。
ところが、この議論をしないうちに「(出典はYoh-yohが書くべきだというそちらの言い分が正しいとした上で)ルール上こう書くのが正しい」などと仰るわけです。順序からして、先にそもそも出典を出すのはどちらなのか議論すべきです。この見解の相違について、議論の必要がないと考えているわけでしょうか?--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 12:36 (UTC)

wikipediaのルールによれば掲載をしたい側が出典を出すべきとされています。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に。なぜ記載する側ではない私が出典を出すべきなのか、それはどんなルールからの発言なのでしょうか?まずここから行きましょう--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 14:16 (UTC)

そうそう、こちらはずっと「そこを議論しましょう」と言っているのですよ。慎重に議論しましょう。まずこちらはWikipedia:検証可能性の記述において、たしかにそちらの仰る記載があることを認めます。
さて、確認したいことがあります。(1)こちらは「図内に描かれた鶏について、京大教授は別の見方をしている」と書こうとしました。(2)そしてその出典として、読売新聞の記事を示しました。WPにおけるこちらの行動について、ここまでは共通認識だと思いますが、いかがでしょう。--Yoh-yoh 2008年3月20日 (木) 14:59 (UTC)
まず方針は認めていただけたということで、こちらに出典を出す必要はないことを理解していただけたと判断します。そして(1)(2)については、その通りだと思います。どうぞ--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 15:08 (UTC)訂正;「別の見方」というのは同じ部分についての解説の場合となりますので少し違うかなと思います。同じ部分の解説かどうかは判明していません。単に藤井教授は「鶏を追いかけている」と言っているだけです。--Namisenjin 2008年3月20日 (木) 15:11 (UTC)
すみませんが、まずそちらの討論の態度について。以前言われた「誤魔化したい」云々などは個人攻撃だと解釈していますし、またこちらが議論を始めたばかりなのに早々に結論が出たと言い切ってしまうのは議論妨害だと考えます。そのような不誠実な態度は控えていただきます。
誤解を避けるためにこういう言い方にしましょうか。(1)こちらは「京大教授は鶏を追いかけていると言っている」と書こうとしました。(2)そしてその出典として、読売新聞の記事を示しました。これなら問題ないですか。--Yoh-yoh 2008年3月21日 (金) 02:20 (UTC)
(1)(2)はその通りだと思いますよ。それより下記Jinzuu氏の指摘が的を得たものと思いますので、それについて反論があるならばお答えになったほうが、良いと思われます。--210.252.202.72 2008年3月21日 (金) 09:38 (UTC)

何やらグダグダになってますが、議論の余地などそもそもないでしょう。

1.藤井教授の解釈『日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる』[12]は全体図についてのものであるので、鶏泥棒とされる部分図の解釈に援用するには立証が必要である。
2.他に鶏が描かれていなければ、『鶏を一緒に追いかける』については部分図についての言及であると特定可能であるが、しかしそれは『日本の子どもと遊んだり、』もまた鶏泥棒とされる部分図についての言及であるという証明にはならない。
3.よって、他に鶏が描かれているか否かに関わらず、部分図について『子どもと遊んだり、一緒に鶏を追い掛けている姿で、日本人との交流を示す』[13]と主張することは出来ない。(『一緒に鶏を追い掛けている』単独の主張ならば他に鶏が描かれていなければ可)

至極単純な三段論法ですが、理解できませんか? Jinzuu 2008年3月21日 (金) 03:44 (UTC)

(コメント依頼から) 朝鮮通信使との交流に関する説として、きちんと併記するならば問題ないはずです。ですが、この書き方[14]では、鶏泥棒についての説を並べる形になっており、二つの研究に出てくる鶏が同じかどうかに関わらず、この節の主題である朝鮮通信使との交流から外れた雑談になってしまっています。また、一つの研究を紹介する文章の中に突然別の研究の紹介が割り込む、紹介元の研究が鶏泥棒について述べたものであるかのような誤解を招くなど、作文自体にも問題があります。この二つの研究を関連付ける理由は何もないので、最初の段落の末尾に以下のように記述するのがあるべき姿だと思います。

朝鮮通信使との交流を描いた史料には淀藩の『朝鮮人来聘記』内の朝鮮聘礼使淀城着来図などが知られている。この図には、日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写されている(ref 読売新聞2004年5月4日大阪朝刊28面 藤井譲治の見解)。 -- 短い文章なのでほぼ全文を引用しています。

記述する価値があるかどうかは判断していません。 --Yhiroyuki 2008年3月21日 (金) 15:22 (UTC)

すみませんが最初の段落とはどこになりますか?--Yoh-yoh 2008年3月22日 (土) 03:45 (UTC)
あと今回の件、喩えて言うなら「日本の歴代総理」の記事の中で田中首相のところだけやたらと「ロッキードで有罪になった」などと書くようなものだとは思います。こちらは一応それに「でも無実だという説もある」ことを併記したわけです。そうした一部だけが大きく取り上げられた記述について、記事本来の趣旨から外れるから短くすべきというのは分かりますが、だからと言って「有罪になった」説だけを残してしまうのは中立的ではないと思います。--Yoh-yoh 2008年3月22日 (土) 04:09 (UTC)
最初の段落とはこの節の最初のことです。それと、私は文章の構成が問題だと言っているのであって、一方だけ残せと言っているわけではありません。短くしろとも言っていません。 --Yhiroyuki 2008年3月22日 (土) 05:49 (UTC)
間が空きましたが、「中立的ではないと思います」という発言は、Yhiroyukiさんの案がそうでないと言っているつもりではなかったです。あくまでこちらのスタンスを説明しただけだったのですが、誤解を生んだようなら申し訳ありません。--Yoh-yoh 2008年3月25日 (火) 03:17 (UTC)

数日書き込みがありませんが、検証可能性についてのこちらの見解だけは整理して申し述べておきます。Wikipedia:検証可能性においては、「“検証可能性を満たすために”その情報源として出典を明記する」ことが要求されているものだと解釈しています。なので、私は読売新聞の記事を出典として挙げました。それに対して相手方が読売新聞の記事を検証した上で「いや、その鶏は別の鶏かも知れない」と異議を示したわけです。こちらが出典を一切示さなければ問題ですが、相手はこちらの示した情報源を検証した上で内容面での異議を唱えたのですから、その異議申し立てについては相手方がその根拠を示すのが妥当だと考えます。

なおそれとは別に、「文章の内容がこなれていない」という指摘については私も同感です。もともとは「交流」の節の中に鶏泥棒云々を史実だとする記述がありました。しかし唯一の出典である『日韓中~』での記述を検証したところ、史実であるとは述べていないことが判明したので、それに沿って内容を修正しました。しかしその修正のため、「交流」の節に少し趣旨の異なる『日韓中~』の著者の自説が掲載される格好となったものです。いっそこと『着来図』については別の節もしくは記事に分けても構わないでしょう。--Yoh-yoh 2008年3月28日 (金) 09:53 (UTC)

そろそろわざと理解しないのかな?という気がしてきました。読売の出典でかける内容は図の「全体図についての一つ解説として」だけです。執筆者が「ここの部分の解説だ!」と判断した時点で独自研究になります。--Namisenjin 2008年4月1日 (火) 13:23 (UTC)

Yoh-yoh氏は、自分は質問を繰り返し回答しないのはWikiのルール違反だなどと主張してきたにも関わらず、こちらの問いかけは完全に無視し、それどころか井戸端[15]で私の書き込みそれ自体を批判して、自分の主張を『宣伝』(当人の表現のママ)するという異常な行為にでているので、先の主観的で一方的なコメント依頼といい、井戸端やノートでの度重なる私に対する個人攻撃、投稿ブロック依頼の示唆など、もはやまともに対話の成り立つ相手ではないと認識しています。
Yoh-yoh氏にとっては、ただただ通信使鶏泥棒解釈を否定することのみが至上命題のようで、上記のYhiroyuki氏のコメントについても、 コメント依頼からということもあって現在の論点とはズレていますが、それでも、やはり『藤井解釈を部分図に関連して記述するのは文脈からしても不適当である』というのが論旨になってるにも関わらず、それを全く読みとれずに相変わらず自分の主張を頑なに繰り返しているだけであることからすれば、理解力自体が著しく劣っている印象ですね。 Jinzuu 2008年4月2日 (水) 09:54 (UTC)
既にその反論が成り立たないことを指摘しています。(1)『日韓中~』、読売記事ともに図中の鶏の描かれた部分についての解説です。図中にその箇所以外に鶏が見受けられないのだから同じ箇所を指していると考えるのが当然です。(2)それに対してそちらは「他の鶏がいるかも知れない。鶏以外のものを教授が勝手に勘違いしているかも知れない」などとそちらの空想に基づいた異論を唱えて、しかも「別の箇所に鶏がいないこと、教授が勘違いをしていないということの出典を明記しろ」と言うわけです。
(1)については、「資料Aにおけるムンクの『不安』に描かれた少女の解説」と「資料Bにおけるムンクの『不安』に描かれた少女の解説」、この2つを同じ少女についてのものだと見なすのと同じことです。「同じ“ムンクの『不安』に描かれた少女”についての解説」なのですから、その2つが「同じ少女を指している」と見なしてWP記事を編集するのは至極妥当です。またそれらについての出典が明記されていれば、十分“検証可能”でもあります。「もしかしたら他にも」と反論する余地はあるでしょうが、出典の明記はあくまで検証可能性を満たすためのものであり、100%の内容保証のためではありません。誰かが反論したとすれば、それは十分に検証可能な出典が示されているからに他なりません。これを独自研究というのは独自研究という言葉の拡大解釈です。
もちろん、そこで「言い分としては妥当でも100%の保証はない!」と言って、別の人間が(2)のように「もしかしたら『不安』の中には別の少女が描かれているかも知れない、他の男を少女だと勘違いしているかも知れない」などと反論することは可能です。しかし、先に言いましたように「同じ少女を指している」根拠は上記2つの検証可能な資料だけで十分です。記事作成やノートでの議論において「検証可能性を満たすために、主張した側が出典を明記する」というのがWPの方針です。しかしそちらは、「主張した側が出典を明記する」という部分だけをクローズアップして、(検証可能であればよいだけなのに)あたかもその主張が100%正しいと保証する全ての出典の明記が義務であるかのように誤読されています。これは出典明記という概念をそちらの都合のいいように曲げて解釈されているに過ぎません。「別の少女かも知れない」などという仮定に依拠した反論ついては、その反論を述べた側がその仮定の出典を示す義務があります。
さて本題。こちらは『日韓中~』、読売記事という検証可能な出典に基づいて、同じ『着来図』内の鶏についての記載があること、『着来図』内に他に鶏の描かれた箇所が見当たらないことから、それらが「同じ箇所を指している」と考えます。一方、そちらはまだ一つも「違う箇所にも鶏が描かれている、もしくは鶏でないものを鶏だと間違えている」根拠を示していません。まずはその根拠を示してください。
こうしたことを本当に、再三申し上げてきたつもりなのですが、それでもまだ同じ詭弁を繰り返し弄した上で、あまつさえこちらに対し「わざと理解していない」などと仰るようであれば、やはり議論妨害、及び個人攻撃だと解釈します。--Yoh-yoh 2008年4月2日 (水) 06:47 (UTC)
長々と書かれても、なにも説得力はありませんでした。結局あなたが、ある著書でクローズアップされた部分の解説だ!と勝手に判断してるだけですから。100歩譲っても『鶏を一緒に追いかけている』という読売の解説しか載せられません。他の解説を混ぜると完全に全体図の解説となってしまいますので。長文書く暇があったら該当部分の解説だとする証拠を提出してください。あなたの判断はいりません--Namisenjin 2008年4月2日 (水) 11:15 (UTC)

また、あなたがコメント依頼をしても結局誰もYoh-yoh氏に同意していないことにお気づき下さい。冷静になって、人のアドバイスを聞く耳を持ってください。ルールを無視し文脈を無視し、我を通すのはコミュニティーにとって害となります。--Namisenjin 2008年4月2日 (水) 11:18 (UTC)

Kunio80氏による編集について[編集]

全く出典を示さず、また過去のノートでの合意を無視して行われた一連の編集・削除を、ひとまず原状(2008年4月3日 (木) 08:33の版)へ戻しました。 Jinzuu 2008年4月7日 (月) 15:42 (UTC)

おつかれさまです。出典先と違う表現まで独自に書き込んでいたことを確認。議論のある記事において急に無言で大量の編集も問題あり。Kunio80氏はまずノートでの提案をおすすめします。--Namisenjin 2008年4月8日 (火) 06:30 (UTC)

そちらこそお疲れさまです。 再びKunio80氏による連続編集がされましたが、「日本には米などを朝鮮から輸入する必要があった」、「水車が普及していたが、朝鮮で用いられることはなく、大河の多い朝鮮と急流が多い日本の地理的条件の違いなどから農法が異なっていた」、「家康は武から徳による統治への転換を考え、朝鮮朱子学の導入を考えた」、「日本側が天皇の存在を隠したため日本の実情が分からなかった」等々、珍説揃いのPOVが大半ですね。 Jinzuu 2008年4月13日 (日) 10:17 (UTC)

Yoh-yoh氏の態度について[編集]

こちらでYoh-yoh氏の論に納得する方が出てこず、ご自分の論が論破され、行動の矛盾も指摘され、とうとうこちらでは反論できなくなったためか、私やJinzuu氏を「個人攻撃」を理由にコメント依頼に出し、上記「コメントはこちらへ」で指摘させていただいたことと同じ手法(ご自分に都合の良い書き方でミスリードし、コメントをいただく)を用い、この人はこういう人だとレッテルを貼り、個人攻撃とも言える行動をしております。まるで、自分の意思が通らなかったことの恨みを晴らすかのごとく。このような態度は許されるものでしょか。まったく呆れてしまいました。--Namisenjin 2008年4月25日 (金) 15:30 (UTC)

なにやら知らぬ間にずいぶんお世話をかけたようで、どうもありがとうございます。一応、向こうにもコメントはしておきましたが、まともに相手をするのも馬鹿らしいというのが偽らざるところです。 Jinzuu 2008年4月26日 (土) 10:14 (UTC)
また当事者の居ないところで策謀しているのですか・・・手段のためなら目的も選ばないと言うか何ともはや。是々非々で行けないのかと。--yasumi 2008年4月26日 (土) 11:53 (UTC)

こちらが2008年4月2日 (水) 06:47にきちんと論理的に反論しているのに対し、「勝手に判断してるだけですから」などと理論でなく主観で否定され、さらには「コミュニティの害」などと個人攻撃されるわけですから、そもそもまともな議論が成り立たない利用者だと判断しました。あなた方の編集行為そのものの問題点をここで議論することは記事のノートの趣旨に反しますので、Wikipedia:論争の解決に則って「個人の行為に関するコメント依頼」に提出したまでです。Wikipediaにおける行動として、全く問題はありません。

なおWikipedia:コメント依頼/Jinzuuでの発言をミスリードだとされていますが、中立第三者の方がここの2008年3月20日 (木) 07:40やノート:朝鮮聘礼使淀城着来図を見たのであれば、簡単にあなた方が個人攻撃している事実が判明します。他の点も同様でしょう。検証可能な事実を列挙しているだけなのに、ミスリードのしようがありません。

なおWikipediaユーザ同士が個人的に意見交換することは認められているわけですから「当事者のいないところで策謀」などとは申しませんが、User:Yasumi氏については以前コメントされた時点で、だいぶ以前からUser:Jinzuu氏と利用者ページで会話している間柄であったことは承知しています。

多数派を印象付けることでWikipediaコミュニティからの追求を逃れることが出来るのだと思っているのだとしたら、それは不可能です。たまたま今は私だけだとしても、今後何十年も、あなた方のしている編集に大きなPOVが潜んでいることに気付く人が他に出て来ないと考えていますか。--Yoh-yoh 2008年4月26日 (土) 23:59 (UTC)

ブロック依頼まで出されたようですね・・・。少しは冷静になってくださいよ。感情から暴れまわっても誰も賛同していただけませんよ。2008年4月2日 (水) 06:47にきちんと論理的に反論したと仰ってますが、これのことですか?すでにすべて反論されているものであり、あなたが何度も同じことを繰り返しているだけでしょう。ずっと読み返してくださいな。お願いですからヒステリーを抑えてくださいね。--Namisenjin 2008年4月27日 (日) 08:32 (UTC)

勝手に立てたコメント依頼を私に無視されたからといって、それを”議論妨害”だと称して今度はブロック依頼ですか。やれやれ、呆れ果てますね。 Jinzuu 2008年4月27日 (日) 09:15 (UTC)

コメント依頼や投稿ブロック依頼で見かけていたのですが、少々問題があるのではないかと考えたため、Yoh-yoh氏に対するコメント依頼を提出いたしました。--五斗米道評定|戦歴|矢文 2008年5月1日 (木) 02:37 (UTC)

数カ所編集しましたので確認お願いします[編集]

少し落ち着くまでと思って、暫時編集を手控えていたのですが、どうも切りがないようですので、前々から気になっていた箇所を訂正、また追記しました。ご確認の上、ご意見がありましたらお願いします。 Jinzuu 2008年4月28日 (月) 06:40 (UTC)

コメント依頼タグの削除[編集]

Yoh-yoh氏は、一向に自分で後始末をするつもりがないようですので、同氏によって2008年3月6日に付加された本文のコメント依頼タグを削除しました。 Jinzuu 2008年5月20日 (火) 12:13 (UTC)