ノート:旧田中銀行博物館

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藤村式建築の代表という記述について[編集]

「藤村式建築と呼ばれる擬洋風建築の代表的なものである」と序文にありますが、県令の藤村紫朗は明治20年に愛媛県に転任しており、旧田中銀行が建てられた明治30年代には山梨県にいませんでした。 文化遺産オンライン国指定文化財等データベースでも藤村式建築とは書かれていません。出典としてあげられている山梨日日新聞の記事は、建築史の専門家が執筆したものなのでしょうか。--Flasksrw会話2015年2月15日 (日) 15:25 (UTC)[返信]

お返事が遅れてすみません。ご質問をいただいた出典に使用した山梨日日新聞の記事についてですが、あいにく既に紙面が手元になく、建築史の専門家が執筆したものか否かは即座に確認することができません。私の記憶では2012年当時、山梨日日新聞の紙面で山梨県内の近代文化遺産を紹介する不定期連載コラムがあり、件の出典に使用したものはその「旧田中銀行」の回の記事(紙面)です。記事の表現の細かなところはハッキリとは覚えておりませんが、旧田中銀行博物館の説明として「主に学校建築として知られる藤村式建築の、もうひとつの藤村式建築」という趣旨の解説があったことは記憶にあります。一応私も山梨県内の近代史に関わる記事をこれまで複数編集執筆しておりますので、藤村紫朗が明治30年には既に山梨県令でなかったことは存じてはおります。その上で当該建造物を「藤村式建築」とした新聞コラム記事内容を私が疑問に思わなかったのは、「藤村式建築」の定義についてFlasksrwさんとは異なるもの(私の思い込みかもしれませんが)を持っていたからであります。下山大工棟梁である松木輝殷は藤村紫朗が推奨した擬洋風建築を山梨県内で実際に施工した中心人物と言われ、この旧田中銀行も松木輝殷により擬洋風建築として施工されたものと伝えられております。つまり、「藤村式建築」とは藤村紫朗が推奨した擬洋風建築の流れを汲む山梨県内の擬洋風建築を表すものであって、施工時に藤村紫朗が山梨県内にいるいないは関係ないものと私は思っておりました。もちろん私は建築史の専門家ではありませんし、藤村式建築について複数の文献を渉猟したこともございません。出典に使用した新聞コラムにあった「藤村式建築」、そしてその定義について私の思い込み?のようなもの、これらにより当該施設を「藤村式建築」と表記いたしました。ご質問の末尾にある「建築史の専門家が執筆したものなのでしょうか」ですが、これは私には分かりません。その辺りを新聞社に問い合わせるのは、一趣味の範疇(学術調査という意味の対極)としてwikipediaを執筆している私には正直気が引けます。身勝手なのは重々承知ですが、建築史にお詳しいFlasksrwさんから見て、記述内容が不適切であるようでしたら、何卒、問題の箇所を編集除去あるいは別の表現に直して頂けませんでしょうか。よろしくお願い致します。--さかおり会話2015年2月17日 (火) 13:42 (UTC)[返信]
さかおりさん、回答ありがとうございます。新聞社への問い合わせは不要です。というか、第三者が検証できない方法で情報を得たとしても、wikipediaでは出典として使えません。ところで、利用者ページによるとさかおりさんは山梨県甲府市在住とのことですが、近くの図書館で山梨日日新聞のバックナンバーを確認していただくことは出来ないでしょうか。私の住んでいる地域の図書館には山梨日日新聞が収蔵されていないため、確認が取れないのです。でここさんが挙げられている『山梨の洋風建築』も山梨県立図書館や甲府市立図書館に所蔵されているようなので、可能ならこちらも合わせて確認いただけるとありがたいです。--Flasksrw会話2015年2月18日 (水) 14:14 (UTC)[返信]

(コメント)参考文献に掲出されていないものとして、植松光宏『山梨の洋風建築』があります。藤村式建築の唯一の研究本といって良いのではないかと思うのですが、私は同書が手元にないのにいま確認できませんが、同書で記載されている建築がいちおう、山梨県郷土研究の範疇では「藤村式建築」と言っていいのではないかと思います。たとえば「甲州財閥」なんかだとはっきりした定義があって小林一三は厳密には違うみたいなことも言えるのですが、「藤村式建築」の正確な定義は、あまり目にした覚えがないですね。ただ、これがいわゆる建築学・建築史の方面でどう定義・理解されているのかは、私もちょっと不案内でわかりません。--でここ会話2015年2月18日 (水) 04:58 (UTC)[返信]

  • Flasksrwさん、でここさん、お返事が遅れて申し訳ありません。私事で恐縮ですが青色申告作成関連データに不具合が見つかり数日前からwikipediaの閲覧すら覚束無く、さらに本日になりデータ上に重大な問題があることが分かり、経理担当者、税理士を交え帳票データの精査を行わなくてはならない状況になりました。お二方が仰られたバックナンバーおよび書籍の確認は後日の宿題にさせてください。作業量を考えると恐らく10日ほどで私的問題は解決出来ると思います。勝手なことで申し訳ないのですが、しばらくウィキブレイクさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします。--さかおり会話2015年2月20日 (金) 12:10 (UTC)[返信]
了解しました。お待ちしております。--Flasksrw会話2015年2月20日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
  • (インデント戻します)遅くなりましたが表題の件について「山梨日日新聞事-2012年6月16日付紙面」および植松光宏著『山梨の洋風建築』の内容を確認しましたので報告させていただきます。まず、Flasksrwさんがご指摘された藤村式建築の代表という記述について、件の新聞コラム記事の冒頭部を以下に引用します。
わが町の近代化遺産 5 旧田中銀行博物館
車寄せの八角の柱に細かくノミで矢羽根状の装飾が施され、帝国ホテルなど組石造りの外観を灰漆喰でまねた外壁の横じまパターン。甲州市勝沼町勝沼の甲州街道(旧国道20号)沿いにある旧田中銀行博物館は、学校とはまた別の藤村式建築の姿を今に伝えている。(以下略)

—山梨日日新聞2012年6月16日付朝刊22面

コラム記事を書かれたのは(念のためにイニシャルとします)K・Oさんという方ですが、この方の経歴等については記事文面中には記載がありません。私が先月、新聞社へ問合せ云々と申し上げたのはコラム執筆者の経歴等を新聞社へ伺う趣旨でありまして、当たり前ですが私が直接見聞きした内容を出典として使う意図ではありません(これでも一応はWP:ADMINですので検証可能性については存じております。)

ご覧のように、学校とはまた別の藤村式建築の姿を今に伝えている、と書かれてはいますが、藤村式の代表とは書かれていません。(引用した文面の続きには「藤村式建築」の単語は出てきません。)私が代表的と何故書いてしまったのか記憶が定かではありませんが、代表的とするのは明らかな誤り、間違いであったと思います。申し訳ありません。

ただ一方で、この新聞コラム記事では代表的とは言わずながらも、ハッキリと「藤村式建築」と定義しています。

次に植松光宏著『山梨の洋風建築』(昭和52年12月1日初版発行 全247頁)の記述中から、旧田中銀行に関わる部分を引用します。

商社・一般住宅 - 準藤村式建築
(前略)だが、幸いにも典型的な藤村式建築ではないが、現在使用に耐えている建物がある。いずれの建物も、建築年代・関係大工がわからない現在「準藤村式建築」あるいは「藤村式建築の流れをくむ建物」としか表現しようがないが、それぞれの建物の外部意匠にわずかばかりであるが、その特徴を見ることができる。勝沼町の旧勝沼銀行には菱組天井を、山梨市正徳寺の広瀬邸には、洋風のベランダや窓を、石和町の鶴田邸には塔屋や隅石を見ることができる。こうした例はまだ二、三ある。(以下略)

—植松光宏『山梨の洋風建築』p.219

著者の植松光宏さんという方は巻末の略歴によると、昭和12年甲府市生まれ、初版が発行された昭和52年当時は、甲府市教育委員会の主事をされておられ、日本博物館協会会員、山梨県郷土研究会会員、山梨県文化財保護指導員であられた方のようです。

昭和52年に初版が発行されたもので些か古いものではありますが、現存するしないに関わらず山梨県内の50件以上の藤村式建築の建造物物件が、残されている古い写真、資料等も使って詳細に解説されております。

本書での旧田中銀行(ここでは旧勝沼銀行と書かれています)の扱いは、引用で示したように準藤村式建築という節名で簡潔に触れられているに過ぎず、一応は建物正面のモノクロ写真画像が添えられていますが、詳細は分からず「準藤村式建築」あるいは「藤村式建築の流れをくむ建物」としか表現しようがない、としています。

困りました。この旧田中銀行が藤村式建築だとハッキリ言わずに、「準藤村式建築」、「藤村式建築の流れをくむ建物」などと、なんとも曖昧な表現になっています。近年の地元紙コラムでは「藤村式建築」とハッキリ書かれ、38年前の書籍では「準藤村式建築」あるいは「藤村式建築の流れをくむ建物」と書かれているわけです。

そこで本記事の序文ですが、とりあえずは双方の出典を示しつつ、

  • 1898年明治31年)頃に施工建築されたものと推定されており、小規模ではあるものの、明治期に山梨県内で複数建築された藤村式建築、あるいは藤村式建築の流れをくむ擬洋風建築である。

このような表現にするのはいかがでしょうか。よろしくお願い致します。--さかおり会話2015年3月6日 (金) 04:08 (UTC)[返信]

さかおりさん、確認ありがとうございます。新聞記事の方は執筆者の素性が分からないということであれば、両論併記するべきではないと考えます。なぜなら、どの建築様式に分類されるかというのは専門家でも意見が分かれるので、だれが分類したのかが重要だからです。また、「学校とはまた別の藤村式建築の姿を今に伝えている。」という表現は、旧田中銀行が藤村式建築ではなく「藤村式建築の流れをくむ建物」だったとしても意味は通ります。新聞記事の執筆者の名前を国立国会図書館サーチCiNii Articlesなどで検索して、めぼしい実績が見つからないようなら「藤村式建築の流れをくむ擬洋風建築」という表現だけでいいと思います。ちなみに建築史家の藤森照信は著書『日本の近代建築 上 幕末・明治篇』で、藤村が愛媛県に転任したことで藤村式の歴史は終わったとしています。--Flasksrw会話2015年3月6日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
了解いたしました。序文表現についてFlasksrwさんにお任せしたいと思います。よろしくお願いします。--さかおり会話2015年3月7日 (土) 01:30 (UTC)[返信]
反映前にひとつ確認ですが、「1898年(明治31年)頃に施工建築されたものと推定されており、」という表現は新聞記事にあったものでしょうか。Wikipedia:言葉を濁さないに抵触するため、誰が推定したのか記事内に書かれていないようなら、除去する必要があります。(文化遺産オンラインや国指定文化財等データベースでは明治30年代としか書かれていない。)--Flasksrw会話2015年3月8日 (日) 14:35 (UTC)[返信]
えーとですね、いくらなんでもその質問は失礼ではありませんか?記事文面に1989年(明治31年)ごろ、とハッキリ年次数値があるから出典として示したワケでして、私が独自調査や思いつきで具体的な年次を記載したとでも仰るのでしょうか。正直非常に不愉快ですよ。--さかおり会話2015年3月9日 (月) 01:31 (UTC)[返信]
さかおりさんが勝手な推測をしたのではと疑っているわけではありません。私が確認したかったのは、1989年1898年という具体的な数字に加えその根拠も同時に示されていたのかどうかです。でここさんもおっしゃっているように、たとえ記事中に1989年1898年と書かれていても、その根拠について触れられていなければ、信頼できる情報源とは言えません。(「検証可能であるには、研究は一次資料に基づいていなければなりません。」Wikipedia:信頼できる情報源#歴史より)そのため、新聞記事上で「専門家の○○によると」とか「史料の△△から」といった具合に根拠が示されているのなら、それを反映させる必要があります。そうではなく単に「1898年(明治31年)頃に施工建築されたものと推定されており、」としか書かれていないのなら、Wikipedia:検証可能性を満たしておらず、たとえそれが事実であってもルール上削除するしかありません。新聞記事のような一般向けの出版物では出典を省いてしまうことが普通に行われているため、こと歴史に関する記事では慎重にならざるを得ないのです。どうかご協力願います。--Flasksrw会話) 2015年3月9日 (月) 07:52 (UTC)年数の間違い修正--Flasksrw会話2015年3月10日 (火) 10:24 (UTC)[返信]
件の新聞記事を書かれた方は山梨日日新聞社の記者の方です。お名前で確認が取れました。さて、件の新聞記事内で明治31年(1897年)頃と書かれた根拠について、同記事内に「専門家の○○によると」とか「史料の△△から」等の文言はありません。そもそも年代同定に限らず新聞記事(コラム含む)で書かれた内容に対して、逐一出典(「専門家の○○によると」とか「史料の△△から」)を付けたモノなどあるのでしょうか(脚注形式で但書があるケースは見たことがありますが)。当然そこには何らかの根拠なり取材があって書かれたものと私は考えておりました。しかしそうではない、要するに一地方紙記者の書いた内容など、専門家から見れば信憑性は無いので、Wikipediaの出典として利用するのは不適切、両論併記する必要も無いということですね。一応私もこの新聞記事内容を出典として使った以上、後々この地方紙記者さん個人に対する信用を間接的に失墜させる行為に成りかねない危惧があったもので、そういう意味も含めて昨日は「いくらなんでもその質問は失礼ではありませんか?」と申し上げた訳です。もちろん世の中の新聞紙面すべてが出典として不適切と言うわけでなく、今回のケースの場合、建築史の専門家の方から見て不適切であるということですね。近代建築史の専門知識見識の無い私には、そのあたりの情報の取捨選択が出来ません。繰り返しますが、件の新聞記事内で明治31年(1897年)頃と書かれた根拠について、同記事内に「専門家の○○によると」とか「史料の△△から」等の文言はございません。身勝手で申し訳ありませんが、私には判断が付きませんので、あとはお任せします。--さかおり会話2015年3月10日 (火) 05:53 (UTC)[返信]
回答ありがとうございます。なお、私は建築の専門家ではありません。私の持っている知識は、近所の図書館で得られる程度のものでしかありません。そのため、「一地方紙記者の書いた内容など、専門家から見れば信憑性は無い」というのは誤解です。あくまで、Wikipediaのルールがダメだといってるので、執筆者はそれに従うほかありません。(私の言っている信頼性とはWikipediaのルール上の話で、世間一般におけるそれとは別です。)
その上で確認したのは、1898年という記述を何とか記事に残したかったからです。記事内に出典があれば、それに差し替えることで記述を存続させることができます。(Wikipedia:検証可能性を満たした出典なら、このように情報源をたどることが出来ます。)
ところで、さかおりさんがアップロードしている開業当時の写真の説明に1898年頃撮影とあるのですが、これは博物館側の説明がそうなっていたということでしょうか。であれば、パンフレットなどを出典にすることができますが、どうでしょう。
--Flasksrw会話2015年3月10日 (火) 10:24 (UTC)[返信]
開業当時の写真は旧田中銀行博物館内壁面に額縁に入った状態で掲示されていたものを、管理人の方に断りを入れて撮影したものです。確かその額縁の説明書きに明治31年頃撮影とあったと記憶しております。博物館の発行するパンフレット類に明治31年頃の文言があったのかは定かではありません。旧田中銀行博物館へ行きパンフレットを確認できれば良いのですが、先日の図書館と違い(私にとって)簡単に訪れるのが時間的に難しく、今すぐ確認することは困難です。いずれパンフレットの内容は確認して報告させて頂きたいと思います。お心遣い感謝します。--さかおり会話2015年3月11日 (水) 06:08 (UTC)[返信]
出典にあげられている「旧田中銀行博物館案内リーフレット」に記載されていないでしょうか。また、パンフレットのような小冊子でも地域資料としてなら図書館に収蔵されている場合がありますので、まずは図書館を調べてみてください。
それから『日本近代建築大全 東日本篇』(2010年、講談社)に旧田中銀行博物館が取り上げられているのを確認しました。藤村紫朗の名前は挙げられていましたが、藤村式の言葉はなく擬洋風建築として紹介されています。また、建築年については明治30年代となっていました。ひとまず、建築様式については藤村式建築ではないと結論付けてよさそうです。あと1週間ほど待って反論がなければ、建築様式について記事に反映させたいと思います。--Flasksrw会話2015年3月16日 (月) 15:01 (UTC)[返信]
(インデント戻します)はい。現時点で私からの異論(反論などという攻撃的意見ではありません)はございません。--さかおり会話2015年3月16日 (月) 16:08 (UTC)[返信]
すいません。コメントに徹してきましたが、議論に参入します。Flasksrw様ご紹介の文献を持って藤村式ではないと結論づけてよいとは、少々乱暴すぎやしませんか?前にご紹介の藤森さんという方の著作による、藤村退任で藤村式は終わったという部分も、何を持ってそう言えるのか理由は不明なままです。そして今回ご紹介の文献でもそもそも藤村式であるにしろないにしろ記していないということは「藤村式」であるかもしくは「藤村式の流れをくむ」か検討されたゆえの記述であるのかが不明です。これに対し、植松氏の著作は確かに刊行年代は古いですが、建築的な特徴から藤村式の流れをくむものであろうと、根拠に基づいた論になっています。ここの部分がいまの研究状況で覆されたと確認できない限りは、結論づけてよい段階とは思えません。--でここ会話2015年3月16日 (月) 16:10 (UTC)[返信]
ええ、ですから「藤村式建築の流れをくむ擬洋風建築である。」という表現でまとめようと思っていたのですが、問題ありますでしょうか。--Flasksrw会話2015年3月16日 (月) 16:34 (UTC)[返信]
失礼しました。でしたら問題ありません。しかし植松氏が表現しているように、藤村式建築そのものである可能性も残されているのではないでしょうか。--でここ会話2015年3月17日 (火) 06:42 (UTC)[返信]
たとえそうだとしても、藤村式建築だと断定している出典が見つかるまでは、「藤村式建築の流れをくむ擬洋風建築」以上のことは書けないと思います。一応、図書館で近代建築ガイドのたぐいに一通り目を通しましたが、『日本近代建築大全 東日本篇』以外で旧田中銀行を掲載しているものを見つけられませんでした。--Flasksrw会話2015年3月19日 (木) 13:35 (UTC)[返信]
すいません。植松氏が「藤村式建築(そのもの)もしくは藤原式の流れをくむ」と表現していると勘違いしていました。現在われわれが把握している情報源の範疇での表現であれば異論はありません。失礼しました。私も気が向いたら、郷土資料を博捜してみることにします。

(コメント)重要なのは新聞記者さんの素性(?)ではなくて史料的根拠ではないでしょうか。おふたりのご意見のどちらに加担するものではありませんが、確かに明治31年頃とピンポイントで年代が推定されているとなると、その根拠はなんだろう、建築的な特徴からの推定か、それとも文献史料があるのかと、弱点はあるにはあると思います。

ただ、私の知る限りでは藤村退任以降の終末期の藤村式建築を考察した論考が、地元にはなさそうです。藤村は愛媛でも洋風建築を作っていたはずですから、設計者などは藤村のスタッフとしてともに転任したかもしれないと思うのですが、藤村式建築を施工した大工などは地元に残っているはずですよね。ですから「藤村式建築の流れを組む」建築は存在しうると思います。たとえば明治の末年に甲府城跡に出来た「機山館」などは県が主導した建築ですが、藤村式建築とは呼ばれない純粋な洋館と評されているはずです。藤村退任以降に藤村式建築がどう変化していくのかは、未解明の部分があろうかと思います。

いま、山梨県の郷土研究は衰退していて、なかなか建築史も手がけてくれる研究者がいない状態であろうと思います。ですから、このような問題が今後解決していくとも思えないわけで、我々は手持ちの情報だけで何とか記事にまとめるしかないのではないでしょうか。ただ、古新聞などを調べれば何かわかるかもしれませんね。--でここ会話2015年3月9日 (月) 06:12 (UTC)[返信]

でここさん、ありがとうございます。難しいものですね。--さかおり会話2015年3月10日 (火) 05:53 (UTC)[返信]

(報告)1週間経ちましたので、序文の建築様式に関する記述を修正し、正確性テンプレートを除去しました。--Flasksrw会話2015年3月24日 (火) 14:58 (UTC)[返信]

峡陽文庫さんについて[編集]

「峡陽文庫」のブログ主さんですが、ある山梨県に関する絵葉書や古写真のコレクターさんです。名前は私は知ってまして、ぽつぽつといろんなところで資料提供者として名前をお見かけしますが、ブログ内で実名を明かされているのかはわかりません。「素性の分からぬ人のブログ」ではないと思うのですけどね。--でここ会話2015年4月12日 (日) 05:44 (UTC)[返信]

でここさん、こんにちは。私も「峡陽文庫」のブログ主さんのお名前だけは存じております。風土伝承館杉浦医院のN館長さんからのお話や、山梨県内各所でお名前をお見かけすることのある、主に県内近代史の郷土史家さんと目されておられる御方です。しかしそれを客観的に示せない以上、「素性の分からぬ人のブログ」とされてしまうのは仕方の無いことでしょうし、この件で揉めるのは「峡陽文庫」のブログ主さんに対して申し訳なく思いますので、これ以上は何卒。でここさん、いつもお気遣いくださって感謝いたします。--さかおり会話2015年4月12日 (日) 06:06 (UTC)[返信]
さかおり様、ありがとうございます。了解しました。--でここ会話2015年4月12日 (日) 12:45 (UTC)[返信]