ノート:旅順虐殺事件

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旅順攻略戦の項のコピー部分を削除し、誤りがあれば訂正で済むのでは?

問題のあるコピー部分を削除し、正しくないと言う部分を具体的に指摘していただければよいと思います。 コピー部分は分かりましたので、間違いであると言う部分を挙げていただきたい--Tommysierra 2006年6月6日 (火) 01:27 (UTC)[返信]

内容的には間違いはない(まだ内容が無い)旅順虐殺事件って殆ど知られていないので、削除はしない方がいいでしょう。内容が無いので保護も必要ない。


幾ばくかの質問と意見[編集]

以下箇条書きします。

  1. 定義部分において、題が旅順虐殺事件とあるのは長崎事件が長崎虐殺事件となっていないのに比べて、表現の上で平等性を欠いていると思う。
  2. 又、実際、旅順においてこの時発生した事は一方的な虐殺というよりも、旅順市街戦と呼ぶべき戦闘であったと思われる説明もあるため正確性の観点で問題があると思うし、定義の説明中、虐殺した事件という説明も事実認定が正確でない事から、虐殺したと一部のジャーナリストから報道されたと改めるべきである。
  3. 定義部分において「2万人を虐殺したとされる事件」としているが、数については諸説あるはず。何故このように定義したのか。
  4. 「史実として認めておらず無視されているが」という部分は「2万人を虐殺したとされる事件」をうけているのか、それとも旅順虐殺事件そのものをうけているのか。
  5. 「一部の親中学者」とは誰か。具体的に。また何に対して一部なのか。特に「日本ではこの事件は殆ど知られておらず研究も余りなされていないが」という下の方にある文との関連から答えて欲しい。
  6. 「旅順攻略戦に参戦した清国軍の数が13,000人で戦死者などを除くと残りは8,000人以下であり、市街地に逃げ込んだのは更にこの内の一部なので、犠牲者の数について万単位は考えられず著しく誇張されている可能性が高い。」というのは誰の学説・著書または論文なのか。具体的に。
  7. 「事件の記事」における英文資料の翻訳は、投稿者本人がしたのか否か。また何を見て書いたのか。
  8. 「背景」における文章は誰の学説・著書または論文なのか。具体的に。
  9. 「事件当時は2万人とされてた犠牲者の数も6万人と増え」の文章は誰の学説・著書または論文なのか。具体的に。
  10. 『日本侵略山東史』の著者名及び出版社、出版年。また引用箇所は何頁か。これに付随する質問として、引用は「」内だけなのか。

以下は主に編集に関する意見。

  1. 「事件の記事」と「証言」の章は、史料を引用するのみで一切説明文がない。史料はWikisourceにて提示するべきなのでは。
  2. 書籍を引用したら、どの本のどの版からなのか明示すべきなのでは。

以上、当方の疑問点・意見を述べましたので、返答お願いします。--Dokuotou 2006年6月14日 (水) 11:18 (UTC)[返信]

再度削除依頼提出しました[編集]

著作権侵害の虞。記事中の「事件の記事」及び「影響」の部分にある翻訳文が、井上春樹『旅順虐殺事件』(筑摩書房、1995.12)の26頁及び300頁のものの丸写し。記事には説明文もほとんど無く、引用とは言い難いため。上の質問にも答えていただけず、削除後全面的に改稿したものを起稿する予定です。--獨頭 2006年6月29日 (木) 13:52 (UTC)[返信]


文意が取れません[編集]

「事件の経緯」の節、「第一段階」の冒頭にある一文の意味が読み取れません。「…と判断し、を命じた。この二つの部隊が…」の部分です。「を命じた」の前に「二つの部隊」に関する内容が書かれてい(た)ように思えますが。もう一点は、外部リンクの下の一文です。「この著作」とはどの参考文献(外部リンク)を指しているのでしょうか。---Redattore 2006年7月12日 (水) 03:36 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。マウス操作でコピーしたつもりが切り取りをしたらしく、「市内掃討」の字句が消えていました。また外部リンクのどれを指すのかも明示的にしました。言い訳にはなりませんが思っていたより早く削除され、急ぎで作ったため、他にも誤字や乱文等があるかも知れません。あればまたご指摘くだされば幸いです。--獨頭 2006年7月12日 (水) 12:41 (UTC)[返信]

小説??[編集]

上では特に触れなかったが、’Under the Dragon Flag’は非常に重要である。それは中国の研究ではよく典拠として引用されるからである。ただこれは小説であって、著者もその詳しい素性は知られていない。無論中国の研究でもそのまま信じるのではなく、その記述を生存者の証言で補強する形で引用しているが、取り扱いに注意を要することは変わりない。中国では『旅順落難記』(抄訳、1958)あるいは『在龍旗下-甲午戦争親歴記』(1985)というタイトルで訳された。なお日本語訳は管見の限りなかった。
’Under the Dragon Flag’は小説であるにもかかわらず、他国では研究資料として重視されていることを述べています。大谷論文など、日本の研究では全否定はしませんが、距離を置いて取り扱っています。その点を注意書きしていますので、削らないでください。--獨頭 2006年10月2日 (月) 07:39 (UTC)[返信]

虐殺肯定資料[編集]

本文には紹介が無いようですが、「日清戦争従軍写真帖 伯爵 亀井茲明の日記」柏書房1992には、第一級の資料としての日記と、亀井が撮影した写真が載っています。p14-16の解説から本文を探ってみてください。--218.137.100.152 2009年5月26日 (火) 02:12 (UTC)[返信]

第一師団司令部付き通訳官向野堅一の証言

「余談ニナリマスガ旅順デ山路(山地の誤記・以下同)将軍ガ非戦闘員ヲモ捕ヘテ惨殺シタト云フコトガ当時新聞デ大分(だいぶ)八ヶ間敷(やかましく)ナッタコトガアリマシタガ是レハ旅順戦ノ初メ我ガ騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬(名は徳次)中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口(そうこう)カラ石ヲ入レ或ハ睾丸(こうがん)ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此(カク)ノ如キ非人道ヲ敢(あえ)テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐(せんじょ)セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」(『明治二十七八年戦役余聞戦役夜話』)Kenzi 2013年10月12日 (土) 00:10 (UTC)

虐殺否定報告[編集]

本事件はベルギー公使ダネタン等の証言により捏造であることが証明されています。


ベルギー公使ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出し、結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」がまぼろしだったことを突き止め、ベルギー本国政府に対して注意を促す次のような報告書を提出している。   
   
「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・ベルギー関係史』)   
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog113.html
現在の歴史研究では参考文献で挙げたように、どれも「旅順虐殺事件」を日本における正式名称としています。また虐殺の規模はともかく無かったなどという研究は、皆無です。磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・ベルギー関係史』は、単にベルギー公使の発言を取り上げているだけで、他の証言との真偽や整合性を論証しているわけでもなく、しかも査読論文・研究書では、また聞き証言であるためか、なんら重要視されていません。故に上記のアドレスは有効な反論とはなりえません。訂正する場合、まず現在の査読論文を根拠として複数提示してください。--獨頭 2006年10月2日 (月) 07:39 (UTC)[返信]

旅順に逃げ込んだ清国兵を殺害したとの見解はありますが、無抵抗な一般の市民まで殺害したとの結論は出ていません。 通常の歴史の書物には「旅順虐殺事件」ではありませんし歴史的にも「旅順口事件」が日本での普通の呼び方です。ベルギー公使は当時事件に疑問を抱き、特別に調査したもので重要な証言です。これを否定する証拠が無ければ削除は歴史の捏造です。--Denki 2006年10月2日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

日清戦争の方にも書きましたが、訂正する場合、依拠する歴史研究を挙げてください。「重要な証言」かどうかは加筆者が判断することではありません。歴史研究に沿った加筆をしてください。あと依拠する近年発表された研究を具体的に挙げてください--獨頭 2006年10月2日 (月) 10:45 (UTC)[返信]

ではこれを否定する証拠をお持ちなのでしょうね? その研究を披露してください。 自分の意見に合わない証拠を隠滅する事は全体主義者のやり方です。--Denki 2006年10月2日 (月) 11:14 (UTC)[返信]

自分の意見に自信があるなら、証拠を出して証明してください。 明らかに誤った学説を吹聴することは犯罪です。説明の付かない事は事実ではありません。--Denki 2006年10月2日 (月) 12:50 (UTC)[返信]

誤解しているようですが、保護依頼を出したのは私ではありませんし、「明らかに誤った学説」なる判断を下すのはあなたではありません。それにわたしは初稿のころから参考文献を挙げ、根拠を複数提示しています。挙げている参考文献にはそのまま「旅順虐殺事件」ということばを使用しているものもありますよね。大谷論文も「旅順逆事件とはなにか」という一章を設けて論じています。使用している史料も研究書で使用されているもののみ使って私見を交えていません。むしろ証明を提示していないのはそちらです。無根拠もしくは根拠薄弱な理由から変更しているのはそちらです。もう一度申しますが、根拠となる査読論文あるいは研究書を挙げてください。こちらが複数挙げているのに、そちらは近年の研究を挙げていませんよね。はなしはそれからです。--獨頭 2006年10月2日 (月) 13:04 (UTC)[返信]

どこが根拠なのですか?何処にも証拠となるものはないですよ。 ただ研究と称する個人の主観を述べているだけに過ぎません。 ベルギー公使の証言は当時の一次資料であってこれを否定する証拠がなければ排除することは不当であり、あなたが根拠とする研究は全くの無価値です。理解できますか?--Denki 2006年10月2日 (月) 13:16 (UTC)[返信]

Wikipediaの基本ルールを理解されていないようですが、その資料が有用かどうかを判断するのは加筆する者ではなく研究者です。そこで研究書を挙げて、その中に書いてあることを加筆しています。一度基本ルールを確認されてから加筆するようにしてください。そもそも挙げた研究が根拠となり得ることを理解できないのであれば、加筆するだけの資格があるとは思えません。それともう一度書きます。依拠する査読論文や研究書を挙げてください。『日本・ベルギー関係史』は旅順逆殺事件の専論ではありませんし、そのほかの研究も挙げていませんよね。Wikipediaはあなたの個人的な信条を宣伝する場ではありません。歴史研究をなめたようなまねはお止めください。今後学術研究を挙げずに、個人的信条を書くだけでは、対話の意志なしと見なさざるをえません。--獨頭 2006年10月2日 (月) 13:32 (UTC)[返信]

一次資料を有用でないとする研究者などいません、一次資料あっての研究です、もし一次資料を無視する研究者がいたら研究者ではなく捏造者です。あなたはこの資料が個人的に気に入らないから削除しているにすぎません、これは明らかな歴史の改ざんです。反論もせず逃げ回っているだけでは話になりません。:Denki|Denki]] 2006年10月2日 (月) 13:52 (UTC)

どうやら学術研究を挙げることができないようですね。定評ある学術研究を挙げられるのでしたら、コメントします。それとどちらが逃げ回っているかは、第三者の判断にまかせるとしましょう。最後にさきに「個人的に気に入らないから削除」したのは、そちらですよ。時系列をきちんと把握しましょう。--獨頭 2006年10月2日 (月) 13:51 (UTC)[返信]

研究とは判らないものを調べることです、本件は上記の一次資料により事実でないことが判明しています。証拠も示されないような研究は研究ではありません。与太話を研究と言われても・・・。それなりの証拠や論拠のないものは研究書とも言えないでしょ。--Denki 2006年10月2日 (月) 13:56 (UTC)[返信]

言い忘れましたが、202.147.213.226さんとDenkiさんは同一人物なんですよね。202.147.213.226さんの加筆の際に「Denki」と署名しているのですから。日清戦争 のノートに「歴史に「虐殺」を使うのは偏ったイデオロギーに染まった異常な学者だけです」と発言していますが、これは立派な名誉毀損ですし、Wikipediaの暴言を吐かないというルールも冒しています。発言の撤回願います。ついでに「一次資料」の意味をきちんと理解してから使用しないと恥をかきますよ。老婆心ながら忠告です。--獨頭 2006年10月2日 (月) 14:12 (UTC)[返信]

特定の学者を指しての発言ではありません。異常なは言い過ぎでした。 研究ならベルギー公使ダネタンが事件を最初に研究し誤報であると結論付けているでしょ。 事件当時、事件を調査研究したダネタンが誤報であると証言しているのに、100年後に何をどう研究したら違った結論になるのよ?よほど重大な新証拠でも無いと無理でしょ。そうおもいませんか?--Denki 2006年10月2日 (月) 14:18 (UTC)[返信]

全然思いません。数少ない中国側生存者や日本軍兵士、海上から見ていた欧米人など、あったことを自分の目で見て証言しています。ダネタン一人がどう言おうと覆るとは思いませんし、そもそも彼はその場に居合わせていた訳でもない。研究者が重視しないのは無理もありません。何故あったという証言を無視してダネタンのものだけを取り上げる必然性があるのか全く理解できませんし、これまで説明されていません。しかし問題はここにあるのではありません。そもそもどの証言が有効かなどは、歴史研究者に任せるべきです。
たとえば裁判ではいろんな証人が様々な証言をしますが、それのどれを採択するかは裁判官の役目です。ある人が、これこれこうだと証言したからといってそれだけで事実認定されるわけではありません。種々立場から証言されることは事前にわかっているからです。勘違い証言もあるでしょうし、自己保身のため、利益のために証言することもあるでしょう。裁判官は証言者の立場や理解力、信用性を勘案し、相互につきあわせ、どの証言が正しいか判断を下し、事件を再構成します。そして我々は、その裁判官たちによって事実認定されたものを、著作権にふれないようWikipediaに加筆するだけで、そこに自らの判断を持ち込むべきではありません。我々は裁判官の役目を引き受けるべきではないでしょう。わたし自身、ある中国側の研究を読んでいていろいろ思うところがありましたが、私見は書いていません。歴史研究における、私見はきちんと本名で発表しています。
申し訳ないけれど、今日はたまたま仕事が煮詰まりつきあいましたが、近々に締め切りを控えて多忙なので、これ以後きちんとした研究を挙げてもらえなければ、水掛け論になりお互い時間のロスとなりますのでお相手できません。悪しからず。--獨頭 2006年10月2日 (月) 14:50 (UTC)[返信]

歴史の研究とは全ての資料を満足させるものです、一部の資料を無視し持説に都合のよい資料だけ使う事はありません。個研究者には資料が重要か否かを判断する資格はありません。全ての資料を開示した上で討論し出た結論が真実です。あなたのように好き勝手に資料を削除したり自説に都合の良い資料だけ使っては真実は見えてきません。

長谷川伸『日本捕虜志(上)』(時事通信社、昭和37年4月、初版)によれは「山路元治中将が率いる第一師団(東京)がただ一日で旅順を陥落させたのは、そのすぐ後の11月21日である。このとき外国新聞に、旅順市外に虐殺が数日間つづいたと電報記事が載った、それは清兵が制服をすてて民家から普段着を盗んで着たのみか、避難立退きで人のいない民家の住人に化けたのを、日本兵が戸々について検索し、これを斬ったのを誤まり伝えたもので、それも21日の一夜で、22日の朝からは新たな流血はなかった。旅順の住民は総攻撃以前に市街から退避していたので、少数の住民がいたのみ、婦女子はいなかった。だがこの虐殺説は程なく雲消霧散した。」とあります。

また、旅順功略後、現地行政庁の行政官になった鄭永昌の報告によると、 「支那兵が旅順に駐屯するや、ほしいままに民家に乱入し、家具を破壊し、財産を略奪せしもの少なからず、故に日本軍の進撃せし時は旅順市街すでに空虚なり」とある。

既に殆どの市民が退避して無人の街で市民虐殺など起こることはありません。

中国が殺害された者の数を調査したとしていますが、何時、何処で、誰が、どうやって、誰から聴き取ったのか具体性に欠けます、歴史の研究では具体性の無い資料は資料価値がありませんが、自説に都合が良いとドンナ資料でも使う。

また当時の旅順がまだ小さな港町に過ぎず人口も1万人にも満たないような街であったことも伏せている。(旅順は満州にあり、清の時代は満州人に土地、満州には中国人の移住が禁止されていた、旅順が大きく発展したのは日本が進出してから)

歴史は裁判ではありませんよ。--202.147.213.226 2006年10月2日 (月) 22:34 (UTC)[返信]

自説に都合のよい資料ばかり挙げているのはあなたですよ。また「個研究者には資料が重要か否かを判断する資格」はあります。しかしWikipediaの執筆者にはありません。近年進展した研究をそのまま執筆するべきです。あなたのやっていることは、本名もあかさず文責も引き受けず、独自の調査を繰り返しているだけです。旅順の居住人口などまさにその例です。あと「満州には中国人の移住が禁止」されていたのは事実ですが、それをルールを破って漢民族は流入していたのですよ。ですが繰り返すと、問題はそこにはない。あなたが近年発表された研究を利用しない点にある。それらの研究に不備があるというのなら、あなたご自身が『史学雑誌』でも『史林』でも好きな査読雑誌に投稿して自説を発表すればよい。ここでとやかく言っても始まりません。他の研究者の判断を受けずに自説を垂れ流そうなど、無責任極まります。査読雑誌掲載論文にこれこれこういう事が書いてある等の指摘でなければ、修正には応じられません。上にも書きましたが、依拠する査読論文もしくは研究書を提示してください。現在の歴史研究におけるものをです。--獨頭 2006年10月3日 (火) 01:49 (UTC)[返信]

「個研究者には資料が重要か否かを判断する資格」はあります。そうですか、でも歴史の研究では資料を無視はしません、自説に合わない資料が有れ何故そのような理療が存在するのか調査して原因を突き止めます。そのことによって自説の正しさを立証します。「近年発表された研究」と主張されていますが何ら新しい発見は無く、過去の研究の一部を削除し結果を改ざんしただけのもので、歴史学界で発表されたものでなく個人的な著作にすぎません。--Denki 2006年10月3日 (火) 10:07 (UTC)[返信]

通りすがりですが、「過去の研究の一部を削除し結果を改ざんしただけのもの」などと言っている時点で、Wikipediaのルールを理解していないと思われます。現在の研究で相対立する説があるのなら、両論併記ですが、参考文献にあげられたものにはどれも虐殺についてかいているようです。またひっそり暮らしていたから虐殺に遭わないなどというのは、物理法則を無視した主張としか思われません。Denkiさんの主張は、単なる根拠のない自説にすぎず、保護が解けてもWikipediaの他の執筆者に受け入れられないでしょう。再度ルールを読み直してから加筆するか、自説の展開は個人のサイトでやるべきでしょう。それと歴史学の何たるかをおさらいすることも勧めます。--218.110.207.253 2006年10月6日 (金) 00:16 (UTC)[返信]

参考文献は長谷川伸『日本捕虜志(上)』(時事通信社、昭和37年4月、初版)や(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係史』)など虐殺を明快に否定しています。「またひっそり暮らしていたから虐殺に遭わない」などとは言っていません。一般の中国人が満州に住む事は禁止されていたので、満州でも政府機関があり直ぐに政府に見つかってしまう旅順のような町には一般の中国人は居住出来なかったと述べているのです。自説ではありません、旅順口事件で一般の中国人に対し虐殺が無かったとするのが現在の日本史での定説です。--Denki 2006年10月6日 (金) 19:07 (UTC) <うるspan style="font-size: smaller">—以上のコメントは、202.157.20.186会話履歴)氏が[2006-10-06 19:07:11]に投稿したものです。---Redattore 2006年10月6日 (金) 10:53 (UTC)[返信]

「(1)旅順は自然に発達した市邑でなく、軍事目的で建設された港町であり、住民といえども従軍の非戦闘員であって、交戦時には襲撃の対象になることも止むを得ない場合がある。」と指摘されているように、旅順の町は旅順要塞や軍港に付随して建設されたものであり、そこの住民も純粋な一般市民と言える者は居住せず、全員が何らかの形で清国軍に関連する産業に従事する軍属的な者たちであったのです。不法移民などは居住せず人口も少なく、清国軍が日本軍に敗れると住民の殆どが日本軍が来る前に退去して旅順の町は無人になってしまったのです。この事実は記録からも証明されており学界では異論も出ていません。--Denki 2006年10月8日 (日) 04:22 (UTC)[返信]

項目名について[編集]

「日本の外交文書では『旅順口虐殺事件』」「と言う」と記事にあるもかかわらず、記事名がこれとずれている理由は何でしょう? どなたか、山川出版社の「日本史用語集」をお持ちの方は、「旅順虐殺事件」、「旅順虐殺事件」いずれの表記となっているかご教示ください。--Njt 2006年10月2日 (月) 07:35 (UTC)[返信]

上にご質問に関する回答を寄せました。--獨頭 2006年10月2日 (月) 07:39 (UTC)[返信]
承知いたしました。一応、Googleで "site:go.jp", "site:ac.jp"で絞って検索してみたところ、「旅順虐殺事件」: 32件、「旅順口事件」:1件、「旅順口虐殺事件」:0件でした(内容は書名や学会発表のタイトルが多いようでしたので参考にしてよいものと思います)。現在では「旅順虐殺事件」と呼ぶのが通常なのですね。--Njt 2006年10月3日 (火) 08:13 (UTC)[返信]
ああ、しまった。本文の方は、「日本の外交文書では『旅順口虐殺事件』」「と言う」と「旅順口事件」に修正すべきようですね。今は保護されているので、解除されたときの話ですが。--Njt 2006年10月3日 (火) 08:17 (UTC)[返信]

虐殺否定資料[編集]

山路元治中将が率いる第一師団(東京)がただ一日で旅順を陥落させたのは、そのすぐ後の11月21日である。このとき外国新聞に、旅順市外に虐殺が数日間つづいたと電報記事が載った、それは清兵が制服をすてて民家から普段着を盗んで着たのみか、避難立退きで人のいない民家の住人に化けたのを、日本兵が戸々について検索し、これを斬ったのを誤まり伝えたもので、それも21日の一夜で、22日の朝からは新たな流血はなかった。旅順の住民は総攻撃以前に市街から退避していたので、少数の住民がいたのみ、婦女子はいなかった。だがこの虐殺説は程なく雲消霧散した。

長谷川伸『日本捕虜志(上)』(時事通信社、昭和37年4月、初版)169頁

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また、旅順功略後、現地行政庁の行政官になった鄭永昌の報告によると、 「支那兵が旅順に駐屯するや、ほしいままに民家に乱入し、家具を破壊し、財産を略奪せしもの少なからず、故に日本軍の進撃せし時は旅順市街すでに空虚なり」と、ある。

(略)

 虐殺とは文字通り「残虐な殺害」または「理由なき大量殺戮」の意味だ。日本軍は旅順で捕虜となる資格のない中国軍お得意の便衣兵を処刑したにすぎず、旅順で戦死者は出たが、軍による組織的な虐殺など存在しなかったというのが「史実」だ。

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 例えば日清戦争での日本軍による旅順港占領の際に、無事の住民に対する虐殺が行われたとする記事が諸外国の新聞に報道されたことがある。ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出し、結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」がまぼろしだったことを突き止め、べルギー本国政府に対して注意を促す次のような報告書を提出している。

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係史』)

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外務大臣陸奥宗光の声明文 12月16日

一 清国兵は制服を脱ぎ捨て逃亡した。 二 旅順で殺害された平服を着た者は、大部分が姿を変えた兵士であった。 三 住民は交戦前に立ち去った。 四 少数の残留した者は発砲し交戦するよう命令され、そのように行動した。 五 日本軍は、日本兵捕虜の何名かが行きながら火焙りにされたり、また責め苛まれたりした上、恐ろしいほどに切り刻まれたりした死体を目にして大いに激昂した。 六 従来通り日本軍は軍規を遵守していた。 七 クリールマン以外の外国人特派員は彼の報道に驚愕している。すなわち、彼らは冬支度のために日本に戻ったものであり、再度前線に従軍する予定である。 八 旅順陥落時に捕えられた三百五十五名前後の清国人捕虜は好遇されており、二、三日うちに東京へ連行される。

文中の「東洋のジブラルタル」なる語ですが、気になってググると少なくとも4つの場所・地域が出てきます。「函館」「旅順」「シンガポール」「トラック」0null0 2007年2月2日 (金) 20:26 (UTC)[返信]

事件当時の旅順の人口について[編集]

日露戦争当時の旅順の人口(旧市街と新市街を合わせたもの)でさえ1万6~8千人だった。日清戦争当時は旧市街しかなく、人口は1万人以下。以上の署名の無いコメントは、202.147.217.118会話/whois)さんが[2007年7月31日 (火) 22:49 (UTC)]に投稿したものです(Wakkubox 2008年11月28日 (金) 15:04 (UTC)による付記)。[返信]

保護解除の提案[編集]

この記事は編集合戦を理由として2006年10月2日 (月) 11:41 (UTC)より全保護が行われました。なお、本ノートページにおける議論が1年以上前の2007年7月31日 (火) 22:49 (UTC)で滞まっております。このため、Wikipedia:保護の方針#保護を解除してもよい場合の「しばらくの間議論がない、仲裁の試みが進行中など、解除しても問題が再発しないのではないかと思われる場合」のうちの『しばらくの間議論がない』に該当すると見なし、様子見として保護解除の提案を致します。1週間以内に異論がなければ保護解除依頼に提出致します。--Wakkubox 2008年11月28日 (金) 15:04 (UTC)[返信]

他者からの意見・反論がなかったため、Wikipedia:保護解除依頼に出すことに致します。--Wakkubox 2008年12月5日 (金) 15:16 (UTC)[返信]

保護解除後の編集について[編集]

危惧したとおり、編集後すぐに専門家たる歴史家が全く採用していない学説ともいえないものを編集加筆していますが、私が挙げているような専門家諸氏の説に全く採用されていないようなものを混ぜるのはお止めください。専門家とそれ以外のものは同等に扱われるものではありません(信頼できる情報源参照のこと)。したがってそれとの「中立」を振りかざすPeace的編集には賛同できません。--獨頭 2008年12月7日 (日) 12:05 (UTC)[返信]

備忘として[編集]

  • 参考文献。三輪公忠「「文明の日本」と「野蛮の中国」---日清戦争時「平壌攻略」と「旅順虐殺」のジェイムス・クリールマン報道を巡る日本の評判」(軍事史学45-1・通巻177、特集:日本陸軍とアジア、2009年6月)。CiNiiを「旅順虐殺事件」で検索してもヒットしないので、ここにメモしておく。(1)研究史整理、(2)クリールマンの戦地報道を旅順以前から時系列に追うとともに、米国での報道全体のなかに位置づける、(3)米国駐日公使ダンの調査究明、ダンは現地にいた欧米人たちから聞き取り調査をしていた、(4)米国での研究(ドワート、1973年)(ケイン、2003年)。高橋文雄(防衛研究所戦史部所員)と米国軍事史家エドワード・ドレイ博士へ、情報提供や相互討論があったことへの謝辞あり。--rshiba 2009年8月5日 (水) 13:19 (UTC)[返信]
CiNiiには諸井 耕二「石樵 乃木希典の漢詩(6)「旅順虐殺事件」など」(『宇部短期大学学術報告』(33) ,1996)、大谷正「旅順虐殺事件と国際世論をめぐって (日清・日露戦争と世界<特集>)」(『歴史評論 』532 ,1994/08)など七つもあるけどね。--118.105.192.34 2009年8月6日 (木) 22:45 (UTC)[返信]
そうではなくて、この三輪論文は、タイトルの付け方ゆえに、キーワード「旅順虐殺事件」では検索にヒットしないということです。だから、念のため、ここに記しておくとの意味です。--rshiba 2009年8月7日 (金) 01:22 (UTC)[返信]

観戦[編集]

日本人の旅順大虐殺で記述(中國語)Our lovely Japers, here's an webpage for you to study if you want. No matter how many casualty killed, the event must be happened. Hope you go on writing your own history book as your pleases, and let your future generation do the same things on Asian countries as their wish again and again. ----219.143.204.254 2009年8月25日 (火) 12:02 (UTC)[返信]

向野堅一の証言[編集]

向野堅一の山地師団長の命令についての証言が、この記事に記載されていなかったので、挿入させていただきました。

「余談ニナリマスガ旅順デ山路(山地の誤記・以下同)将軍ガ非戦闘員ヲモ捕ヘテ惨殺シタト云フコトガ当時新聞デ大分(だいぶ)八ヶ間敷(やかましく)ナッタコトガアリマシタガ是レハ旅順戦ノ初メ我ガ騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬(名は徳次)中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口(そうこう)カラ石ヲ入レ或ハ睾丸(こうがん)ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此(カク)ノ如キ非人道ヲ敢(あえ)テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐(せんじょ)セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」

何か問題がありましたら、議論お願いいたします。Kenzi 2013年10月15日 (火) 07:33 (UTC)