ノート:大乗非仏説

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恣意的な編集について[編集]

失礼ですが、Gruppetto氏は論理的思考力の乏しい方だと思います。

【しかし、このことをもって大乗経典が全て釈迦の直説であると証明されるわけではなく、大乗非仏説を全面的に否定することにはなり難い。】

私は、仏教学者である中村元博士の研究成果を引用して、大乗経典の法理が既に最初期の仏教において説かれていることを紹介したのですが、もし、この中村元博士の研究成果が事実であるなら、大乗仏教の法理を釈迦が説いていたことになるので、「大乗仏教は釈迦の説ではない」という主張(=大乗非仏説)の根拠は完全に崩れています。
にもかかわらず、Gruppetto氏が
「大乗非仏説を全面的に否定することにはなり難い」
と大乗非仏説にこだわるのは、何か私的な動機によって大乗非仏説に固執しているとしか考えられません。

【口承伝承をもっぱら重んじる「宗教に関するインド人の伝統」は、出自が不明確な大乗仏典がなぜ仏説として流通しえたのかの説明にはなっても、大乗非仏説そのものを否定する論拠にはなり難く、また大乗経典とパーリ語経典の成立時期に大きな差があることを合理的に説明する論拠ともなりえない点である】

古来よりインドにおいて宗教の聖典を口述で伝承する習慣があったという事実は、
「大乗経典は聖なる教えであるからこそ逆に文字に記されなかった」
という「言い訳」を可能にするものです。
そしてそれは、大乗経典が早期に文字に記されなかったことの理由として筋の通った「言い訳」です。
そもそも大乗非仏説の主要な論拠は、早期に文字に記された大乗経典が発見されていないという点にあったはずです。
したがって、文字に記されなかった理由を説明できるのであれば、それはただちに大乗非仏説の論拠が崩されたということであるはずです。
にもかかわらず、Gruppetto氏がその説明を
「出自が不明確な大乗仏典がなぜ仏説として流通しえたのかの説明にしかならない」
と矮小化しているのは、明らかに恣意的な編集です。
論理的には
「出自が不明確な大乗仏典がなぜ仏説として流通しえたのかの説明にもなり、かつ、大乗経典が早期に文字に記されなかったこと、大乗経典とパーリ語経典の成立時期に大きな差があることの説明にもなっている」
というのが正しいはずです。
以上の点について、Gruppetto氏の釈明を要求します。
--Takeda1st 2009年6月24日 (水) 20:08 (UTC)[返信]

論理的思考力に乏しいのはTakeda1stさんの方でしょう。あなたは大乗非仏説を否定したいがために中立的な思考ができていません。「大乗仏教は聖なる教えだから文字に記されなかった」は推論にすぎません。当初文字化されなかったのはパーリ語経典についても同様だからです。そのような推論だけで一つの学説が全て否定できるという考えは学問的態度とはいえません。--Gruppetto 2009年6月24日 (水) 23:09 (UTC)追記--Gruppetto 2009年6月24日 (水) 23:21 (UTC)[返信]

あなたのそういう態度が論理性に欠けていると言っているんです。
私は確かに大乗非仏説を否定したいという内心的動機を有していますが、私が紹介した仏教学上の研究成果(最初期仏教において既に大乗仏教の思想が説かれていた等)はあくまで中立的な立場の人々によって提示されているものです。
また、私が指摘した事実(阿含部経典に大乗仏教の思想と共通する「自性清浄心、客塵煩悩」等の教えが説かれていること)も、私の思想的立場に関係なく事実です。
あなたは私の思想的背景を理由に、私が提示した仏教学上の研究成果や明らかな事実まで疑いの目で見ています。
あるいは、あなたが大乗非仏説を主張する学派の学者さんで、大乗非仏説を否定されると飯の種が無くなってしまうというような私的な事情でもおありになるのでしょうか?
上にも書きましたが、大乗非仏説とは

「大乗仏教は釈迦の説いたものではなく、後世の偽作である(=釈迦は大乗仏教の法理を一切説いていなかった)」

という説ですから、大乗仏教の法理が既に最初期の仏教において説かれていたことが明らかになれば、それだけで大乗非仏説は否定されてしまいます。
また大乗非仏説は、現在までに発見されている最も古い大乗経典群が記された時期と釈迦の死との間に数百年の開きがあるという考古学的事実から、大乗仏教は釈迦の説ではないという結論を導いていますが、その考古学的事実と結論は

「人間は宗教を必ず文字に記して伝承するものだ。仏教の複雑かつ膨大な教えを文字に記さずに伝承できるはずがない」

という「思いこみ」で結ばれています。
論理的には以下のとおりです。

(大前提)「現在までに発見されている最も古い大乗経典群が記された時期と釈迦の死との間に数百年の開きがある」

(小前提)「仏教の複雑かつ膨大な教えを文字に記さずに伝承できるはずがない」

(結論)「したがって大乗仏教が釈迦の説であるはずがない」

しかし、インドにおいて釈迦の死後900年以上もの間仏教が口承され続けていた事実が示されれば、中間の小前提が誤りであることが確定し、大前提(考古学的事実)と結論(大乗非仏説)が論理的につながらなくなってしまうのです。
ここまで説明してもおわかりにならないなら、失礼ですが、論理的思考が相当に苦手な方だとお見受けします。
--Takeda1st 2009年6月25日 (木) 03:04 (UTC)[返信]

注意横から失礼します。編集合戦を認めたため、本件記事の編集保護を実施したtan90degです。1点だけお願いです。本件短期の編集保護は、記事内容についての話し合いを促すためのものです。ノートページでは、どうか冷静になったうえで「記事のあり方」ただ1点について議論してください。「××さんが論理的思考に乏しいか否か」について議論する場所ではありません。どうしても特定の利用者さんの言動が看過できないほど不適切であるとお考えであれば、当ノートではなく、Wikipedia:コメント依頼#利用者の行為についてのコメントをご活用ください。本件節の見出し名は、記事に関しての中立的な議論を行うにふさわしくないと認められることから、その一部を変更させていただきました。ご了承ください。なお、議論内容および保護解除後の動向によっては無期限保護もありうることを予告しておきます。--tan90deg 2009年6月25日 (木) 04:06 (UTC)[返信]


Takeda1stさんの主張は、例えて言うなら次のようなものです。
「Aさんが事件の現場に居た所を誰も目撃していないし、事件の現場に居た具体的証拠もない。しかしAさんがそこに居たと推測することは可能であるから、Aさんは犯人である」

このような稚拙な詭弁をtakeda1stさんはご自分で「論理」だとお考えなのですか?

大乗非仏説とは、「大乗仏典には釈迦の言説は一切含まれていない」という主張ではありません。「大乗仏典は釈迦が実際に弟子達に語った言葉を書きとめたものではなく、釈迦の思想の影響の元に後の時代の人々が創り上げたものである」というのが大乗非仏説です。釈迦の思想の影響下にある以上、釈迦の実際の言説に通じる要素が部分的には含まれている可能性も否定できません。しかし、それは大乗非仏説自体を否定することにはなりません。

また逆に言えば、漢訳阿含経典に、後の大乗の思想の萌芽となるものが認められるとしても、現在ではパーリ語経典さえ釈迦の言説でないものが含まれていると考えられていますから、それが釈迦の思想である保証はありません。

そもそもtakeda1stさんは、アカウントを持ちながらなぜこそこそとIPで編集し続けたのでしょうか?アカウントがあるなら正々堂々とログインして編集するのが筋ではないでしょうか。--Gruppetto 2009年6月25日 (木) 10:40 (UTC)[返信]


また論理構造を勘違いしていますね。
私が言っていることは、あなたの持ち出してきた例でいうなら、こういうことです。

「Aさんが事件の現場に居た所を誰も目撃していないが、事件の現場に居た具体的証拠がある。Aさんがそこに居たと推測することは可能であるから、Aさんが犯人ではないとは言い切れない。むしろ事件の現場にいた証拠がある以上、Aさんが犯人であると考えるべきである」

上にも書いたように、最初期の仏教において大乗に属する法理が説かれていたことは既に中村元博士によって指摘されています(=事件の現場に居た具体的証拠がある)。
したがって、むしろ釈迦が大乗を説いていたと解するのが自然です。
またあなたが持ち出してきた例でいうなら、大乗非仏説は
「現場に居なければ犯罪を実行することはできない」(=仏教は文字に記さなければ伝承することができない)
という思いこみに立脚しています。
もし、現場に居なくても犯罪を実行できる手段があるなら(=文字に記さなくても伝承することが可能なら)、Aさんが事件の現場で目撃されていないこと(=釈迦の死の直後に記された大乗経典が見つかっていないこと)は、Aさんが犯人ではないこと(=大乗経典が釈迦の説ではないということ)の証拠にはなりません。
こういう推理はよく探偵小説でありますよね。

【大乗非仏説とは、「大乗仏典には釈迦の言説は一切含まれていない」という主張ではありません。「大乗仏典は釈迦が実際に弟子達に語った言葉を書きとめたものではなく、釈迦の思想の影響の元に後の時代の人々が創り上げたものである」というのが大乗非仏説です】

A:「大乗仏典には釈迦の言説は一切含まれていない」
B:「大乗仏典は釈迦が実際に弟子達に語った言葉を書きとめたものではない」
同じことじゃないですか。
こういう言葉のごまかしはやめていただきたい。

【そもそもtakeda1stさんは、アカウントを持ちながらなぜこそこそとIPで編集し続けたのでしょうか?アカウントがあるなら正々堂々とログインして編集するのが筋ではないでしょうか】

あなたが恣意的な編集を繰り返したのは私のせいなんですか?
--Takeda1st 2009年6月25日 (木) 13:13 (UTC)[返信]


私は恣意的な編集などしていませんが、それを恣意的と感じるのはあなたの勝手です。しかし、それとあなたが意図的にログインを回避して編集したこととは何の関係もない。話をそらすのはやめましょう。
「理論構造」ですか?これはまた大層な言葉を担ぎ出しましたね。中村元という一博士の主張がこの場合「具体的証拠」に匹敵するほどの意味合いがあるのですか?よほど心酔されているのですね。中村博士はタイムマシンで釈迦に直接会ってきたのですか?また、そもそも中村博士は「大乗仏典は釈迦が実際に語った言葉を書きとめたものである」と主張していますか?
私の言う「現場に居なかった」は、「大乗仏教を説いていなかった」という意味合いであり、文字化云々は関係ありません。あなたは「文字化されなかった」ことに異常にこだわりますが、パーリ語経典も当初は文字化されていなかったのですから、当初文字化されなかったこと自体はは大乗非仏説の否定の論拠にはなりません。むしろ、どちらも当初は文字化されていなかったパーリ語経典と大乗経典の文字化の時期に大きな差があることが問題です。あなたはそれに対し明確な答えを示していません。「方便」だから最初に文字化した?推測の域を出ません。あなたの主張はなんの反論にもなっていないのです。最初の部分は一回前の内容を言い回しを変えて繰り返しているに過ぎません。あなたは「釈迦が大乗の教えを説いていた」という結論がまずありきで、そのために物事を捻じ曲げて解釈しているだけです。
>A:「大乗仏典には釈迦の言説は一切含まれていない」
>B:「大乗仏典は釈迦が実際に弟子達に語った言葉を書きとめたものではない」
>同じことじゃないですか。
全く同じではありません。あなたにはこの違いがわからないのですか?もう一度よく読んで下さい。後世の人々が、釈迦の思想とされるものの影響下に新たな思想体系を創り上げれば、結果的に実際の釈迦の思想と共通する要素がそのなかに部分的に残される可能性はあります。しかしそれを「実際に釈迦が語ったものを直接書きとめたものだ」と主張することはできませんから、大乗非仏説を否定することにはなりません。大乗非仏説を否定するには、大乗経典が実際に釈迦が語った言葉を直接書きとめたものである、ということが立証できなければなりません。もし中村博士の主張どおりに、最初期の仏教において大乗に属する教理が唱えられていたとしても、それをもって大乗経典が釈迦の言葉を直接書きとめたものである、ということの証明にはなりません。

ですから、本文には、「大乗仏典の中にも釈迦の言説が部分的に含まれている可能性は否定できない」とは書けても、「大乗非仏説は誤りである」とは書くことはできません。そのような記述はwikipedia:検証可能性を満たしていないからです。--Gruppetto 2009年6月25日 (木) 15:03 (UTC)一部修正--Gruppetto 2009年6月25日 (木) 16:48 (UTC)[返信]


【しかし、それとあなたが意図的にログインを回避して編集したこととは何の関係もない。話をそらすのはやめましょう】

話をそらしているのはあなたです。
私がなぜログインをせずに編集したかなんて、この問題とは何の関係もありません。
単純に、面倒くさかったからというだけのことです。

【「理論構造」ですか?】

「論理構造」です。

【中村元という一博士の主張がこの場合「具体的証拠」に匹敵するほどの意味合いがあるのですか?よほど心酔されているのですね。中村博士はタイムマシンで釈迦に直接会ってきたのですか?】

子どもみたいな反論ですね。
中村元博士ほどの大学者が最初期の仏典を研究して、大乗の法理が含まれていることを主張されているのであれば、大乗非仏説を否定する論拠としては十分かと思いますが。
それに本文にも書いたように大乗非仏説を否定している学者は他にもいます。

【私の言う「現場に居なかった」は、「大乗仏教を説いていなかった」という意味合いであり】
【むしろ、どちらも当初は文字化されていなかったパーリ語経典と大乗経典の文字化の時期に大きな差があることが問題です】

私は↑あなたの主張(大乗非仏説)を何も勘違いしていませんが。

【パーリ語経典も当初は文字化されていなかったのですから、当初文字化されなかったこと自体はは大乗非仏説の否定の論拠にはなりません】

パーリ語経典が仏説であるか否かと、大乗仏教が仏説であるか否かとは、まるで別の問題です。
それに私は
「当初文字化されていなかったから大乗仏教は釈迦の説である」
なんてとんちんかんな主張は一切しておりませんが。
「当初(現在のように独立した経典の形で)文字化されていなかったとしても、大乗仏教は釈迦の説である」
と主張しているのです。
それは中村元博士その他の学者も主張しているところです。

【最初の部分は一回前の内容を言い回しを変えて繰り返しているに過ぎません。あなたは「釈迦が大乗の教えを説いていた」という結論がまずありきで、そのために物事を捻じ曲げて解釈しているだけです】

あなたの主張が従来の内容を陳腐な殺人事件にたとえただけで何も変わっていないから、私の反論も同じになるだけです。
それに
「釈迦が大乗の教えを説いていた」
というのは、中村元博士その他の学者も主張しているところです。

【大乗非仏説を否定するには、大乗経典が実際に釈迦が語った言葉を直接書きとめたものである、ということが立証できなければなりません】

違います。
大乗非仏説を否定するには大乗非仏説の論理を崩せばそれで足りるのであって、それ以上の高度な証明など必要ありません。
卑近な例えをすれば、相手が殴りかかってくるのを防ぐには相手の足をひっかけて転ばせてやればそれで足りるのであって、自分の強さを証明する必要などありません。

(大前提)「現在までに発見されている最も古い大乗経典群が記された時期と釈迦の死との間に数百年の開きがある」

(小前提)「仏教の複雑かつ膨大な教えを文字に記さずに伝承できるはずがない」

(結論)「したがって大乗仏教が釈迦の説であるはずがない」

これが大乗非仏説の論理であって、中間の小前提が事実によって崩されているのですから、大前提から結論を導けません。
つまり大乗非仏説の論理は既に破綻しているのです。
それと、大乗仏教のある法理が釈迦の説であることを立証するには、釈迦が説いたことが確実な教説の中にその大乗仏教の法理と共通する内容が含まれていればそれで足りるのであって、文言まで一致している必要はありません。
文言まで一致していた方が好ましいのは勿論ですが。

【「大乗仏典の中にも釈迦の言説が部分的に含まれている可能性は否定できない」とは書けても、「大乗非仏説は誤りである」とは書くことはできません。そのような記述はwikipedia:検証可能性を満たしていないからです】

「大乗仏典の中にも釈迦の言説が部分的に含まれている可能性は否定できない」のであれば、「大乗非仏説は誤りである」ことが確定します。
あなたが上で言っているように、「釈迦は大乗仏教を説いていなかった」というのが大乗非仏説ですから。
また、大乗非仏説を否定する根拠のソースは明示されているので、検証可能性も満たしています。
言いがかりはやめてください。
あと、既に私に論破された主張を、言葉を変えて再主張してくるのもやめてください。

あなたは、まるで論点の違う話を持ち出してみたり、私の論理をずらそうとして必死ですが、無駄なあがきです。
阿含宗系の宗教を信仰されているのかもしれませんが、あきらめてください。
--Takeda1st 2009年6月26日 (金) 01:54 (UTC)[返信]


また同じ話の繰り返しですか。あなたは自分の勝手な理屈が検証可能性を満たしていると考えているのですか?

大乗非仏説を否定するには大乗非仏説の論理を崩せばそれで足りるのであって、それ以上の高度な証明など必要ありません。卑近な例えをすれば、相手が殴りかかってくるのを防ぐには相手の足をひっかけて転ばせてやればそれで足りるのであって、自分の強さを証明する必要などありません。

これこそ子供じみた勝手な理屈ですね。特に後半、足をひっかけ云々の話を持ち出してくるところが実に子供的です。
最初期の仏教に大乗に「通じる」教えが説かれていたとしても、それだけで例えば法華経のような大乗経典が全て釈迦のことばであると証明できたわけではありません。ですから大乗非仏説が否定できるわけではありません。「ブッダのことば スッタニパータ」(岩波書店)の解説のなかで、中村元は
「いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダのことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。」としています。これは暗に中村元も大乗経典は歴史的人物としてのブッダの言葉からは遠いものだと考えていることを示しています。
検証可能性を満たす為には、あなたの理屈の前提ではなく、「大乗非仏説は誤りである」という恣意的な結論の方がwikipedia:検証可能性を満たしていなければなりません。また、wikipedia:中立的な観点基づけば、「大乗非仏説は誤りであると主張する者もいる」とは書けても「大乗非仏説は誤りである」とは書けません。「検証可能性」と「中立性」というwikipediaの公式な方針を理解できないようであればwikipediaの編集はおやめ下さい。
また私は特定の宗教は信仰していませんので根拠の無い邪推はやめてください。投稿履歴からあなたが特定の宗派の人間であることは推測できますがね。--Gruppetto 2009年6月26日 (金) 05:44 (UTC)[返信]


私の論理を勝手にずらすのもいいかげんにしてください。
まともに反論できないなら、さっさと白旗を揚げなさい。


また同じ話の繰り返しですか。あなたは自分の勝手な理屈が検証可能性を満たしていると考えているのですか?


あなたが能も無く同じ主張を繰り返しているから、それに対する私の反論も同じになるのです。

将棋に例えれば、私が王手を打つたびに、あなたが「待った」をかけて勝手に駒の位置を元に戻して打ち直しているだけです。

見苦しいですよ。
上にも書いているように、私は、中村元博士他の学者の説や中国の僧・法顕のインド旅行記をソースつきで引用しています。
自分勝手な理屈などではありません。
しかしあなたは、中村元博士らの説を否定する主張をソース無しで展開しています。

自分勝手な主張をしているのはあなたの方です。


これこそ子供じみた勝手な理屈ですね。特に後半、足をひっかけ云々の話を持ち出してくるところが実に子供的です。


あなたのような低能な人でもわかるように、例えで話したのですが。
大乗非仏説を否定するには、大乗非仏説の論理を崩せばそれで足りる。
こんな単純な理屈も理解できませんか?


最初期の仏教に大乗に「通じる」教えが説かれていたとしても、それだけで例えば法華経のような大乗経典が全て釈迦のことばであると証明できたわけではありません。ですから大乗非仏説が否定できるわけではありません。


私の論理をすりかえるのはやめていただきたい。
私がいつ、
「大乗経典は全て釈迦のことばである」
などと主張しましたか?
あなたが上に書いたように、


大乗非仏説
=「釈迦は大乗仏教を一切説かなかった」
=「釈迦が説いた大乗仏教は存在しない


ですから、大乗の法理を釈迦が説いていたことが証明されれば、ただちに大乗非仏説は否定されるのです。
不自然に食い下がるほど、あなたの所属する阿含宗系宗教あるいは大乗非仏説が一般人の目には見苦しく映りますが?


「いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダのことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である」


スッタニパータは仏典の中で最も古く、釈迦の言葉を最も忠実に伝えている。(中村元博士の説)
≠スッタニパータは唯一の仏説である。(あなたの理解)

あるいは

スッタニパータは仏典の中で最も古く、釈迦の言葉を最も忠実に伝えている。(中村元博士の説)
≠大乗仏教は釈迦の説ではない。(あなたの理解)

≠の前後は、全然別の話です。
あなた以外、誰でも理解できる理屈ですが。


これは暗に中村元も大乗経典は歴史的人物としてのブッダの言葉からは遠いものだと考えていることを示しています。


これも論理ずらしです。

スッタニパータは仏典の中で最も古く、釈迦の言葉を最も忠実に伝えている。(中村元博士の説)
=スッタニパータは大乗仏教よりも釈迦の言葉を忠実に伝えている。(中村元博士の説)
≠大乗仏教は、釈迦の説とはほど遠い。(あなたの理解)

あなたの書き方は、読んでいる人に誤解を与える書き方です。
身近な例で言うと、


A:「人に優しくしなさい」
B:「他人を思いやりなさい」


両者は、内容的には同じことです。
仮に釈迦がAの言葉を言って、大乗経典にはBの表現で記されたのであれば、普通の人はBを仏説ではないとは言わないでしょう。
しかし、あなたも含め大乗非仏説派は、Bの表現がAと表面的に一致していないからという理由で、Bを仏説ではないと主張しているのです。
はっきり言って異常です。

あなたが阿含宗系宗教の信者あるいは大乗非仏説の学者で、自分の信仰を守るために、あるいは自分の飯の種のために恣意的な編集を繰り返していると私が疑う理由は、以上のように、持ち上げる必要の無い場面でわざわざ上座部仏教を持ち上げているからです。

ここで上座部仏教の素晴らしさ(笑)を引用して持ち上げる意味がどこにあるのですか?
だから尻尾が見えていると言っているのです。


また、wikipedia:中立的な観点基づけば、「大乗非仏説は誤りであると主張する者もいる」とは書けても「大乗非仏説は誤りである」とは書けません。


いつ私がそんな断定口調で編集しましたか?
私が編集した
①2009年6月24日 (水) 06:55時点における版
②2009年6月24日 (水) 07:38時点における版
を見れば、客観的な事実だけを記していることは明らかですが。

私の書き方は、大乗非仏説側からの反論も許す書き方です。

にもかかわらず、あなたは、私が紹介した大乗仏教側からの反論がまるで無いかのように、執拗に編集し隠蔽し続けました。
あなたが阿含宗系宗教の信者あるいは大乗非仏説の学者で、自分の信仰を守るために、あるいは自分の飯の種のために恣意的な編集を繰り返していると私が疑うのも当然でしょう。


wikipediaの公式な方針を理解できないようであればwikipediaの編集はおやめ下さい。


その言葉、熨斗をつけてお返しします。


また私は特定の宗教は信仰していませんので根拠の無い邪推はやめてください。


なら、大乗非仏説で飯を食っている人ですね?

根拠はあなたの不自然かつ必死な大乗非仏説擁護と、大乗仏教側からの反論を隠蔽する行為です。


投稿履歴からあなたが特定の宗派の人間であることは推測できますがね。


それがどうかしましたか?
私は、検証可能なソースつきの学説と事実と論理に基づいて、大乗非仏説を否定する立場の意見を書きました。
あなたは、その意見を筋違いの学説と事実と論理(笑)に基づいて否定し、なおかつ大乗仏教側からの反論を隠蔽する工作をしました。
はっきり言って、学説を論ずる資格も無いのではないですか?
--Takeda1st 2009年6月27日 (土) 05:30 (UTC)[返信]



あなたのような低能な人でもわかるように、例えで話したのですが。

低能」はれっきとした暴言ですね。あなたがまともに議論のできない妄信的な人だということがよくわかります。
大乗非仏説とは、大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく、後世に作られたものであるという説。
これが本文の冒頭に記されている定義分です。
私はこれに基づいた議論をしています。また、大乗仏教とは、大乗経典が語る宗教思想の総体を指します。ですから、大乗経典の中に実際の釈迦の思想が部分的に含まれていたとしても、その程度では大乗非仏説は否定されたことになりません。大乗経典の内容のほとんど全ての部分が実際に釈迦の説いた思想であることが証明されなければ、大乗非仏説は否定されたとは言えないのです。
文献学的には、大乗経典が釈迦の説いたものでないことはほぼ事実として確定しています。この点は中村元も否定してはいません。中村元は法華経について、信解品で語られる内容と古代インドの社会経済状況との関係から、法華経の嘱累品第二十二まで(つまりほとんどの部分)は西暦40~220年の間に成立したものだとしています(「法華経(上)」岩波文庫、430頁。)。あなたが無理のある妙な理屈で足をかけてみても、大乗非仏説は揺るぎもしないのです。

「大乗非仏説は(中略)論理が穴だらけである」「理論的必然性がなく、非常に根拠の弱い学説であるといえる。」(6月23日、UTC14:16の版)

このような記述は中立的とはいえません。これは24日UTC06:55の版になって「~とするのが、大乗非仏説を問題視する立場の見解である。」が付け加えられたので、多少は中和されましたが、その後に付け加えられた「これに対する大乗非仏説側からの反論はいまだにない。」は全く中立性を書いた勝手な意見です。24日UTC07:38の版における「~以上の理由により、仏教学的にも大乗非仏説は揺らぎつつあるといえよう。」も、一つの「意見」を展開しているだけであって中立的な書き方とはいえません。やはり、あなたはwikipedia:中立的な観点を十分に理解していないといえます。--Gruppetto 2009年6月27日 (土) 11:31 (UTC)追記--Gruppetto 2009年6月28日 (日) 07:01 (UTC)[返信]

上の議論の中でtakeda1st氏が
「不自然に食い下がるほど、あなたの所属する阿含宗系宗教あるいは大乗非仏説が」
あなたが阿含宗系宗教の信者あるいは大乗非仏説の学者で、自分の信仰を守るために、あるいは自分の飯の種のために恣意的な編集を繰り返していると私が疑うのも当然でしょう」
等と何の根拠もなく私が阿含宗という新興宗教の信者であるかのような発言を繰り返していますが、上で述べているとおり、私は特定の宗教は信仰しておらず、阿含宗の信者ではありません。このように、他の利用者を根拠なく特定の新興宗教の信者であるかのように決め付けるのは明らかにWikipedia:個人攻撃はしないに反するものです。
takede1st氏の主張によれば、大乗非仏説を否定しない者はみな阿含宗という新興宗教の信者、takeda1st氏の意見に賛同しない者は「低能」になるそうです。このような妄言を信じる方はまずおられないとは思いますが、私個人の名誉のために付け加えておきます。--Gruppetto 2009年7月3日 (金) 17:21 (UTC)[返信]

低能」はれっきとした暴言ですね。あなたがまともに議論のできない妄信的な人だということがよくわかります。。


あなたが単純な論理操作もできない頑固なだけの人だから言わずにはいられないのです。


大乗非仏説とは、大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく、後世に作られたものであるという説。

これが本文の冒頭に記されている定義分です。

私はこれに基づいた議論をしています。


私は何も誤解していませんよ?
あなたが「‥‥ではない(not)」という語の持つ効果を理解していないだけです。
あるいは理解しているのに理解していないふりをしているか。
「AはBではない」
と言った場合、それはAとBの間に共通する部分が全く無いことを意味します。
例えば、
(a-1)「日本人はアメリカ人ではない」
という命題があったなら、それは論理的には
(a-2)「日本国籍とアメリカ国籍の両方を持っている人は全く存在しない」
という意味です。
もし、日本国籍とアメリカ国籍を両方とも持っている人がいるなら、
(a-3)「日本人の大部分はアメリカ人ではない」(←日本人の大部分がアメリカ国籍を持っていない場合)
(a-4)「日本人の中にはアメリカ人ではない者も含まれている」(←日本人の大部分がアメリカ国籍を持っている場合または日本人の何割がアメリカ国籍を持っていないかが不明な場合)
等と表現するべきであって、単純に「AはBではない」という全否定の文にするべきではありません。
日本国籍とアメリカ国籍を両方とも持っている人が1人でもいた場合、(a-1)の命題は間違っていることになります。
アメリカ人である日本人が存在することになるからです。
ここまでは理解できますか?


また、大乗仏教とは、大乗経典が語る宗教思想の総体を指します。ですから、大乗経典の中に実際の釈迦の思想が部分的に含まれていたとしても、その程度では大乗非仏説は否定されたことになりません。大乗経典の内容のほとんど全ての部分が実際に釈迦の説いた思想であることが証明されなければ、大乗非仏説は否定されたとは言えないのです。


上に二重国籍の例で示したように、歴史上の釈迦が説いた思想と大乗仏教との間に共通する項が1つでもあれば、
(b-1)「大乗仏教は歴史上の釈迦が説いた思想ではない」(←あなたの主張&大乗非仏説)

という命題は間違っているということになります。

大乗仏教の一部を歴史上の釈迦が説いていたことになるからです。
つまり、仏教学界の大御所である中村元博士を始めとする複数の学者が大乗仏教の一部は歴史上の釈迦の思想であると指摘している以上、あなたが言う意味の大乗非仏説はもはや否定されているのです。
そして、大乗仏教の一部を歴史上の釈迦が説いていたことが確実視されるのであれば、後世に付加された疑いの濃い部分を除いて、大乗経典の内容を歴史上の釈迦の思想ではないと疑う理由が無くなります。


文献学的には、大乗経典が釈迦の説いたものでないことはほぼ事実として確定しています。この点は中村元も否定してはいません。中村元は法華経について、信解品で語られる内容と古代インドの社会経済状況との関係から、法華経の嘱累品第二十二まで(つまりほとんどの部分)は西暦40~220年の間に成立したものだとしています(「法華経(上)」岩波文庫、430頁。)。あなたが無理のある妙な理屈で足をかけてみても、大乗非仏説は揺るぎもしないのです。


文献学的な手法はインドの宗教を研究するのには役立たないと既に論証しましたが?
あなたの主張は、文献学的手法でインドの宗教を正しく研究することができる場合に限って成り立つ話です。

(大前提)「現在までに発見されている最も古い大乗経典群が記された時期と釈迦の死との間に数百年の開きがある」

(小前提)「その数百年間、仏教の複雑かつ膨大な教えを文字に記さずに伝承できるはずがない」

(結論)「したがって大乗仏教が釈迦の説であるはずがない」

この小前提を既に崩されている以上、考古学的事実から大乗非仏説を結論づけるのは論理の飛躍です。
既に論破されている話を何度すれば気が済むんですか?

将棋で詰んでいるからといって、勝手に駒の位置を戻さないでもらえますか?


「これに対する大乗非仏説側からの反論はいまだにない。」は全く中立性を書いた勝手な意見です。24日UTC07:38の版における「~以上の理由により、仏教学的にも大乗非仏説は揺らぎつつあるといえよう。」も、一つの「意見」を展開しているだけであって中立的な書き方とはいえません。やはり、あなたはwikipedia:中立的な観点を十分に理解していないといえます。


まともな反論が無いという事実を記しただけですが。
あなたの「反論」は、大乗仏教側からの反論を
「合理性が無い」
等と難癖をつけているだけであって、どう合理性が無いのか全く説明していません。
「合理性が無い」
というだけならお子様でもできます。
中立的な観点を理解していないのはあなたの方です。
そういうわけで、本文中の「合理性」云々の箇所は修正させていただきます。
私は大乗仏教側からの立場で、大乗非仏説の論理の中間にある小前提を崩しました(=「数百年間、文字に記さずに歴史上の釈迦の思想を伝承することは可能だった」という反論をした)。
あなたは大乗非仏説の立場から、小前提が崩されていないこと(=「数百年間、文字に記さずに歴史上の釈迦の思想を伝承することは不可能だった」ということ)を論証してください。
できるものなら。


takede1st氏の主張によれば、大乗非仏説を否定しない者はみな阿含宗という新興宗教の信者、takeda1st氏の意見に賛同しない者は「低能」になるそうです。このような妄言を信じる方はまずおられないとは思いますが、私個人の名誉のために付け加えておきます。


そんな「妄言」を吐いた覚えはありませんが。
大乗非仏説が論理的説明を貫けるのであれば、あなたが大乗非仏説に執拗にこだわることも不思議には思いませんが、ここまでボロボロに論理を崩されている大乗非仏説にまだこだわり続けるのは、通常の第三者的立場にいる者の態度ではありません。
だからあなたの背後関係を疑っているんです。
現に、ここまで私が展開した論理をあなた以外の誰も崩そうとしていません。
私の主張に穴が無いこと、大乗非仏説の論理が穴だらけであることを、客観的第三者には納得していただけたという証拠です。
(いまさら別のIDを作って、別人のように振舞って反論するのは勘弁してくださいね?)
あなた1人が風車に立ち向かうドン・キホーテのように滑稽な努力をしているだけです。
あなたの名誉なんか、とっくの昔に崩壊しています。
まだあると思っていたんですか?
--Takeda1st 2009年7月10日 (金) 01:02 (UTC)[返信]


もし釈迦が大乗仏教を説いていたなら、パーリ語経典と大乗経典はほぼ同じ時期に文字化されるはずですが、この二つの経典の文字化の時期には大きな開きがあります。この点を合理的に説明できなければ、「大乗非仏説の論理を崩した」ことにはなりません。この点は随分前から指摘していますが、takeda1st氏はいまだにこれについて説明できていません。takeda1st氏が「大前提」「小前提」という言葉を用いて繰り返している主張が全く説得力を欠いているのはこのためです。
国籍を例に出した話がまるで理論的説得力を欠いていることはあえて指摘するまでもないでしょう。

また、「仏性」「本覚」などの大乗仏教の教理は元来の釈迦の教えとは無縁、または相容れないものであるということは宮元啓一氏などが主張しています。
なので、
「後世に付加されたと思われる部分が各大乗経典の法理を構成する部分でない限り、各大乗経典の思想を歴史上の釈迦が説いた説ではないと断定することはできないという点にも注意する必要がある。」
という本文の記述についても修正の必要を感じます。

また今後は、takeda1st氏が上記のような人間としての基本的礼節を欠いた態度を続けるのであれば、この利用者との対話は無意味で不必要であると判断させて頂きます。--Gruppetto 2009年7月11日 (土) 17:16 (UTC)[返信]

なんかすごいことになってますね。以前の記事で編集していたVapourです。真実を追求するのは不毛なんじゃないですか。Vapour 2009年7月30日 (木) 14:12 (UTC)[返信]

検定でいえば[編集]

>大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)とは大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく、後世に作られたものだという説。

これのを帰無仮説は

大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものであり、後世に作られたものでは無いという説。

となります。

ここで、この仮説的に大乗仏典の出自を片っ端に調べていき、例えば90%以上が否定されるのであれば

出自を調べれば90%は軽く否定されるので、帰無仮説である大乗仏説は破棄され、社会学的には、大乗非仏説を 支持して差し支えない、と言うような言い方は出来るのでは無いかと思います。

ここで本当に大乗経典の出自を全部私が調べて90%と言ってる訳ではないので、このままでは信じないで下さい。

また95%以上が否定出来るのであれば、今度は科学的にと言う意味で使っても、通常は通用します。

議論するよりも、白黒付けたいのなら、こうしたほうが結局は話が早いと思います。

但し、どう経典を調べ、どう検定に持ち込んだのかと言う前提を残して置かないと、話が一人歩きするだけなので これこれ、こういう条件下で見れば、、と言う前置きを忘れないで覚えておく事が必要となります。

大乗の出自で検定すれば、大乗非仏説は、科学的に支持して問題無いと言うレベルでは無いのか?と予想しますが いや出自でやるのは間違いでXXXでやるのが正しいと思うのであれば、今度はそのXXXで検定して結果を残せば 良い事では無いでしょうか?

いや後世の偉い人が仏陀に超能力で聞いたので仏説なのよ?とかは、ちょっと社会学では通用しにくい考えだと思い ますが、これはこれで超能力説によればと明言すれば特には議論にも、ならないだろうと思います。

○○先生が、こういったから正しいとか、その手だと議論になるけれど、議論したいのなら、そっちコースに行けば 良いと思いますけどね。

この議論、大昔からあるのに、どうしてこういう視点から攻める人が居ないのかな?と昔から疑問に感じていました。

--Nozawa onsen potta会話2012年3月28日 (水) 08:43 (UTC)[返信]