ノート:千と千尋の神隠し/過去ログ2

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カオナシが千尋に喰わされたのは、銭婆の魔女の契約印では?--125.29.175.74 2010年8月28日 (土) 13:53 (UTC)

場合

あらすじが、ネタバレ状態になってます

あらすじが、ネタバレになっているので、編集させていただきます。——以上の署名の無いコメントは、‎赤井ノート履歴)さんが 2014年11月24日 (月) 14:18 (UTC) に投稿したものです(Kanohara会話)による付記)。

コメント 既に差し戻されている様子ですが、ウィキペディアにおいてネタバレは禁じられておらず、またネタバレを理由とした記述除去は不当な編集とされており、認められていません。詳しくは「Wikipedia:ネタバレ」をご覧下さい。--Kanohara会話2014年11月25日 (火) 13:50 (UTC)

ネタバレ以前に長すぎてあらすじになってない。書いた人は責任持ってやり直すべき。--Fuseoyama会話2015年3月26日 (木) 08:04 (UTC)

返信 (Fuseoyamaさん宛) 書いた人は私ではありませんが……現在のあらすじの総文字数は2670文字です。「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#ストーリー」では、長編映画のあらすじの長さは、1,500字から2,500字の間とされています。これについては現在、スタイルガイドのノートページで異論も出ているところではあるのですが、少なくとも現状の取り決めに照らし合わせれば、極端に長すぎるとは言えません。ウィキペディアにおけるあらすじのあり方については「Wikipedia:あらすじの書き方#基本的な考え方」もご覧下さい。--Kanohara会話2015年3月26日 (木) 12:30 (UTC)
コメント 「概要」などの節がなく、いきなり「あらすじ」から記事が始まるのが長く感じる第一の原因だと思う。全体的に「そこには食欲をそそる匂いが漂っていた」など冗長な記述があることは否めず、小説のような文体にならないよう見直したら良いかと思います。--Infinite0694会話2015年3月29日 (日) 10:40 (UTC)

私も現状のあらすじは、あまりにも長すぎると感じます。1,500から2,500字というガイドラインには強い根拠は無いようですし、読者の読みやすさを向上させるためにも、現在の文量の1/2から1/3程度に削減するのが妥当ではないでしょうか?--Pinejam会話2015年6月26日 (金) 09:31 (UTC)

コメント 意味内容を維持したまま短くできるのなら良いのですが、単に「削減が妥当」と言われても、どのような方向性で短くするのかという提案がないと賛同も反対もできません。
個人的には、現状のあらすじは、映画のストーリーだけではなく物語の舞台や設定の解説を含んでいるために、長めの文章になっているとも感じます。設定のセクションを別に設ければ、あらすじのセクションはディテールの説明を省いてもっと短くできると思いますが、その分設定のセクションが長大になった場合、「文章が長すぎる」という意見に対する解決にはならないかも知れず、かかる労力の割には現状維持と大差ないのではないかとも思っています。あらすじと同時に物語の設定が書かれている現状には、それなりのメリットもあるように感じています。--Kanohara会話2015年6月26日 (金) 11:04 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 詳細な方法はともかくとして、総論としては「短くできるなら良い」と賛同してして頂けたのだと受け取りました。別途、その方法を議論したいと思います。--Pinejam会話2015年6月26日 (金) 16:15 (UTC)

あらすじの改善について

ガイドラインには、あらすじとは映画の中の主要な出来事を概観したものなのであって、台詞やシーンごとの解説、専門的な事柄は避けてくださいとありますが、現在のあらすじはそれに近い形になっていると感じます。 そこで以下の方針であらずじの改善を提案します。

登場人物の整理

あらすじに登場する人物名とその描写は、物語の骨格に関わる人物にのみ絞り込むことを提案します。 具体的には「千尋」「ハク」「湯婆婆」「銭婆」に絞込み、「釜爺」「リン」「オクサレ様」「カオナシ」「坊」「湯バード」「頭」などは物語の骨格とは直接関係しないため省略するべきです。

詳細すぎる描写の除去

エピソードに関する一つ一つの描写や説明が、あまりにも詳細に記述されているために、物語全体の構造が見えづらくなっており、それにより「あらすじ」としての役を果たさなくなっていると感じます。 現状のあらすじを見ると、大きく以下の構成に分かれていると感じました。

  1. 千尋が不思議な世界に迷い込むこと
  2. 千尋が油屋で働き始めること
  3. ハクから本当の名を忘れないように忠告されること
  4. 働き始めた千尋が油屋の従業員から受け入れられること
  5. 死にそうになったハクを助けるために、千尋が銭婆のところへ向うこと
  6. 千尋がハクの本当の名に気づくこと
  7. 千尋が豚の中に両親がいないと言い当ててもとの世界にもどること

この構成には、基本的に私も賛同します。この構成を守りつつ、詳細すぎる説明を除去するべきです。

ためしに、私の方で以下の修正案を考えました。これを叩きにご意見を頂ければ幸いです。

修正案

小学生の千尋は、両親と引越し先に向う途中で、奇妙なトンネルの先に広がる無人の街に迷い込む。そこをテーマパークだと勘違いした両親は、食べ物屋に置いてある料理を無断で食べ始めてしまう。しかし、そこは八百万の神々が住む、人間が来てはいけない世界だった。両親は豚にされてしまい、千尋の体も消えそうになるが、彼女はこの世界に住む謎の少年ハクに助けられる。

ハクは千尋のことを、彼女が小さな頃から知っているという。しかしその理由は、なぜか彼にも分からない。ハクはこの世界にある「油屋」という名の温泉宿で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する、恐ろしい魔女の湯婆婆(ゆばーば)だ。この世界で仕事を持たない者は、湯婆婆によって動物にされてしまうと教えられた千尋は、勇気を出して湯婆婆の元を訪れ、仕事をもらえるように何度も頼み込む。千尋は、名を奪われて「千(せん)」と新たに名付けられ、なんとか油屋での仕事をもらうことができる。ハクは千尋に、本当の名を忘れると元の世界に帰れなくなると忠告する。彼も湯婆婆に名を奪われたが、自分の本当の名を思い出せずにいるという。

豚になった両親を助けたいと願い、油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるために油屋の者たちから疎ましがられてしまう。ついには、強烈な異臭を放つ客の相手まで押し付けられてしまうが、彼女の実直な働きがきっかけで、その客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆から一目置かれる存在になる。

その翌日に千尋は、魔法に操られている紙切れの大群に、白い竜が襲われている姿を見かける。千尋は竜の正体がハクであると直感で気づく。ハクは湯婆婆の言いつけにより、彼女が対立している双子の姉の銭婆(ぜにーば)から、大切な魔女の契約印を盗んでいた。襲われたハクは瀕死の傷を負い、湯婆婆が溺愛している息子の"坊(ぼう)"も銭婆の魔法でネズミに変えられてしまう。

千尋は銭婆の魔法で傷ついたハクを助けてもらうため、ネズミになった坊をともない、契約印を返して謝罪するために銭婆の元を訪れる。銭婆は怒ることなく、穏やかに千尋の謝罪を受け入れる。一方、意識を取り戻したハクは、坊が千尋と一緒に銭婆の所へ行ってしまったことを湯婆婆に伝え、彼女の大切な息子を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束させる。

ハクは白い竜に姿を変えて千尋を迎えに行き、銭婆から許される。千尋はハクの背に乗って空を飛びながら、彼女が幼い頃に落ちた"川"が彼の正体であることに気づく。千尋の話を聞いたハクは、それにより自分の本当の名を思い出す。幼い千尋は溺れそうになるところを、川のハクによって浅瀬に運ばれ、助けられていた。

油屋に帰ったハクは湯婆婆に約束を果たすことを要求し、湯婆婆は油屋の前に集めた豚の中から両親を言い当てれば自由にしてやると千尋に迫る。千尋はその中に両親はいないと言い当てて自由となり、歓声を上げる油屋の者たちに別れを告げて油屋を去る。

途中まで千尋を見送ったハクは、自分も元の世界に戻ると告げ、再会を約束して二人は分かれる。最初に通ってきたトンネルの前には、人間の姿に戻った両親が何ごとも無かったかのような顔をして待っていた。もとの世界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは入ったときとは別な姿に変わっていた。


--Pinejam会話) 2015年6月26日 (金) 17:16 (UTC) 更新しました --Pinejam会話2015年7月19日 (日) 05:51 (UTC)

修正案に対する意見

  • コメント 前回のコメントでも述べましたが、物語の舞台に関する設定の説明をあらすじから除去するのであれば、別のセクションを設けて説明する必要があると考えます。また登場人物の整理についてですが、私は「カオナシ」「坊」は必要だと考えます。確かに本作のクライマックスは複数の出来事が錯綜する内容になっているため、出来事の幾つかを省けば説明をすっきりさせることができるでしょう。ですが「カオナシ」はメディアへの露出も多く、本作を代表するキャラクターの一人だと思いますし、カオナシが起こした騒動および千尋との対決、そして油屋の人々が千尋の機転によって救出される顛末は、物語のクライマックスの大きな出来事だと考えます。また「坊」が「頭」とすり替えられる経緯についても、湯婆婆と千尋の立場の強さが逆転する重要な転換点のはずです。これらのエピソードは「主人公が物語の中で何を成し遂げたのか」を説明したり、物語のラストで千尋がなぜ湯婆婆に認められ、油屋の人々に祝福されるのかという経緯を説明したりする上で、必要なものであると考えます。どうでしょうか? --Kanohara会話2015年6月28日 (日) 08:33 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 現在のあらすじに書かれているような細かな情景描写を、Wikiの記事として記載しなければならない必要性を私は感じません。ただ、新たに項目を設けることには、私は特段反対するつもりはないので、それは他の方の判断にまかせます。しかし、その是非は別としても、あらすじの中に残す理由にはならず、あらすじの修正をためらう必要はありません。あらすじの質を低下させる主要な要因になっているので、あらすじからは除去するべきです。また、あらすじは物語で発生する全ての出来事や、登場するキャラクターを、網羅的に記載するべきものではありません。それらの中から重要なものを選別し、物語の重要な流れを読者が理解しやすい形で表現するべきものです。「カオナシ」「坊」について省略したのは、あらすじに記載する優先度としては「千尋」「ハク」「湯婆婆」「銭婆」よりも劣り、かつ物語の本当に重要な流れからは外れた存在だからです。仮に「カオナシ」「坊」に触れたあらすじを書いたとすると、あらすじとしては読むのが苦痛と感じる程度に文量が膨れてしまい、物語の重要な流れも把握し辛くなります。もしどうしても「カオナシ」「坊」に触れる必要があると考えるのであれば、私の案を修正するか、またはKanoharaさんの全く新しい案でも良いのですが、彼らに触れて、かつ文量を増やさず、物語の主要な骨格もわかるような、あらすじの修正案を示していただけるでしょうか?--Pinejam会話2015年6月28日 (日) 09:19 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) 以前にコメントしたように、私は現在のあらすじを「読むのが苦痛」とは感じていませんし、あらすじの改訂についても「意味内容を維持したまま短くできるのなら」反対はしない、という条件を示したつもりです。もし意味内容を維持できず、不十分なあらすじしか書けないのであれば、文章を増やすか、現状維持しかないのではないでしょうか? Pinejamさんが改訂案を書くために労力を注いだ努力は認めますが、現状の「冗長な」あらすじとPinejamさんの「省きすぎている」修正案のどちらかを二択で選べと問われれば、私は「改定のデメリットはメリットに勝る」と判断せざるを得ず、現状維持に一票を投じます。--Kanohara会話2015年6月28日 (日) 18:41 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 過去のコメントを読む限り、現状のあらすじに問題があると感じているのは、私だけではないようです。千と千尋は国内で最も成功した映画で、注目度も高く、今後もこの記事を参照する人は沢山いるでしょう。もしかすると我々が世を去った後でも、この記事はネットに残り続けるかもしれません。労力を払う価値は十分にあります。時間をかけて議論を深め、合意点を探し、協力してあらすじをより良いものにしませんか?まずは意見の齟齬がどこにあるのかを探りましょう。改めて私の意見を説明すると、現在のあらすじで私が問題だと思うのは、物語で発生したエピソードを、逐一文字に起こしていくというスタイルになっていることです。いわば物語の「枝」や「葉」があまりにも多いため、「幹」が隠れてしまっており、物語の本当に重要な流れが分からなくなっています。これではあらすじの役を果たしているとは言えません。ですので、物語の「幹」の部分を探し出し、「枝」や「葉」は刈り取って、物語の重要な流れを読者に分かりやすい形で新たに表現するべきだと考えています。そして私が「幹」であると考えたのが、修正案の記述内容です。「カオナシ」や「坊」については物語の「枝」にすぎず、さらには「油屋の人々が千尋の機転によって救出される」といった話も物語の「葉」に過ぎないと感じています。なぜなら、その説明がなくとも、物語の全体像を十分に説明できるからです。メディアへの露出、というのもあらすじのあるべき姿とは関係がありません。物語の重要な流れと関係あるかどうかこそが大切だと思います。しかし、もしかすると、実はカオナシや坊にも、物語の「幹」しての役割があるのに、私が気づいていないだけかもしれません。私は彼らを省略したいのではなく、物語の核心をあらすじとして表現したいだけです。だから、もし彼らに「幹」としての役割があるのならば、彼らをあらすじに取り入れるのに賛成します。以上が私の意見なのですが、齟齬についてはどのあたりにあるのでしょうか?そもそもKanoharaさんとはあらすじに対する価値観が違い、あらすじには物語の内容を網羅的かつ詳細に逐一記述するべきだという考えなのでしょうか?それとも「カオナシ」や「坊」が物語の核心に関係していると思っているのに、私がそれを省略しているのが問題だと感じているのでしょうか?はたまた、物語の「幹」の部分は別にあるのに、私が見当違いのものを「幹」だと言っているのが問題だと感じているのでしょうか?まずはそのあたりを教えて頂けませんか。--Pinejam会話2015年6月29日 (月) 11:04 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) この作品の幹は「戦う力もなく、決して勇敢でもない千尋が、不思議な世界に迷い込み、怪物たちの跋扈する世界で何度も恐ろしい目に遭いながら、それを乗り越えて冒険を成し遂げ、最後は家族を取り戻し、皆から祝福されて生還する」という部分かと思います。Pinejamさんの修正案で省略されている「カオナシ」や「坊」は、千尋に立ちはだかる最大の困難や、その乗り越え方という部分を担っており、逆にPinejamさんの修正案で紙幅が割かれている「大切な判子」は、千尋を旅立たせるためのマクガフィンに過ぎないと考えます。さて私もできることなら対案を示したいとは考えており、おおよその方向性は既に示したつもりですが、残念ながら私事(家族が大手術で入院中)で立て込んでおりまして、しばらくは本格的な編集に参加することができそうにありません。Pinejamさんは「現状のあらすじに問題があると感じているのは、私だけではないようです」と仰いますが、既に「ネタバレになっている」という意見に対しては「Wikipedia:ネタバレ」を、「長すぎる」という意見については「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#ストーリー」を示すことで反論しています。示せる対案をすぐに用意できないので、私からの対案に代わって、いま記事に書かれている現状の文面をもって対案とします。残念ながらPinejamさんの修正案よりも、現状のあらすじの方が、「千尋がどのような困難を乗り越えたのか」という説明としては優れていると考えます。--Kanohara会話2015年6月29日 (月) 14:58 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) インデントが下がりすぎると読み辛くなるので、勝手ながらインデントを戻させてもらいました。なるほど。意見の対立部分が少しわかってきました。物語の「幹」の捕らえ方に意見の齟齬があるようですね。私の案では「千尋とハクの関係」に焦点をあてています。それに対し、Kanoharaさんは「困難を乗り越える」ことにこそ「幹」があると感じていることが分かりました。ただ、いずれにせよ、現在のあらすじでは、あまりに「枝」「葉」が多すぎるので「困難を乗り越える」ということがこの物語の重要な「幹」であるということも、読み手には全く伝わらないですよね。やはり修正の必要は高いと思います。さて、まだKanoharaさんの意見を正しく理解できていないので、もっと詳しく理解したいと思います。「困難を乗り越える」は、とりあえず一旦置いて、私の書いた案の中で「幹」に相応しくないと感じられる描写、つまり「あらすじからは省くべき」と感じられる描写はあるでしょうか?意図としては、私とあなたの「幹」の捕らえ方がどの程度乖離しているのかを知りたく思います。私が重要だと思っていた部分の中に、私以外の人から見たら重要だとは思われないような部分がどの程度あるのかを正しく理解したいからです。「判子」についてはご指摘を頂きましたが、あの説明を省いてしまうと、ハクがなぜ銭婆の魔法に襲われているのか、千尋が何のために銭婆の所へ行ったのかの説明がつかなくなると思います。そして、それらはあらすじで説明しなければならない重要性があると思っています。判子の記述を省くのが本当に良いのでしょうか?または省くとしたらどのように省くべきでしょうか?修正を急ぐつもりはなく、ある程度長期の期間をかけて議論をするつもりです。ただ、この議論に参加するつもりであれば、ご家庭の事情もあるようですが、少なくとも数日置きには返信をお願いします。--Pinejam会話2015年6月29日 (月) 15:54 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 合意形成に参加できないようであれば、私の方で修正を進めさせてもらおうかと思います。--Pinejam会話2015年7月4日 (土) 16:51 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) ノートページの慣習上、インデントがあった方が、誰のどの意見に対する返信なのかが分かりやすいかと思うのですが……。それはともかくあらすじに関してですが、ハクの描写に関しては色々と省けるように思います。とりあえず修正案の再修正案を、「#修正案の再修正案」として次のセクションに投稿します。--Kanohara会話2015年7月5日 (日) 15:40 (UTC)
返信 (Infinite0694さん宛) 抽象的なご意見なので、なんと返せばよいのか分かりませんが、複雑な話から重要な要素を取捨選択することなく、文量も気にせずに、複雑に書くのが良いというお話であるならば、それはあらすじではなく、映画の文字起こしに近くなってしまうと感じます。もし具体的な案をお持ちならば、それを示して頂ければ、より良い返信が返せると思います。--Pinejam会話2015年6月28日 (日) 10:37 (UTC)

修正案の再修正案

とりあえず埒が明かないので、Pinejamさんの修正案を叩き台に、頂いた意見も参考にしながら、現在の記事の内容も参照しつつ再修正案を書いてみます。

[1]小学生の千尋は、両親と共に引越し先へと向う途中、森の中の奇妙なトンネルの先に広がる無人の街に迷い込む。しかし、そこは怪物のような姿の八百万の神々が跋扈する、人間が来てはいけない世界だった。食べ物屋で無断で食事をした千尋の両親は豚にされてしまい、彼女自身も消えそうになるが、千尋はこの世界に住む少年ハクに助けられる。

[2]実は、ハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋はそのことを思い出すことができない。ハクは八百万の神々が客として集う「油屋」という名の温泉宿で働いているが、相手の名を奪って支配する魔法を用いる油屋の主、湯婆婆により、彼もまた自分の名を思い出せずにいた。この世界で仕事を持たない者は動物にされてしまうとハクから教えられた千尋は、湯婆婆の元を訪れて仕事をもらえるよう頼み込む。湯婆婆に名を奪われた千尋は「千」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは千尋に、元の世界に戻るためには本当の名を忘れないよう忠告する。

[3]豚にされた両親を助けるため、油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるために油屋の者たちから疎ましがられ、強烈な異臭を放つ客の相手まで押し付けられてしまう。しかし彼女の実直な働きがきっかけで、その客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆から一目置かれる存在になる。千尋はその客から不思議な泥団子を受け取る。

[4]一方、千尋は油屋の外で雨に打たれていた男、カオナシに対して親切に接したことがきっかけで、カオナシからつきまといを受けることになる。カオナシは偽金を使って油屋で騒動を起こし、従業員たちを次々と丸呑みする。時を同じくして、湯婆婆と対立する双子の姉である銭婆が、盗まれた魔法のハンコを取り返すために襲来してくる。ハクが銭婆との戦いで重傷を負い、湯婆婆の息子である坊が偽者とすり替えられる一部始終を、千尋は目撃するが、湯婆婆はカオナシが起こした騒動に忙殺されていてその状況に気がつかない。苦境に立たされる千尋だが、貰った泥団子を使ってハクから盗まれた品物を吐き出させ、更に機転によりカオナシが飲み込んだ従業員たちも同様の方法で救出する。

[5]千尋は怪我から回復する様子のないハクを助けるため、懇意の従業員から電車の切符を譲り受け、銭婆の元へと旅立つ。改心したカオナシや、姿を変えられた坊たちを伴って、盗まれた品物を返却し謝罪するために返しに来た千尋を、銭婆は穏やかに受け入れる。その頃、意識を取り戻したハクは、湯婆婆の息子が偽者とすり替えられていることやその行方を伝え、息子を連れ戻してくることを条件に千尋と両親を解放するように要求する。銭婆から許されたハクと千尋は油屋へ帰るが、その途中で千尋がハクに助けられた川の名前を思い出したことで、ハクは自分の名前を取り戻す。

[6]油屋に帰った千尋を出迎えた湯婆婆は、千尋に助けられた従業員たちやハクから千尋の解放を迫られ、油屋の前に集めた豚の中から両親を言い当てれば千尋を自由にしてやると言う。千尋は正解を言い当てて自由となり、油屋の者たちに祝福されながら油屋を去る。

[7]ハク途中まで千尋を見送り、自分も湯婆婆に暇を告げて元の世界に戻るつもりであることを伝え、再会を約束して分かれる。人間に戻った両親は最初に通ってきたトンネルの前で、何ごとも無かったかのような様子で待っていた。千尋とその両親が元の世界に帰ってきたところで物語は終わる。

クライマックスの部分の描写が増えていますが、ハクと千尋のやり取りの描写などは一部削っています。--Kanohara会話2015年7月5日 (日) 15:40 (UTC)

返信 (Kanoharaさん宛) 議論をしやすくするため、各段落に番号を振らせてもらいました。議論の進め方なのですが、各段落ごとに意見交換をして合意を取っていきましょう。[1]については問題ないと思います。"そこは怪物のような姿の八百万の神々が跋扈する"という一文が加わって、説明が理解しやすくなったと感じます。[2]についてはいくつか意見があります。その1つめなのですが、この映画の最も重要な流れとして(映画冒頭)「ハクはなぜか千尋を知っている。だが理由はわからない」→(クライマックス)「ハクの正体は小さいころに千尋が溺れた川の神だった!」という物語の構造があると思います。あらすじではこの構造を読者に分かりやすく印象付ける必要がありますが、Kanoharaさんの案ではハクが川の神であることを最初に明かすので、そこが上手く読者に伝わらない印象を受けました。また「千尋はそのことを思い出すことができない」という表現にも不自然さを感じました。なぜなら千尋はそもそも、ハクが"川の神"だなんて知っていないからです。「思い出した」のではなく、何か不思議な力によって「気づいた」のではないでしょうか。また、このシーンの映画の描写は「千尋がハクを思い出せない」という描写はされておらず「ハクが千尋をなぜ知っているのか、彼自身にもわからない」という描写がされているので、その点においても正確な表現になっていないと感じます。Kanoharaさんの意見を再度修正してみました。
[2]ハクはこの世界にある「油屋」という名の温泉宿で働いていた。油屋の主人は魔法で相手の名を奪って支配する恐ろしい魔女の湯婆婆だ。この世界で仕事を持たない者は動物にされてしまうとハクから教えられた千尋は、勇気を出して湯婆婆の元を訪れ、仕事をもらえるように何度も頼み込む。ようやく仕事をもらえた千尋は、名を奪われた後に「千」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。

ハクは千尋に、元の世界に戻るためには本当の名を忘れないよう忠告する。ハクも湯婆婆に名を奪われたが、自分の本当の名を思い出せずにいた。しかし不思議なことに、ハクは千尋のことを、彼女が小さな頃から知っているのだという。だが、なぜハクが千尋のことを知っているのかは、彼自身にも理由が分からないようだった。

他に、"八百万の神々が客として集う"という文は[1]と重複するので"この世界にある"と改めてみました。また、千尋が働くことになる描写と、名前を忘れないように忠告する描写は、読者の混乱を避けるために別な文に分割しました。"相手の名を奪って支配する"という表現は、この映画を知らない読者には意味が分からないかもしれないと気づいたので"魔法で"という説明を補足しました。あと千尋の人格や努力、その場の雰囲気が読者に伝わるように「恐ろしい」「勇気を出して」「何度も」を追加しました。[2]はこれでいかがでしょうか?--Pinejam会話2015年7月6日 (月) 12:48 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) うーん、ガイドライン「Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方」に「もとの物語では後で説明されている物語上の設定を、あらすじでは先に説明してもかまいません」とあります。私はハクが川の神であることを最初に説明するのは問題ないし、その方が物語の構造が分かりやすくなって、あらすじを簡潔にまとめられると考えました。Pinejamさんが執筆したあらすじでは、ハクが謎めいた人物であることを冗長なまでに強調しているように感じられ、その点を自覚的に書いているということは分かりましたが、この映画では、ハクの正体について謎解きや推理がある訳ではなく、最後にぽっと明かされる情報でしかないので、そこはPinejamさんが言うほど重要でないと考えています。伏せられている情報であることが伝わりにくいというのであれば「この段階ではまだ映画の観客に対しては明かされないものの……」などといった文章を追加する手もあります。--Kanohara会話2015年7月6日 (月) 16:09 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) ガイドラインの記述については最初から承知しており、私もその手法を用いています。たとえば、湯婆婆が「名を奪う魔女」だということは、映画では千尋が名を奪われた「後」に説明されていますが、私はそれを「前」に持ってきました。その方が、千尋が名を奪われたことが何を意味するのかが、読者に理解しやすくなるからです。しかし、ハクが川の神であることをあらすじの先頭付近に持ってくることに、そのような効果があるのでしょうか?わざわざそうしたからには、その後のあらすじでそれが生かされるような記述があるに違いないと期待しながらKanoharaさんの案を読んだのですが、特に生かされている様子は無いように見えます。Kanoharaさんの意見を正確に理解したいので質問するのですが、Kanoharaさんが「その方が物語の構造が分かりやすくなる」と主張するのは、いったい、何が、なぜ、どのように理解しやすくなるのか、具体的に説明をお願いできないでしょうか。--Pinejam会話2015年7月7日 (火) 12:58 (UTC)
    • 返信 (Pinejamさん宛) Pinejamさんが執筆したあらすじでは「その途中で千尋は、彼女が幼い頃に落ちた川こそがハクの正体であることに気づく。幼い千尋は溺れそうになるところを川のハクによって助けられていたのだ。それによりハクは自分の本当の名を思い出す」という回りくどい表現になっている部分を、私のあらすじでは「その途中で千尋がハクに助けられた川の名前を思い出したことで、ハクは自分の名前を取り戻す」と簡潔にすることができました。また最初にハクの正体を明かすことで、「しかし不思議なことに」「なぜか」「理由が分からない」などといった読者の注意力を散漫にするような言い回しを回避することができるなら(逆に、最初に明かさないためにそのような回りくどい言い回しが必要になるのなら)、最初に明かした方がよいと思います。どうでしょうか? --Kanohara会話2015年7月7日 (火) 14:10 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 「簡潔にできた」というのは「説明を先に持ってきた理由」にはなっていないのではないでしょうか。それを目的にするならば、あらすじの後ろで短く書いてもよいはずだからです。また、私の案を「強調している」とKanoharaさんが感じてくれたように、他の読者も「ここは強調されている」と気づいてくれるはずです。ですので「読者の注意力が散漫になる」という指摘もあたらず、むしろこの点をしっかりと認識してくれるはずです(後述しますが、私は認識させたいと考えています)私がKanoharaさんの案に反対する理由を改めて整理すると以下の通りです。
反対する理由
  1. 映画の構造を崩してまで説明を前に持ってくるメリットが、やはり無い
  2. 千尋が「ハクが川の神だと思い出せない」という表現は、そもそも映画の描写とは異なっている
  3. 説明が冗長になる
  4. あらすじで強調するべき箇所を、強調していない
1については、Kanoharaさんの説明を見ても、やはり理由は薄そうです。2については前回説明したとおりです。3については、ハクの正体が川であることが、あらすじの中で2回登場することになるので、この重複が私には冗長に感じられます。1箇所で良いのではないでしょうか?また前回のコメントで「この段階ではまだ映画の観客に対しては明かされないものの……」などといった文章を追加する手もあります。と頂きましたが、ハクが千尋を知っている理由が謎であることをあらすじの中で明記すれば、この文章は全く不要です。不要な文章を追加するのは冗長です。最大の意見の相違は4だと思うのですが、私はこの説明はあらすじのなかでも特に強調するべき箇所だという認識です。前回のコメントで最後にぽっと明かされる情報でしかないと頂きましたが、これはKanoharaさんの認識違いだと思います。なぜなら、映画の中では4箇所にもわたり「ハクが千尋を知っていたことに対する不思議さ」に関する描写が登場するからです。
ハクの正体の不思議さに関係する箇所
  1. 「どうして私の名を知ってるの?」「そなたの小さい時から知っている」(映画冒頭)
  2. 「でも不思議だね。千尋の名は覚えていた」(豚小屋のシーン)
  3. 「ハクと私、ずっと前に会ったことがあるみたいなんです」(銭婆の家のシーン)
  4. 「ハク聞いて。お母さんから聞いたんで、自分では覚えていなかったんだけど」(ハクと千尋が空中を飛ぶシーン)
これほど強調されているので、最後にぽっと明かされる情報でしかないという評価は軽すぎます。そもそもハクはこの映画で千尋に次ぐ最重要キャラクターです。なぜなら映画の中での千尋の主要な行動は、全てハクによって動機付けされているからです。千尋が油屋で働くのも、油屋の仕事を一生懸命やるのも、カオナシを放置して先を急ぐのも、銭婆のところへ行くのも、最後に千尋が自由を取り戻すのも、これら全てにハクの影響があります。この映画の中で特に重要であるハクと千尋の関係が、不思議なことに彼女が知らない幼い頃から存在していたというのは、極めて重要な情報であり、映画の中でもしっかりと強調されています。映画の観客も、当然二人の不思議な関係を気にしながら映画を見ます。ですので、あらすじの中でこの「不思議さ」をしっかりと強調する必要があると感じます。反対する理由の1については既に説明を頂きましたが、2から4についてKanoharaさんの意見と説明を頂けるでしょうか。--Pinejam会話2015年7月7日 (火) 16:25 (UTC)
  • 返信 登場人物の行動原理として重要なればこそ、勿体ぶらず、整理された情報を最初から簡潔に説明するのがよいと考えます。重要な情報を強調する手段は、なにも文章量を費やして説明する方法以外にもあり、重要であることを簡潔に説明できるのならそれに越したことはありません。「冗長である」との指摘ですが、Pinejamさんの文案よりは簡潔だと自負しております。なお「ハクの正体が川であることが、あらすじの中で2回登場することになる」との指摘ですが、私の文案の場合、後の方は省略しても意味は通じます。--Kanohara会話2015年7月7日 (火) 23:28 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 1つ1つ、ゆっくりと合意していきましょう。まず「千尋とハクの不思議な関係」が、あらすじのなかで強調するべき重要な情報であるという点について、これで合意ができたと受け取らせて頂いて良いでしょうか?--Pinejam会話2015年7月8日 (水) 08:48 (UTC)
    • 返信 (Pinejamさん宛) いや、少しずれていると思います。まず千尋にとってハクが物語開始以前の出来事を含めて何度も危機を救ってくれた恩人で、父と母の次くらいには大事な存在で、物語中盤からクライマックスにかけての千尋を駆り立てる動機になっているのは確かにそうです。同時に、ハクにとって千尋が、奪われている自らの名前と自由を取り戻すための手がかりであるのも確かです。そこまでは合意できます。ですが、それらはきっかけに過ぎないかと。ハクの正体の謎については、千尋は単に目の前にいるハクの存在と川で溺れた出来事を結びつけることができず、またハクも千尋とどこで会ったのかを忘れていただけであって、(登場人物自身にとってはともかく、観客にとっては)「不思議」でも何でもなく、喉に刺さった小骨のように引っかかっていた記憶が最終的に腑に落ちたという以上に発展していません。そこにセンス・オブ・ワンダーの要素は介在していないでしょう。「なぜ」の部分が謎解きとして発展したり、疑念が千尋のハクへの信頼を揺らがせたりといった出来事が描かれない以上、「不思議」とか「なぜハクが千尋のことを知っているのかは、彼自身にも理由が分からないようだった」とかいった表現は大言壮語に感じられます。ここは動機や目的となる出来事があり、最終的にはそれが果たされた、という情報だけで十分でしょう。……いや、私だって仮にこの議題が「現在のあらすじをどのように膨らませるか」という内容であったなら、そんなに目くじらは立てないのですけれど、Pinejamさんは現在のあらすじは冗長であるとして、重要な内容だけを選別して大幅な整理を断行しようとしているのですから、劇中で大した争点となっているとは思えない内容に耽溺するのは如何なものかと思います。そこを強調するくらいなら他にもって書くことがあるのではないか、というのが正直な感想です。--Kanohara会話2015年7月8日 (水) 16:27 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 焦らず、お互いの意見の齟齬がどのあたりあるのかを見つけ出して、そこに向けて少しずつ歩み寄りましょう。これまでの議論を見るに、Kanoharaさんの問題意識は「文章の長さ」「表現の強さ」の2点に集約されているように見受けられます。とりあえず「具体的にどのような文章を用いて表現するか」または「どの程度強調して表現するか」は一旦脇に置いておいて、純粋に以下のことについてだけならばKanoharaさんも合意してくれるのではないでしょうか?
  1. ハクが千尋を小さな頃から知っていることを、あらすじに含めること
  2. その理由はハクにもわからないことを、あらすじに含めること
  3. ハクの正体が川であることを、あらすじに含めること
  4. 川に落ちた千尋をハクが助けていたことを、あらすじに含めること
  5. 前の2つはあらすじの[2]に配置し、後の2つは銭婆からの帰路のシーンに配置すること
「どのような文章を用いるか」という観点ではなく、「あらすじに含める情報」と「情報を配置する場所」という観点では、これらの中にKanoharaさんが合意できないことはありますか?--Pinejam会話2015年7月9日 (木) 12:42 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) 今のところ、2,5については合意点を見いだせません。何度も言いますが、「なぜか知っているけれど、なぜかは分からない」という理由に「思い出せない」「忘れている」という以上の理由や謎や不思議さが必要なのでしょうか? 1,3,4の情報は、私の修正案にも含まれていますが、結局のところは書き方次第かと思います。「千と千尋の神隠し」という表題の意味を説明するには、千尋が名前を奪われて千となった経緯にも言及しなければならないし、そうすると本来の名前を失っているハクについても言及しなければならないので、言及として残しましたが、仮に「これでも長すぎる、もっと短くしたい」という意見が出された場合、こうしたディティールを削ることは可能かと思います。

主人公の千尋は、両親と共に無人の街に迷い込む。しかし、そこは怪物のような姿をした神々が跋扈する異界だった。千尋の両親は豚にされてしまい、千尋は湯婆婆という魔女の元に身を寄せ、神々が客として集う「油屋」という名の温泉宿で働くことになる。千尋は人間であるために油屋の者たちから疎ましがられるが、実直な働きによって一目置かれる存在となっていく。

一方、千尋は油屋の外で雨に打たれていた男、カオナシに対して親切に接したことがきっかけで、カオナシからつきまとわれ、彼が起こした騒動に巻き込まれてしまう。一方、湯婆婆は双子の姉である銭婆と以前から敵対しており、油屋はカオナシの騒動と時と同じくして襲来を受けてしまう。千尋は湯婆婆の息子が偽者とすり替えられる一部始終を目撃するが、湯婆婆はカオナシの騒動に忙殺されていて気がつかない。

千尋は機転でカオナシから従業員たちを救出し、更に銭婆の襲撃で負傷した懇意の従業員・ハクを助けるため、改心したカオナシや、姿を変えられた湯婆婆の息子たちを伴って銭婆の元へと旅立つ。銭婆は自分を訪ねてきた千尋を受け入れ、和解する。

油屋に帰った千尋を出迎えた湯婆婆は、千尋によってカオナシから助けられた従業員たちやハクから千尋の解放を迫られ、自由にする条件として謎かけを出題する。千尋は正解を言い当て、従業員たちに祝福されながら油屋を去る。千尋とその両親が元の世界に帰ってきたところで物語は終わる。

これは少々無理矢理な例ですが、その気になればハクに関するサブストーリーをほとんど省略しても、物語の枠組みを説明することは可能だと考えます。「千尋とハクの物語という方向性であらすじをまとめたい」というのは、単にPinejamさんが書きやすい執筆スタイルがそうであるというだけなのではないでしょうか? --Kanohara会話2015年7月9日 (木) 14:18 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) どうすればより良いあらすじになるのか、一緒に協力して考えていきましょう。そのためには、お互いの意見をしっかりと理解しあうことが必要です。Kanoharaさんの意見でまだ理解できていない部分があるので、正確に理解するために質問させてください。千尋がハクの正体を「思い出せない」「忘れている」という表現はそもそも映画の表現とは乖離しています。千尋はハクの正体が川だということを「思い出せない」わけでも「忘れている」わけでもありません。人間の千尋がそんなことを知っているはずなんて、そもそもありえないからです。千尋がハクの正体に気づいたのは、説明の付かない何らかの理由(奇跡、魔法、etc)によって「気づいた」と思うほかありません。このことは以前にも指摘しました。それにもかかわらず、Kanoharaさんが「思い出せない」「忘れている」という以上の・・・という表現を使い続ける理由が、私にはわかりません。わかるように説明していただけるでしょうか?--Pinejam会話2015年7月9日 (木) 15:21 (UTC)
  • 返信 (Pinejamさん宛) 千尋がハクの正体に思い当たる場面の描写を見る限り、千尋は龍になったハクの背中に乗って揺られていることで、その乗り心地からハクが川に関連した存在であることに思い至り、幼い頃に溺れた川の名前を「思い出した」、あるいはよく覚えていないものの両親から聞かされていたコハク川で溺れたときの記憶を「思い出した」、というように読み取れます。私には奇跡とか魔法とか要素の介在は読み取れませんし、少なくとも千尋は「今思い出したの。その川の名は、その川はね、コハク川」と言っているし、ハクも千尋の話を聞いて「私も思い出した、千尋が私の中に落ちた時のこと」と言っているのですから、「千尋がハクに助けられた川の名前を思い出した」という表現が的外れということはないでしょう。それでも[2]の「思い出せない」という表現が的を射ていないというのであれば「思い当たらない」などの表現に置き換えればよいと思いますし、私としては大した違いではないと考えます。--Kanohara会話2015年7月9日 (木) 22:02 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 「川を思い出すこと」と「ハクが川の神であると思い出すこと」はまったく別です。明確に区別してください。ゆえにハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋はそのことを思い出すことができない。という文章は完全に誤った表現です。たとえ「思い当たる」という言葉に表現を変えたとしても同じことです。人間である千尋が、ハクが川の神だと「思い当たる」はずがありません。
Kanoharaさんは、あらすじの読者がKanoharaさんの文章を読んだときに、どのような感想を持つかを想像しながらあらすじを書いたのでしょうか?この映画を知らない人が、あらすじの冒頭に何の脈絡もなく突然登場する川の神なのだが、千尋はそのことを思い出すことができない。という文章を読んだとしたら、一体どう思いますか?人間が川の神を知らないのは言われるまでも無く当然な話なのに、まるで知っていても不思議ではないかのような書き方です。これでは読者は、この文章の意味を図りかねて混乱します。その後の文章に何か関連する記述があるのだろうかと読み進めても、そのような文章すらありません。あらすじの前方に他の文章からは孤立して存在しているだけの、何の脈絡もない意味不明な文章です。Kanoharaさんは勿体ぶらず、整理された情報を最初から簡潔に説明するのがよいと自己評価しているようですが、整理されているどころか、根本的に誤りである上に、「ハクが千尋を小さな頃から知っている」という情報も読者には上手く伝わらず、さらには読者に不要な混乱まで与えてしまう文章だと言わざるをえません。
その一方で、私は千尋とハクの関係の重要さについて具体的にKanoharaさんに説明してきました。繰り返しますが、ハクは映画の中で千尋に次ぐ最重要人物であり、その人物と千尋が、彼女が幼い頃から不思議な繋がりをもっていたという情報はあらすじに必ず含めるべき重要な要素です。ましてや映画の中では冒頭から結末に至るまで数度に渡ってこの関係の不思議さが強調されており、映画の製作者が観客に対してこの不思議さを伝えようとしているのは明らかです。だから、あらすじに含める要素としての重要性は決して低くありません。ましてや、あらすじから積極的に削除するべき要素では全くありません。それなのに、なぜかKanoharaさんは、なんら説得力のある説明を伴うことなく、この要素をあらすじの中から「積極的に削除」しようとしています。映画の中のこの不思議さに対する位置づけが、推理ドラマの核心的なトリックのような位置づけにはなっていないという指摘(そのような意味の指摘だと理解しています)はその通りなのですが、それは「どの程度強調してあらすじに含めるべきか」という議論にはなりえても、「この不思議さの存在を積極的にあらすじから削除するべきだ」という根拠には全くなっていません。
「不思議」とか「なぜハクが千尋のことを知っているのかは、彼自身にも理由が分からないようだった」とかいった表現は大言壮語に感じられますという指摘も、まったくあたりません。作中でも「不思議だね」とういう表現が使われており、ハクが千尋を知っている理由が彼自身にも分からないというのもその通りです。どこにも映画の枠を超えた大言壮語は存在していません。その一方でKanoharaさんは映画の表現を明らかに超えている実は、ハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋はそのことを思い出すことができない。という文章をあらすじに含めようとしています。映画の枠を超えた表現を使おうとしているkanoharaさんが、映画の表現をそのまま使っている私に対し「大言壮語だ」と指摘するのは、私にはまるで意味が分かりません。
これでもなお、「ハクが千尋を知っている理由がわからない」という情報をあらすじから積極的に削除するべきだと主張するならば、それを私に納得させるに足るだけの根拠のある説明をして下さい。または、不毛な反論をすることなく素直に折れて下さい。そもそも本当にこれは「絶対にあらすじには入れない」と頑なに拒否しつづけなければならないようなことなのですか?表現の強さが問題ならば、表現をもう少し弱めるといった妥協案があるはずです。
また、私は建設的で意義のある意見交換をこれからも続けたいと考えています。そのためにKanoharaさんにいくつか願いがあります。まず私が以前2から4についてKanoharaさんの意見と説明を頂けるでしょうか。と説明を求めたのに対し、Kanoharaさんはそれぞれに対して明確な説明をしませんでした。これでは誠実な回答とはいえません。相手の質問に対しては正面から誠意をもって回答していただけるでしょうか。ほかにもKanoharaさんが登場人物の行動原理として重要なればこそ、勿体ぶらず、整理された情報を最初から簡潔に説明するのがよいと考えます。重要な情報を強調する手段は・・・という表現を使っているのにも関わらず、私が「つまり重要だと合意できたのですか?」と質問するとKanoharaさんはNOだと回答しています。自分の意見を正確に相手に伝えて説得しようとする努力をすることなしに、自分でも思ってもいない言葉を使いながらその場しのぎの回答をするのは止めてください。最も問題だと思うのはKanoharaさんが私の意見を正確に理解しようとする努力を見せないことです。私がKanoharaさんに何度も説明を求めているのは、Kanoharaさんの意見を正確に理解して、二人の意見が乖離している場所をみつけて合意に近づくためです。Kanoharaさんもそのような努力をして、かつ積極的に私を説得する努力を見せてください。意義のある意見交換をしていきましょう。では回答よろしくお願いします。--Pinejam会話2015年7月10日 (金) 10:10 (UTC)
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 返信 (Pinejamさん宛) まずこの議論は、Pinejamさんが引用した「あらすじとは映画の中の主要な出来事を概観したものなのであって」という提示から始まっています。「エピソードに関する一つ一つの描写や説明が、あまりにも詳細に記述されているために、物語全体の構造が見えづらくなって」いるというのがPinejamさんの主張です。その上でPinejamさんは、私に対して、「私の書いた案の中で「幹」に相応しくないと感じられる描写、つまり「あらすじからは省くべき」と感じられる描写はあるでしょうか?」と質問されました。その質問に対する私の意見は、Pinejamさんが強調したがっているハクと千尋の関係のミステリアスさは、「幹」に相応しくないと意見しましたが、Pinejamさんは納得されていないというのが現状だと把握しています。
Pinejamさんは先の発言で「映画の中では冒頭から結末に至るまで数度に渡ってこの関係の不思議さが強調されており、映画の製作者が観客に対してこの不思議さを伝えようとしているのは明らか」と主張していますが、Pinejamさんが誰の目にも自明だと考えている「不思議さ」は、私にはまったく読み取れないのです。ハクの言う「私は(自分の本当の名前を)どうしても思い出せないんだ。でも不思議だね。千尋のことは覚えていた」という台詞についても、「昨晩一夜漬けで覚えた試験の正解は思い出せないのに、一昨日の晩ご飯の内容は不思議と覚えている」という程度の「不思議」さに過ぎないと思います。この台詞を神秘性の根拠として膨らますのは大言壮語に思えます。いや、別に意固地になってそう言っているのではなく、決して「確かにそのように示唆されているが明言されていないので検証不可能だ」というレベルですらなくて、本当に私とPinejamさんが見た映画は同じ映画なのだろうか? と疑問を感じてしまう程度には乖離を感じていて、映画を何度見返してみても、やっぱり私にはPinejamさんの言う「不思議さ」は露ほども感じ取れないのです。「となりのトトロ#都市伝説」で紹介されている風説と、本作におけるPinejamさんの解釈を比較して、どちらが納得できるかと言われればトトロの都市伝説の方に軍配をあげるという程度には。なるほどPinejamさんの主観では、ハクと千尋のやり取りの一つ一つが不思議でミステリアスな会話に感じられたらしいことは、これまでの説明で十分に理解できましたが、Pinejamさんの主張は大前提の部分を個人的な体験に依存しているので、いくら「どう考えても重要だ!」と説明されても、私には理解も納得もできないのです。納得できない以上は同意も黙認もできません。
Wikipedia:あらすじの書き方#脚注」には、以下のような一文があります。「このような細部まで書かれた(しばしば非常に長い)あらすじは、多くの場合執筆者が自分の作品体験をそのまま再現しようとすることによって書かれます。しかし「基本的な考え方」にも示したように、あらすじで必要なのは作品の魅力を伝えることではなく、作品の説明を行うことなのです。ウィキペディアの記事は作品の代替物ではないのだということを忘れないようにしてください」……Pinejamさんの言う「不思議さ」は、Pinejamさんにとってのストーリーの魅力、すなわちガイドラインの表現を借りれば「執筆者の作品体験」を再現するためには重要な要素なのかも知れませんが、本作のプロット、すなわち物語の構造や因果関係といったものを説明する上では不要であり、ウィキペディアのあらすじに求められているのは後者だと考えます。なぜ頑なに「不思議さ」の要素を否定するのかとPinejamさんは問われますが、そもそもその不思議さを私は感じ取れないし、そのような感覚的なものはウィキペディアの「整理されたあらすじ」に求められていないのに、その曖昧な「不思議さ」についての紙幅を割きすぎていて、大胆に省略された他の出来事とのバランスが悪く感じる、というのが私の、Pinejamさんの文案に対する意見です。百歩譲って「登場人物当人にとっては不思議な体験であり、重要なことだと思っているに違いない」としても、その不思議な体験はマクガフィンであって、その神秘性は物語のプロットを説明する上では重要な要素ではないと考えます。それよりは「千尋はハクの奪われた名前を知っており、ハクにとって千尋は元の世界に戻るための手がかりである」「千尋にとってハクは過去にも命を救われた恩人で、信頼できる相手である」という物語の構図を説明する方が重要でしょう。
以前1~4の形式で頂いた質問については、十分答えたつもりですが、納得していないようですので整理します。
  1. 説明を前に持ってくるメリット ……確かに物語の前後関係(ストーリー)を説明する上では、スクリーン上に映し出される出来事の順序は重要になるかも知れません。ですが物語の因果関係(プロット)を説明する上では必ずしもそうではありません。ハクが千尋を助けたのは物語の開始以前であり、ハクと千尋の因果はその時点から始まっています。因果があって結果となる出来事があるのですから、そのように続けて説明したほうが、情報を小出しにして飛び飛びに説明するよりも、はるかに分かりやすいでしょう。Pinejamさんは物語体験の再現をメリットとして挙げているように見受けられますが、ウィキペディアのあらすじが物語体験を再現するものではない以上、物語の因果関係を分かりにくくしてまで、ストーリー上の前後関係を読者に追体験させようとするメリットはないと考えます。
  2. 千尋が「ハクが川の神だと思い出せない」という表現 ……ここは本来「ハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋は溺れた時のことに思い至ることができない」とでも書くべきで、まあ私の文章力がまずいせいで「そのこと」が「川の神」にかかっているように読めてしまうのは手落ちです。ですが、そこは小手先の手直しで済むはずです。千尋はハクの名前を告げる場面で「自分では覚えていなかったんだけど」「今思い出したの。その川の名は……」という表現を用いているのですし、「最初は思い出せずにいたけれど、最終的には思い出した」という構図が伝われば、ニュアンスの微妙な違いは大した問題ではないと考えます。
  3. 説明が冗長になる ……Pinejamさんは物語体験の再現を重視しているように思えたので、妥協案として「この段階では……」といった説明を追加することを想定しましたが、そもそも物語の構図を説明するためのあらすじにとっては蛇足な情報であり、私としても気が乗らなかったので、ぞんざいな形での提案になったのは申し訳なく思います。代わる私の提案ですが、Pinejamさんが「この映画の最も重要な流れ」としている物語体験については、ウィキペディアでは重視されていないようなので、冗長になるくらいならすっぱり諦めてはどうかというものです。Pinejamさんの方向性でそれ以上に短くすることが困難なら、こうしたプロットに補足的な説明は水と油なのだと諦めて、割り切るのも手です。
  4. あらすじで強調するべき箇所 ……私としてはPinejamさんの言う、ハクの正体の謎とそれを思い出す過程、そしてクライマックスで明かされる真相という「重要な流れ」というのは、登場人物同士の間でのみ重要で、観客とは重要性を分かち合えないマクガフィンであるという見解です。マクガフィンなのですから、ハクは千尋の命の恩人で、千尋はハクが本当の自分を取り戻すための手がかりであり、その記憶の欠落を埋めることが、千尋とハクを主要登場人物として駆動させるための動機として用いられていることは確かですし、「動機として常に忘れず気にかけている」サインを示す描写があるのもその通りでしょう。ですが、結局その「不思議な」サイン、すなわちハクの正体に思い当たる過程それ自体は、物語のプロットには深く絡んでくることはなく、物語の構造としては、物語の冒頭で提示された動機が、物語の最後で無事に解決したというだけのことでしかないと考えます。あらすじで強調すべき重要な点は、千尋とハクの因果であって、「思い出せそうで思い出せない不思議さ」ではないと考えます。
どうでしょうか?--Kanohara会話2015年7月10日 (金) 16:52 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 私が「映画内での表現」を具体的な根拠としているのに対して、Kanoharaさんは「自分にはそう思えない」という「個人の主観」を根拠にしています。つまり「自分にはそう感じられない」と「体験」したことを「そのまま再現しようとしている」のは私ではなくKanoharaさんです。私が求めている説明はKanoharaさんの主観ではなく具体的な根拠です。私の主張を否定するならば、私の根拠を否定するだけの具体的な根拠を示してください。以下に回答を続けます。

1.説明を前に持ってくるメリット、について

人間の千尋がハクが川の神だと知っているはずがないというのは、説明されるまでも無く当然なことなので、その当然のことを何の脈絡もなく唐突に読者に読ませたら、読者はその意図を測りかねて混乱してしまいます。つまり、分かりやすくなるどころか読者に不要な混乱を与えます。ここは本来「ハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋は溺れた時のことに思い至ることができない」とでも書くべきでとのことですが、その文章でも全く何もかわりません。なぜ千尋がハクの正体を「自分が溺れた川」と関連付けられることを前提とするかのような文章にするのですか?さらにはこの表現では「ハクが千尋を知っている」という情報も読者にうまく伝わりづらく、そのような回りくどい表現をあえて使わねばならない理由はありません。
それと同時に、あらすじには「物語の結末」をしっかりと書く必要があります。「結末」とは物語の「焦点となっている問題」が、何らかの形で「決着」がつくことです。そしてその「決着」がつくまでの「起承転結」を明確に読者に理解させるのがあらすじの役割です。つまり「起承転結」こそがあらすじの「幹」であり、その起承転結を説明する上で重要な情報であるか否かが「あらすじに載せる優先順位」となります。(補足ですが、起承転結を説明するのに必ずしも必要ではないエピソードは「枝」であり、「幹」を説明する上で重要ではない劇中の細かい描写は「葉」だと考えています)
この映画の最大の「焦点」が「不思議な世界に迷い込んで両親を豚にされてしまった千尋が、両親を助けて無事にもとの世界に戻れるか」ということには異論はないでしょう。それと同時に「ハクの正体は何者か?」というのも、それに次ぐこの映画の重要な「焦点」になっています。それは同時に「ハクが名前を取り戻して自由になれるか」ということと直結しています。
この「ハクの正体は何者か?」という焦点には、映画の中では以下の起承転結があります。
:千尋は謎の少年ハクと出会う。彼はなぜか千尋を知っているが、理由はわからない。
:ハクは時々不在になる。湯婆婆から色々と危ないことをやらされているようだ。
:ハクの真の姿は白い龍だった。ハクは瀕死の傷を追い、千尋は彼を助けるための行動を起こす。
:千尋の行動の結果、千尋はハクが幼い頃に溺れた川の神だったと気づく。つまりそれがハクが千尋を知っている理由だった。
あらすじでは、この「起承転結の流れ」をしっかりと読者に示す必要があります。しかし「起」の段階で「結」を示してしまえば「起承転結」が理解しづらくなり、あらすじの役を果たせなくなります。また、Kanoharaさんは因果があって結果となる出来事があるのですから、そのように続けて説明したほうが、情報を小出しにして飛び飛びに説明するよりも、はるかに分かりやすいでしょう。といいますがそれは具体的に何を示しているのですか?例えば以前例に示したように何の説明もなく「千尋が名前を奪われた」とあらすじに書いても、読者には理解が困難なので、湯婆婆が名を奪う魔女だということを先に示したほうが、読者の理解を得られやすいというのは具体的な根拠と言えるでしょう。それと同じような具体的な根拠を示してください。具体的な根拠も伴わずに「そのほうが分かりやすいでしょう」と言われても、何が分かりやすくなるのかが分かりません。

2.千尋が「ハクが川の神だと思い出せない」、について

上で示したとおりです。なぜ「読者を混乱させ」「分かりづらく」「回りくどい表現」をわざわざ「手直しして使う」必要があるのですか?素直な表現で十分ではないですか。素直な表現を避けてまで、あえてそうしなければならない理由はありません。

3.説明が冗長になる、について

これも上で示した通りです。物語の起承転結を崩して「起」の説明に「結」を持ってこなければならない理由がありません。それに私は、ハクが千尋を知っている理由が分からないという情報をあらすじに載せることが「冗長」とは全く思っていません。「冗長」とは「不要なことを書くこと」です。「ハクの正体の謎」はこの映画の重要な「焦点」なので、それを説明するのに重要な情報は必要であり、「冗長」という表現には全くあたりません。

4.あらすじで強調するべき箇所、について

これも上で示した通りです。物語の「焦点」を探し出し、その結末と、そこに至るまでの起承転結の流れを分かりやすく読者に示すのがあらすじの役割です。「ハクの正体は何者か、彼は名を取り戻して自由を回復できるのか」はこの映画の重要な「焦点」であり「ハクが千尋を知っており、その理由がわからない」というのは、この「焦点」の「起承転結」の「起」の説明をするのに重要な情報です。だからあらすじではしっかりと説明する必要があります。ましてやそれをあらすじから「積極的に削除」する理由は全くありません。なぜ「積極的に削除」しなければならないのか、具体的に説明して下さい。--Pinejam会話2015年7月11日 (土) 04:23 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) 三日で合意は早いですよ。こちらも多忙だと言ってあるはずです。「Wikipedia:合意形成#合意形成」もご覧ください。さて、まずPinejamさんの「起承転結こそがあらすじの幹」との主張について。ウィキペディアの「起承転結」の記事を読む限り、起承転結こそ物語の基本的な型であるという前提自体も疑わしいものがありますが、まず少なくとも「起承転結」というのは映画の視聴者に情報を提示する順序でしかないという点をご理解ください。情報を提供する順序は、映画の観客が味わうことになる作品体験について説明する場合は有効ですが、ストーリーならぬプロット、すなわち物語の構図を説明する上では、必ずしも重要ではありません。Pinejamさんはこの議論を「物語の骨格」「物語の構造」を明確にするためのものとして開始されましたが、物語の骨格、構造として重要なものはストーリー(情報の順序)ではなくプロット(物語の因果関係)でしょう。私はPinejamさんが推し進める文案について、物語のプロットを絞り込むための文章の中に、ストーリーの流れを重視した説明が紛れ込んでいるせいで、ちぐはぐな内容になっているのではないかという感想を抱いています。Pinejamさんが「起承転結」という表現を出したことで、私はその疑念を強めました。起承転結とは物語を面白おかしく見せるための仕掛けに過ぎず、ウィキペディアに掲載するあらすじでは、その面白さ(例えば、あらすじを読んでいる読者がハクの正体が何者であるのかをドキドキワクワクしながら文字を追っていくような面白さ)は不要でしょう。少なくとも以前の発言で引用したガイドラインでは、不要だとされています。
次に、Pinejamさんはこの映画の2番目に重要な焦点は「ハクの正体は何者か?」という点であるとし、それを前提にして議論を進めていますが、私は以前から言うようにこの前提に疑問を感じています。映画の中で「ハクの正体は何者か?」という点は、ほとんど省みられていないのです。具体的な根拠を挙げます。
  1. Pinejamさんが引き合いに出している「でも不思議だね。千尋のことは覚えていた」の台詞の場面は僅か3~4秒です。その台詞を言っている間のハクは険しい表情を和らげて千尋に笑いかけるものの、言い終わった瞬間にその話題を打ち切り、差し入れのおにぎりの話題に切り替えていますし、千尋は豚にされた両親のことで頭が一杯という様子で、ハクの話題をスルーしています。
  2. 銭婆の札に襲われている白い龍の正体がハクだと気がついた千尋が、とっさにハクの名を呼んだ直後、自分がなぜハクだと気がついたのかと一瞬だけ困惑する場面があります。この間、ハクの名を呼ぶシークエンスを含めて5秒程度で、すぐに千尋は我に返っており、その不思議さにあれこれ悩んだりするような描写はありません。
  3. 千尋とハクと坊と湯バードが穴から地下へと落とされる場面で、ハクの角にしがみついた千尋が、川に落ちた記憶をフラッシュバックさせる3~4秒程度の場面があります。この場面でも、千尋はハクの正体に思いを巡らせるどころではない状況ということもあり、記憶のフラッシュバックに思いを巡らせる描写はありません。
  4. 銭婆とのやり取りで、千尋がハクが何者であるかを知ろうとしている描写はあります。ですがこの場面はすでに映画の終盤で、最終的にハクの正体に思い至る場面の直前です。
どうでしょうか? 確かに劇中で数度に渡って、千尋がハクの正体を気にしていることを忘れていないことを示す伏線はあります。ですが、それは124分の映画の中ではほんの数秒だけのことで、千尋は終盤までハクとの出会いの不思議さに思いを巡らせたり深く悩んだりすることはありません。カオナシの得体の知れなさを示す描写の方が余程時間を費やしています。ハクと千尋の出会いの謎については基本的に、物語の序盤でハクとの別れ際、唐突に千尋のことを知っていると告げられた後、物語の結末において、登場人物同士の間でしか知り得ない(観客には共感の余地のない)秘密の共有があったことが唐突に明かされるという、そういう構図でしかありません。その間ほとんどずっと忘れ去られており、抽象的なフラッシュバックや描写に留まっている内容を、映画の焦点だと言い張るのは無理があるでしょう。質問に返答します。
  1. 説明を前に持ってくるメリット ……この映画の中で千尋はハクに恩があり、ハクは千尋が川の名前を思い出せば元の世界に戻れる、という情報をぼかさず先に出せば、2人の主要登場人物を駆動させている行動原理も分かりやすくなるというものでしょう。ハクと千尋の関係が物語のメインストリームであるというなら、この関係性こそ記事の読者に要点として説明すべきであり、強調すべきは劇中で数秒間しか扱われていない「関係の不思議さ」ではありません。
  2. 千尋が「ハクが川の神だと思い出せない」、について ……別に「ハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋は溺れた時の出来事とハクの存在を結びつけることができない」でも構いません。言葉尻の違いだと思いますが。
  3. 説明が冗長になる、について ……前述のように、Pinejamさんが強調したがっている箇所は、物語の上ではほんの数秒間の、作劇上の演出に過ぎず、それを説明するのは冗長です。それを省いてそれ以上短くできるのであれば、それは冗長とは言いせん。
  4. あらすじで強調するべき箇所、について ……前述のように、Pinejamさんが強調したがっている箇所は、物語の上ではほんの数秒間の、作劇上の演出に過ぎないものであって、物語の焦点ではないと考えます。前提からして違います。千尋とハクは、相手のことを不思議に思っているから助け合っているのではなく、「溺れた千尋をハクが助けた」という因果があるから助け合っているのです。
どうでしょう? 以前頂いたお言葉を返します。これでもなお、「ハクが千尋を知っている理由がわからない」という情報をあらすじに入れるべきだと主張するならば、それを私に納得させるに足るだけの根拠のある説明をして下さい。または、不毛な反論をすることなく素直に折れて下さい。そもそも本当にこれは「絶対にあらすじに入れなければならない」と頑なに主張しつづけなければならないようなことなのですか?--Kanohara会話2015年7月13日 (月) 17:18 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 以前に何の連絡もないまま1週間回答を待たされたので、今回もそれと同じことが起きることを懸念しKanoharaさんの投稿履歴を確認したのですが、ここ数日間で10回以上にわたってwikiに別な投稿を繰り返されているようでした。ですので回答する時間は十分にあるものの、私への回答は放棄しているのだろうと推察し「同意とみなしても良いか」と確認をした次第です。多忙だったとは思いもよらず、大変失礼しました。しかし、議論は相手があることですので、できれば優先的に回答を頂きたいところです。また、どうしても相手を何日間も待たせなければならないのであれば、せめて回答の目処を示す程度の誠意を示して頂ければ幸いです。円滑に議論を続けられるように、お互いに誠意をもって、良いあらすじになることを目指しつつ頑張りましょう。
さて、最初にあらすじの書き方について、いくつかKanoharaさんが誤って理解していると感じられる箇所を指摘します。物語の骨格、構造として重要なものはストーリー(情報の順序)ではなくプロット(物語の因果関係)でしょう。とのことですが、例えば死体が発見され、殺人犯の正体や使われたトリックが焦点となり、それが最後に明かされるような推理映画があったとします。単純に因果関係でいえば、殺人の動機がまず発生し、犯人がトリックを考え、実際に殺人を行い、それが映画の始まりへと繋がるわけです。
では、犯人の正体や、殺人の動機、そしてトリックが生まれるまでの犯人の思考を、その映画のあらすじの先頭にもってくるべきでしょうか?
いいえ。そのようなあらすじは見たこともありませんし、書くべきでもありません。なぜならそれでは物語の構造が理解しづらくなくなるからです。それは「物語の重要な流れを理解させる」というあらすじの目的に反しています。あらすじの描写で重要となる「因果」とは、単純に出来事が発生した「時系列の因果関係」を指すわけではありません。それよりも「物語の構造の因果関係」を示すことが、より重要です。そこを誤解してしまい、単純にあらすじを時系列の因果関係に並べてしまうと、物語の構造が理解しづらくなり、かえってあらすじが無価値な物になってしまいます。例えば、例で示したような映画では、きっと以下のような「因果関係」があるでしょう。

刑事は××に、気がついた[原因] → それにより刑事は、殺人のトリックが○○だと分かった[結果]

時系列の因果関係で言えば、殺人のトリックが先に使われたからこそ、刑事がそのトリックについて調べるわけです。しかしあらすじで重要なのはその因果関係ではありません。「刑事が××に気づいた」 だから 「トリックの正体を見破った」という「物語の構造の因果関係」こそが重要です。そこを誤解しないで下さい。
これはもちろん「物語で描写されている順番どおりに、あらすじを書くべき」という意味ではありません。何度も繰り返して説明していますが、湯婆婆の例で私が示したとおり、前後関係を入れ替えたほうが読者の理解が進み、それによって物語の構造の理解が妨害されるわけではないならば、むしろ積極的に入れ替えるべきです。ではハクの正体をあらすじの先頭にもってくることで、あらすじが分かりやすくなると言えるでしょうか?いいえ、言えません。それにまだKanoharaさんは、分かりやすくなるという具体的な根拠を示すことができていません。(これについては、下で改めて質問します)
次に面白さ(例えば、あらすじを読んでいる読者がハクの正体が何者であるのかをドキドキワクワクしながら文字を追っていくような面白さ)は不要でしょうとの事ですが、それには私も賛同します。ただ、執筆者が自分の作品体験をそのまま再現しようとするというガイドラインの言葉の意味を、Kanoharaさんは少し勘違いしているように見受けられます。
例えば、映画の中で「不思議な出来事」があった場合に、あらすじの中で言葉を費やして不思議さの臨場感を再現し、あらすじの読者を映画の観客と同じように不思議がらせようとしたならば、それは「作品体験をそのまま再現しようとしている」といえます。しかし、映画の中でどのように不思議な出来事があったのかの説明をあらすじに書いたり、物語の起承転結に沿ってあらすじを書くこと自体は、上の定義には合致しません。なぜなら、物語に含まれる情報を示したり、物語の起承転結を示すのは、あらすじとしてはごく当然のことだからです。ここを明確に区別してください。
けれども、我々の意見の乖離の根本的な原因は、どうやらこの「作品体験の再現の是非」ではなさそうです。以前に私は、Kanoharaさんが「文章としての表現」を問題視しているのだろうかと思い、そこでこの問題を「文章としての表現」と「あらすじに載せるべき情報」の二つに分け、後者についての合意を先に得ようとしました。しかしKanoharaさんは「文章としての表現」ではなく、「ハクが千尋を知っている理由が分からない」という「情報をあらすじに載せること」自体に反対しています。その理由が私には理解できません。なぜならKanoharaさんが繰り返す「冗長性」(私は冗長だと思っていませんが)は、現在記載されているあらすじの冗長さからすれば取るに足りない程度に小さなものであるし、また「ハクは千尋を知っているが、彼にはその理由がわからない」という情報を読者から隠蔽することによって生じるデメリットと比較しても、やはり比較にならないほど小さいからです。
また、Kanoharaさんの文案どおりに、あらすじにハクの正体は幼い頃に川で溺れた千尋を助けた川の神なのだが、千尋は溺れた時の出来事とハクの存在を結びつけることができないと書いたら、読者はこれをどのように理解するでしょうか?この文章では「ハクは自分が川の神だと認識しており、自分が千尋を助けたことも覚えている」と読者は誤解するでしょう。これは事実とは全く異なる理解なので、あらすじとしては致命的な欠陥です。さらには、Kanoharaさんの文案では千尋がハクの正体に気づいても不思議ではないかのような印象も読者に与えますし、さらには「ハクが千尋を知っている」という情報も読者に伝わりません。だから、そのような回りくどい、誤解を受ける表現を使うのではなく、素直に「ハクは千尋を知っていたが、その理由はわからないようだった」と書くべきです。
Kanoharaさんは、私に指摘されるたびに、何度も何度もこの文章の修正を繰り返していますが、なぜそこまでして「ハクは千尋を知っているが、その理由が分からない」という情報を素直に読者に示さないのか、そこが理解に苦しみます。

Kanoharaさんへの質問

  • 【質問1】Kanoharaさんの書きかたでは、「ハクが千尋を知っている」という情報が読者にスッキリと伝わりませんね?
  • 【質問2】Kanoharaさんの書きかたでは、「ハクが千尋を知っている理由が、彼自身にも分からない」という情報も読者には伝わりませんね?
  • 【質問3】Kanoharaさんの書きかたでは、「ハクは自分が川の神だと認識しており、自分が千尋を助けたことも覚えている」と読者に誤解されかねない書き方になっていますね?
  • 【質問4】Kanoharaさんの書きかたでは、必要な情報が読者に伝わらず、誤解も与えかねない書き方なので、そのような書き方をするよりも、最初から素直に「ハクは千尋を知っているが、その理由はわからない」と説明したほうが、理解もしやすく、読者の不要な誤解が避けられますね?(もう何回目になるのか分かりませんが、また書き換えるのだけは勘弁して欲しいところです)
次に、もし「ハクは千尋を知っていたが、その理由はわからないようだった」とのみ、あらすじに書いたならば、当然読者は「なぜ理由が分からないのか?」と疑問に思うことでしょう。もしその疑問に触れずに、あらすじを書き進めてしまえば、読者の疑問が無視されていると読者に感じられ、読者のストレスを高めてしまいます。そこで、一言「不思議なことに」とか「なぜか」といった形容詞を文章に追加してやれば、読者は「この不思議さは放置されることなく後述されるだろう」と安心してあらすじを読み進むことができます。だからそれらの表現を付け加えることは必要です。ごく客観的考えて「相手を知っているのに、その理由が分からない」という状況は「不思議」であるといえるので、ここには「大言壮語」と言えるような要素はありません。
それからKanoharaさんが示す、映画の中で「ハクの正体は何者か?」という点が省みられていないとする「具体的な根拠」は、やはり根拠としては薄弱すぎると言わざるを得ません。なぜならKanoharaさんは「ハクが会話を長く続けなかった」「千尋が不思議さにあれこれ悩んだりするような描写はなかった」「秒数」などを根拠にしていますが、重要なのは、その場の「キャラクターの演技」でも「秒数」でもなく、映画全体として何が観客に示されたかという本質だからです。
映画の演出としては、必ずしもキャラクターにいちいち感情表現の演技をさせる必要はありません。映画の観客が、そのシーンで何が説明されているのかを理解できれば、それで十分だからです。もしキャラクターが毎回細かい演技をしていたら、そのような映画はテンポが悪すぎて見れたものではなくなります。ハクが自分が千尋を知っている不思議さについて、長々と演説させる必要はありません。ましてや秒数などは何の根拠になっていません。「3秒だから、私はそのように感じない」と言われても、それは客観的な根拠とはとても言えません。
それでは映画の描写として、ハクの正体について観客の注意と関心を引きつけるような物語の描写が、劇中にあると客観的に言えるのか?と言えば、これは明らかに複数回にわたって劇中に存在します。
  1. 「どうして私の名を知ってるの?」「そなたの小さい時から知っている」
  2. 「本当の名を忘れると帰れなくなるんだ」「私は(自分の本当の名を)どうしても思い出せないんだ」「でも不思議だね。千尋の名は覚えていた」
  3. 「あいつ時々いなくなるんだよ。噂では湯婆婆に危ないことをやらされているんだって」
  4. 「(白い姿の龍を目にして)ハクーッ!! ・・・ハク?」
  5. 「ハクはな、千と同じように、突然ここにやってきてな・・・」
  6. 「ハクと私、ずっと前に会ったことがあるみたいなんです」
映画では、これらの描写が全体として調和しながら観客の注意と関心を「ハクの正体」に引き付けています。そしてハクの正体をおぼろげながらにも形作りながら、クライマックスに向けて収束していく構造になっています。個別のシーンの細部をつついたとしても、映画全体としての描写は否定できません。
そして最終的には映画のクライマックスで
  1. 「私の本当の名はニギハヤミ・コハクヌシだ!」
  2. 「私も思い出した、千尋が私の中に落ちたときのことを!」
と、ハクの正体が明らかにされ、同時にハクが千尋を知っていた理由も観客に明らかにされています。ハクの正体について、幾度にもわたって観客の注意をひきつける描写が劇中に存在し、それが最終的にクライマックスで「決着」しています。だから「ハクの正体は何者か」は明らかにこの映画の「焦点」になっているといえます。ここにKanoharaさんが主張する「ハクが直ぐに話題を切り替えた」とか「千尋がスルーした」とか「秒数が短い」とかの「薄弱な根拠」が割り込む余地は、全くありません。
そして物語のクライマックスで千尋とハクの過去のつながりが「決着」したのであれば、あらすじでは「決着するまでの物語の流れ」を説明する必要があります。そして「ハクが千尋を知っているが、理由は分からない」というのは、この焦点のスタートを説明するのに必要不可欠な情報です。それを示さないと、クライマックスで「何が決着したのか」も読者にも伝えることができません。だから読者に「ハクが千尋を知っているが理由が分からない」という情報をしっかりと示す必要があります。
「1. 説明を前に持ってくる具体的な理由」について」ですが、やはりKanoharaさんは具体的な理由を示せないようです。Kanoharaさんは「はるかに分かりやすいでしょう」という強い表現を使っているにもかかわらずどうして私が例で示したような、具体的な説明ができないのですか?
「2. 千尋が「ハクが川の神だと思い出せない」、について」は上で述べたとおり、致命的な誤りのある文章なので使用するべきではありません。
「3. 説明が冗長になる、について」は、上で説明したとおり物語の焦点に関する重要な説明なので、それをあらすじで説明することは「冗長」とはいえません。
「4. あらすじで強調するべき箇所、について」ですが、Kanoharaさんの新説が登場したようです。「溺れた千尋をハクが助けた」という因果があるから助け合っているのですということですが、千尋がハクを助けようとする動機は、ハクが過去に彼女を助けたからですか?具体的に劇中のどの描写を根拠にしているのか、私には分かりません。

Kanoharaさんへの質問 つづき

  • 【質問5】ハクの正体をあらすじの先頭で明かすことによって、Kanoharaさんのあらすじ案の、具体的にどの文章が、どのような理由で分かりやすくなっているのか、それを明確に示して下さい。(Kanoharaさんは「はるかに分かりやすくなる」という強い表現まで用いているにも関わらず、どうして明示できないのですか?
これでもなお、「ハクが千尋を知っている理由がわからない」という情報をあらすじに入れるべきだと主張するならば、それを私に納得させるに足るだけの根拠のある説明をして下さい。という質問に対して、改めて以下に回答します。
上で示したとおり「ハクの正体」はこの映画の焦点として描写されています。その焦点は「ハクが千尋を知っていた理由が明らかになった」という形で「決着」されています。あらすじでは物語の結末を明確に示す必要があり、結末で「何が決着されたのか」を示すためにも、この「焦点」のスタートとなっている「ハクは千尋を知っているが、その理由はわからない」という情報を、しっかりと読者に示す必要があります。
これでご理解いただけたでしょうか?
さて、上で質問した5点の質問に対して、それぞれ個別に回答を下さい。それでは、よろしくお願いします。--Pinejam会話2015年7月14日 (火) 12:06 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 議論の意思が無いようにお見受けしますので、私の方で修正を実行させて頂こうと思います。--Pinejam会話2015年7月18日 (土) 03:55 (UTC)
    • 返信 (Pinejamさん宛) だから合意決定には早いですってば。私は、平日のウィキペディアの編集を主に仕事の休憩時間の合間を縫う形で行っていますが、他にも取りかかっている記事や、ウィキペディア以外のコミュニティサイトで返信を待たせている人、ネット以外の用事などもありますので、しばらくお返事待たせますのでご了承ください。--Kanohara会話2015年7月18日 (土) 04:53 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) あなた個人の多忙を理由として、なぜwikiの更新を停滞させる必要があるのでしょうか?wikiはあなたの私物ではありません。もし多忙で議論に参加できないのであれば、議論に参加できるようになってから、改めて修正案を提案して下さい。--Pinejam会話2015年7月18日 (土) 04:59 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 不特定多数に対する提案が暗黙の合意に達したと見なされるのに"1週間"と言う期間が必要なのは妥当と言えます。しかし、私による修正提案からは既に1月近くが経過しており、Kanoharaさん以外の編集者との合意という意味では、期間に問題はありません。唯一この議論に参加の意思を示したのはKanoharaさんだけですが、ご多忙のご様子で、時には一週間も議論が進まないような状態が頻発しています。また、その間に他の記事の編集は極めて頻繁に繰り返しており、誠実かつ積極的にこの議論に参加する意思も感じることができません。もし今後も同じようなことを繰り返すというのであれば、この議論は一旦ここで打ちきらせてください。そして議論に参加できるようになった時に、もし必要があると感じるのであれば、改めて再修正案を提案しなおしてください。よろしくお願いします。--Pinejam会話2015年7月18日 (土) 06:27 (UTC)
    • 返信 (Pinejamさん宛) 少なくとも9月下旬頃までは、私は月~土曜日の間はほとんど議論に参加できません。スマホで5分以内に読んでから即答するまでを実行できるような内容なら可能なのですが、そうしないのは長文で意見を下さるPinejamさんに対して、ちゃんとした返信をしようと思っているという私なりの敬意だと思って頂ければ幸いです。明日も私用で多忙になりそうです。来週の火曜日の夜には少し時間が取れると思いますので、少々お待ちください。--Kanohara会話2015年7月18日 (土) 17:43 (UTC)
  • コメント 今回の提案は緊急性のない改善案ですし、一週間は待っても特段のデメリットはないのではないでしょうか。一般的に、時間的余裕を設けた方が議論もストレスなくできますし、より多くの人が参加できる余地ができると思います。緊密な意見交換を他の人が追うのは大変ですし、私も全部読めていません。
個人的には、「百科事典の中のあらすじ」のあり方としては、Kanoharaさんの修正案は文章が神の視点に統一されていて、書き手が解説する立場にあるのだなと安心感があって読みやすいと思いますので、このエッセンスはできれば残して欲しいです。物語の中のミステリや人物視点から窺われる葛藤や印象、緊張感といったダイナミクスは作品の魅力ですが、百科事典に限って言えば、そうした魅力を伝えることはあらすじで負う役割ではないと思います(それを映画の監督が狙っていたとしても)。コトバンクでも様々な百科事典での古典映画の記事を参照できますが、ほとんどのストーリー部分は神の視点で淡々と描かれていて、読みやすいです(『千と千尋の神隠し』も短いですがあります)。--Floe~jawiki会話2015年7月18日 (土) 15:06 (UTC)
  • 返信 (Floe~jawikiさん宛) Floe~jawikiさん始めまして。コメントに気づかずあらすじを既に修正しましたが、議論はウェルカムですので、もしお気づきの点などあればご意見ください。--Pinejam会話2015年7月18日 (土) 15:21 (UTC)
    • コメント Pinejamさんが合意を待たず、Floe~jawikiさんの意見も無視する形で記事の編集を強行したのを拝見しました。Pinejamさんのあらすじでは議論中の内容や、以前意見したカオナシの存在がまったく無視されている点など、以前、私が意見した内容が無視されており、合意が反故にされているように見えましたので、いったん差し戻しさせて頂きました。--Kanohara会話2015年7月18日 (土) 17:43 (UTC)
  • 返信 (Kanoharaさん宛) 私は過去に1度、1週間Kanoharaさんの返信を待ち、それでもなお合意を得るために更新を避け、Kanoharaさんの返信を促しました。しかし、Kanoharaさんの議論をする態度には、積極性も見られず、数日間もの間回答を空けるならせめて回答の目処を示して欲しいという私の要望も無視されたままです。合意に1週間というのはあくまでガイドラインが示した期限の目処であるにもかかわらず、Kanoharaさんはその文言を自分の都合の良いように解釈して「毎回1週間待たせてよい」と受け取っていないでしょうか?そもそも議論を進めるつもりなら、まずは前回の私の意見への回答を先に行うのが筋です。なお、一旦あらすじをKanoharaさん案で更新しておきました。現在のあらすじよりはずっと良いからです。これならばKanoharaさんもご不満はないでしょう。今後の議論の進め方ですが、下に新たな方針を定めました。こちらの方針でお願いします。--Pinejam会話2015年7月18日 (土) 23:57 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) 他の記事での議論が長引いて後回しがちになっていますが、返信すると約束したのでこちらにも。
まず、推理小説などのあらすじを説明するときにストーリーを重視すべきか、プロットを重視すべきかというのは、書き方にもよると思いますが、時と場合によるでしょう。例えばテレビアニメの記事『BLOOD-C』では、プロットとストーリーの両方の側面から書く構成を試みています。『シックス・センス』は、物語の最初に示される嘘情報を伏せたまま書こうとすると、記事に嘘を書かなければならなくなるので、最初に確信を明かすあらすじにしてみました。『千と千尋の神隠し』の場合は、謎解きが主題になる作品ではないので、少なくとも推理小説ほどにはストーリー(観客に与えられる情報の順序)は重要ではないと考えます。
次に、「ハクは千尋を知っているが、その理由が分からない」という情報を素直に読者に示さないのかという質問ですが、その理由をすぐに読者に示さない場合、読者はあらすじの末尾まで文章を読み進めて、それからもう一度あらすじを読み返さなければならない構成になってしまいます。それでは二度手間だというのが私の指摘です。Pinejamさんは「不思議なことに」とか「なぜか」といった形容詞を文章に追加してやれば解決する問題だと仰られますが、私にはそうは思えません。勿体ぶらずに核心を突いた方が分かりやすいでしょう。
  • 【質問1への回答】 かつてハクが千尋を助けたことがあり、両者は元々出会っているという情報が伝われば十分で、その方がスッキリと伝わると考えます。
  • 【質問2への回答】 登場人物の解説としては重要な情報かも知れませんが、あらすじにおいては些末な情報であり、「両者は元々出会っている」という情報で置き換え可能と考えます。例えば映画の設定が「ハクは千尋のことをよく覚えているのだけれど、呪いで自分から言い出すことができない」というものであったとしても、物語の大筋に影響を与えません。
  • 【質問3への回答】 前述のように、ハクが千尋のことを覚えているか否かは、物語の本筋を説明する上では些末な違いかと思います。嘘にならないように書けばよいですし、登場人物のセクションで説明すれば十分かと思います。
  • 【質問4への回答】 必要な情報は伝わりますし、誤解があったとしても些末なことです。例えばPinejamさんのあらすじでは、千尋はリンやオクサレ様の協力など最初からなく、カオナシなどの障害もおらず、千尋が独力で全てを解決したように誤解される書き方になっていますが、Pinejamさんはその程度の誤解は本筋と無関係な些末なことだと考えているのではないですか?
それから「映画全体として何が観客に示されたかという本質」が何かについて。私は『千と千尋の神隠し』を、Pinejamさんが考えるような「千尋とハクの関係を描いたラブストーリー」のようには受け取りませんでした。Pinejamさんが挙げた根拠は「物語のサブプロットとしてそのような面もある」ことを示していますが、それが「本質」であるという根拠にはなりません。私は「湯婆婆という最大の障害に対して、無力な千尋がどのように立ち回るか」という筋の方をメインとして見ましたし、その見方からすると、ハクは千尋と目的を同じくし、共に障害に立ち向かう重要な協力者ですが、その二人の関係でストーリーが語り尽くせるほど重要な人物とは感じられません。百歩譲って千尋とハクのラブストーリーという見地からあらすじを再構成するとしても、「ハクの正体について観客の注意と関心を引きつけるような物語の描写」と同じくらいには描写が割かれていた、ハクの恋敵とも言うべきカオナシの存在をまったく無視するのは解せません。
Pinejamさんは「「ハクの正体」はこの映画の焦点として描写されています。その焦点は「ハクが千尋を知っていた理由が明らかになった」という形で「決着」されています。あらすじでは物語の結末を明確に示す必要があり、結末で「何が決着されたのか」を示すためにも、この「焦点」のスタートとなっている「ハクは千尋を知っているが、その理由はわからない」という情報を、しっかりと読者に示す必要があります」と仰います。私は、
  • 【質問4への回答】 ハクの正体を探ること自体は、この映画のうちの数秒が割かれているに過ぎません。それに「過去に縁のある二人が障害を経て、最後にそのことを思い出す」というプロットを説明に組み込むとしても、物語の中で登場人物が成し遂げるべき目的を明確に示す必要があります。最初に「何を決着すべきなのか」を示すためにも、この「縁」のスタートになっている「ハクは幼い頃に千尋を助けた神様なのだが、千尋にはハクの名前を言い当てることができない」という情報を、読者に示す必要があると考えます。そうすれば読者も余計なクエスチョンに気を取られることなく、あらすじを読むことに集中できるでしょう。
と考えますがどうでしょうか?--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 16:21 (UTC)
私は『千と千尋の神隠し』を、Pinejamさんが考えるような「千尋とハクの関係を描いたラブストーリー」のようには受け取りませんでした。との事ですが、確かに私の初期の案は少し2人の関係を強調しすぎていた感があると自分でも思うので、私の修正案をこちらのように改めました。ハクが千尋を知っていることと、その理由が彼にもわからないことを、このような形で載せたく思いますが、これでもハクが千尋を知っていたことと、その理由が分からないことをあらすじに載せることに反対するでしょうか?妥協の余地はありませんか?--Pinejam会話2015年7月22日 (水) 11:18 (UTC)
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返信 (Pinejamさん宛) どうしても「ハクの正体が謎であることを最初に示したい」「映画の終盤で正体が明かされることを、プロットとしてではなくストーリーの流れとして説明したい」ということであれば、以下のような形ではどうでしょうか? 仮に、ハクの正体の謎が観客を惹きつける重要な謎だったとしても(私はそうは思いませんが)、ウィキペディアの読者にまでその追体験をさせる必要はありませんし、謎を謎のまま、劇中でどのような意味のある伏線なのかも分からない状態で、ただ謎であることを強調して提示するのは不適切だと思います。せめて、「ハクには自分の正体を思い出せないために自由を奪われているが、千尋はそのキーパーソンになるかも知れない」という情報を一緒に示すことで、その謎が物語の中でどのような位置づけの謎であるのかを強調すべきだと考えます。

……千尋はこの世界に住む少年ハクに助けられる。ハクは八百万の神々が客として集う「油屋」という名の温泉宿で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する、恐ろしい魔女の湯婆婆(ゆばーば)だ。この世界で仕事を持たない者は、湯婆婆によって動物にされてしまうと教えられた千尋は、勇気を出して湯婆婆の元を訪れ、仕事をもらえるように何度も頼み込む。千尋は、名を奪われて「千(せん)」と新たに名付けられ、なんとか油屋での仕事をもらうことができる。ハクは千尋に、本当の名を忘れると元の世界に帰れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいるのだが、彼はなぜか千尋と面識があり、そのことは覚えているのだという。しかし千尋には、ハクの正体に心当たりがない。

ところで議論の合間に、『千と千尋の神隠し』のあらすじを掲載している個人や企業のウェブサイト[1][2]、および手持ちの書籍に目を通してみたのですが、Pinejamさんが本作のメインストーリーとして強調する「なぜかハクが千尋のことを知っている謎」について言及したあらすじは見当たりませんでした。最もPinejamさんのあらすじに近いと思ったのは、大塚英志が著書『キャラクター小説の作り方』(角川文庫、ISBN 4-04-419122-0)で触れている本作の要約で、このあらすじでは物語の筋は千尋とハクを中心に絞られ、物語中盤で千尋がハクが龍の化身であることを目撃する場面にも触れられているのですが、少なくとも少なくともPinejamさんの主張するような形では「ハクが千尋のことを知っているという不思議さや謎」についてはほとんど無視されていました。
なお大塚氏によるあらすじの趣旨は、『千と千尋の神隠し』のストーリーを日本の民話『姥皮』や、川端康成の『伊豆の踊子』と比較し、時折『ハウルの動く城』にも触れつつ、構造主義の観点から各作品共通の物語構造を明らかにするというもので、この中で大塚氏は、千尋がハクが龍の化身であることを目撃したり、ハクが千の本名が千尋であることを知っているというくだりは、『姥皮』では若旦那が姥皮を脱いだ娘の姿を見てしまう場面、『伊豆の踊子』では「私」が踊子の裸を目撃して本当の年齢に気がつく場面、『ハウル~』ではハウルがソフィーの寝姿を見たり、ソフィーがハウルの本来の髪の色を見たりする場面に該当すると指摘しています。……もっとも我々ウィキペディアの編集者は、作品の個性や特徴を説明するために物語の要約を作ろうとしているのであって、『千と千尋~』の物語を『姥皮』『伊豆の踊子』『ハウル~』と区別できないレベルまで簡略化してしまっては本末転倒ですから、その点は注意する必要があると考えます。--Kanohara会話2015年7月26日 (日) 02:13 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 「面識」という言葉なのですが、辞書で調べると「互いに顔を知っていること。知り合いであること。」とあります。しかし千尋はハクを全く知らないはずなので「彼はなぜか千尋を昔から知っており」としませんか?--Pinejam会話2015年7月28日 (火) 11:05 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 「知っており」で反映させていただきました。--Pinejam会話2015年8月10日 (月) 12:58 (UTC)
コメント 修正された文面を拝見しました。「彼はなぜか千尋を知っており、そのことは覚えているのだという」という文章だと同じような語を重ねることになってしまうので、いっそ「彼はなぜか千尋を知っているのだという」でも良いかも知れません。Pinejamさんは微妙なニュアンスの違いにこだわりがあるようなので、もっと推敲の余地はあるかも知れませんが。--Kanohara会話2015年8月10日 (月) 13:10 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 現在の文ならハクが千尋を知っているということ以外は忘れてしまっているというニュアンスが読者に伝わるので、私としては特に問題を感じません。もし修正するのであれば「彼はなぜか千尋を知っているのだという。しかしその理由は彼にもわからないようだった。」とするのが一番分かりやすいと思います。--Pinejam会話2015年8月11日 (火) 12:08 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) 「しかしその理由は彼にもわからないようだった」という一文を入れるのは反対です。忘れている理由は最後まで観客に明かされないし、それが湯婆婆の魔法で忘れているのか、単に昔のことなので記憶が曖昧になっているだけなのか、どちらでも物語の大筋に影響はありませんし、いずれにせよあらすじの読者に気を持たせるような内容ではないからです。最終的に明かされる「ハクが千尋のことを知っている理由」は「コハク川で会っていた」が正解なので、物語的に意味があるのは「どこで会ったのかは彼にも思い出せない」という謎に絞られますが、「それでは該当場面や設定のニュアンスが伝わらない」というのなら、入れないほうがよいと思います。--Kanohara会話2015年8月11日 (火) 12:45 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 「ハクが千尋を知っている理由が彼自身にも分からない」という事実の理解は、映画の構造の理解に極めて重要です。なぜなら、もし読者が「ハクは自分が千尋を知っている理由をしっかりと認識している」と誤解していては、千尋の行動によってハクが自分の記憶を取り戻すという映画の重要な結末を理解できなくなるからです。とりあえず今の文面がお互いの合意が取れる中間点のようですので、そのままにしておきましょう。--Pinejam会話2015年8月16日 (日) 13:47 (UTC)

あらすじの各修正案に対する個別の議論

これまでの議論のペースを考えると、あらすじ全体の合意を待つと相当な年数を要する可能性があるため、一旦、あらすじをKanoharaさん案で更新しました。今後の議論の進め方なのですが、あらすじ全体の合意を一度に得るのではなく、あらすじの中で修正が必要と思われる箇所をそれぞれ平行して個別に議論したいと考えます。議論のルールなのですが、168時間回答が無い場合は暗黙の合意と見なして修正を行い、仮にそれが不本意であった場合には再度修正案を提案しなおして再修正のための合意を図る、という形にしましょう(つまり、時間切れになって一旦修正を実施したとしても、議論に参加する人の合意が完全に得られるまでは議論は継続されますのでそこは安心して下さい。ただし、168時間はあくまで期限であり、毎回相手を168時間までなら待たせてよいという意味ではありません。議論には誠実かつ積極的に参加して下さい)。また、いちいち合意を図るまでも無い微細な修正はwikiの慣例に基いて行いますので、もしその修正に問題があれば、リジェクトしてここに改めて修正案として記載する形にしましょう。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 00:31 (UTC)

[修正案1] ハクが千尋を知っている理由が、彼にも分からないという記述を追加するべき

前回の私の意見と質問に対するKanoharaさんの回答をここにお願いします。回答期限の168時間が迫っているので注意してください。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 00:31 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) ハクは千尋を助けたことをなぜ忘れているのか? 湯婆婆の魔法か? それともハクがド忘れしているだけか? それは映画の中でも分かりません。そもそも「なぜ忘れているのか」という点は物語の焦点にならないからです。対して、知っている理由は物語の結末で明かされており明確です。勿体付けずに最初から書くべきです。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)

[修正案2] 「泥団子」の記述はあらすじから除去するべき

泥団子は「物語の重要な流れ」には関係がないため、あらすじからは除去するべきです(それ以前の問題なのですが、"泥団子"と言う表現は、そもそも劇中に存在せず"ニガ団子"という言葉が正確な表現です)。以前kanoharaさんはあらすじでは因果関係が重要と指摘しましたが、ニガ団子は物語の結末には殆ど因果関係を持っていません。劇中での役割は、単に「ハクに判子を吐き出させた」「カオナシに従業員を吐き出させた」の2つに過ぎず、どちらの出来事も、仮に映画から削除したとしても物語の結末には影響を与えない程度の薄い因果関係しか持たないため、あらすじからは除去するべきです。(ついでに言うと、異臭を放つ客云々の描写も、最初に案を出したのは私ですが、あらすじには不要だったかもしれません。物語のプロットを説明する上で殆ど意味が無いからです)--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 00:44 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) 例えば古典的なストーリー類型「昔話の構造31の機能分類」を見ますと、主人公が大きな困難に先立って試練を受け、寄与者から魔法的な道具や手段を手に入れ、それが敵対者との戦いに貢献するというのは、物語の重要な要素になっていることが分かります。『千と千尋の神隠し』においてもこうした類型は大いに当てはまり、ニガ団子の一件は、主人公が額に汗して労働して得た対価が、結果的にハクを命の危機から救い、カオナシを退けるという、教訓的なテーマ性を含んでいることが読み取れます。ハクは千尋が旅立った後、千尋の帰りを待つまでもなく回復しており、物語の最大の困難に寄与したのがニガ団子であることは明らかです。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)

[修正案3] 「カオナシ」の記述はあらすじから除去するべき

カオナシは「物語の重要な流れ」には関係がないため、あらすじからは除去するべきです。以前kanoharaさんはあらすじでは因果関係が重要と指摘しましたが、カオナシは物語の結末には殆ど因果関係を持っていません。印象深いシーンではありますが、プロットの記事で説明されている映画『タイタニック』('97) では、ストーリーの上で、主人公が船首で両腕を広げる場面や、楽団が船の沈むまで演奏を続ける場面といった有名なシーンがあるが、それらは以後の出来事に影響しないに相当します。仮に映画からカオナシに関するシーンを丸ごと削除したとしても、映画の結末には殆ど影響が無い程度の薄い因果関係しか持たず、物語のプロットを説明する上で殆ど意味が無いので、あらすじからは除去するべきです。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 00:44 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) これについては以前も説明したとおりです。主人公が物語の中で何を成し遂げたかを説明する上で、カオナシの一件を解決したことは、物語の中の大きな出来事だと考えます。これは物語の最後で、カオナシから助けられた従業員たちが千尋を応援し、祝福していることにも繋がります。そもそもPinejamさんが最初に書いたあらすじでは、従業員たちはオクサレ様の一件を解決したせいで、千尋を応援し祝福しているように誤解されてしまいます。本作には「オクサレ様の一件を解決する → お礼にニガ団子を授かる → カオナシに飲み込まれた従業員たちをニガ団子を使って助ける → 従業員たちから感謝される」という、「物語の重要な流れ」がありますが、Pinejamさんの執筆したあらすじではその流れが無視されているのが気になります。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 私はその流れは意図的に無視しています。なぜならこの映画の最も重要な結末は「千尋が両親を助けて無事にもとの世界に戻った」ことであり、千尋が従業員から好感を持たれるようになったことは、千尋の帰還には何ら影響を与えておらず、物語が結末に至るまでの起承転結や因果関係を説明する上では不要であると考えているからです。また千尋が従業員から好感を持たれたことが、この映画の重要な結末だという根拠も特に見当たりません。そもそもオクサレ様のエピソード自体も、私の案でも含めてしまいましたが、よくよく考えればあらすじからは完全に除去したとしても物語の因果関係を説明する上では問題ないと思います。千尋が従業員から好感を持たれたことがこの映画の重要な結末であるとどうして言えるのか、その具体的な根拠はあるのでしょうか?--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 03:51 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) ひ弱だった千尋が「働かない者は豚にされる」という厳しい世界で、労働者の権利を盾にして就職に成功し、労働を通して生きる力や給与(ニガ団子)を獲得し、それを用いて職を斡旋してくれた恩人でもあるハクを助け、贋金で己の欲望を満たそうとしたカオナシを退け、恐ろしかった経営者にも認められて職場を去るという一連の流れは、本作における主要な本筋でしょう。むしろもっと詳しく書くべきとも思っています。物語の最後で千尋が皆から祝福されるのは、千尋の主人公としての行動が肯定的に描かれていることを観客に示すための描写であり、重要です。--Kanohara会話2015年7月26日 (日) 15:42 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) なぜ重要かという質問に対して「一連の流れは、本作における主要な本筋でしょう」と答えられても、根拠が伴っていないと分かりません。私にはKanoharaさんが映画で発生したストーリーを逐一なぞりたいだけのように思えます。なぜなら「労働者の権利」や「給料」がこの映画の重要なテーマであるといえるような描写は無かったように思えますし、千尋が油屋の皆から好かれるかとかどうかがこの映画の焦点だったするような根拠も見当たらないからです。「ハクの正体」については、誰の目から見ても明らかに劇中で何回も触れられ、しかもクライマックスと言うべきシーンで「決着」しているに対して、カオナシは単に少し暴れただけで、彼は千尋の帰還にも関係がなく、ハクより重要なキャラだったとも思えません。Kanoharaさんが重要だといっていたプロットの観点からすれば、確実に省略されるであろうキャラのようにも思えます。
どうも、Kanoharaさんがあらすじで何を読者に示したいのかが私には分かりません。少なくとも今のあらすじの記述では「カオナシをあらすじに含めたいから含めた」という以上の価値が感じられません。何のためにカオナシをあらすじに含めたいのか、その本当の理由はどこにあるのでしょうか?頑なにカオナシの記述を断固拒否したい、というわけでもありませんが、あらすじとして意味のある記述にできたら良いと思います。カオナシと「彼女が皆から認められた」こととの因果関係を示したいのですか?--Pinejam会話2015年7月28日 (火) 12:09 (UTC)
返信 この議論のためのまとまった時間がとれないので後回しになっていますか、何度も言うようにPinejamさんの主張には賛同しかねます。今日はこれ以上ウィキペディアの編集に時間を費やすと実生活に差し障る状態なので、後ほど返信します。--Kanohara会話2015年8月5日 (水) 16:43 (UTC)
返信 以前にも書きましたが、一編集者の多忙を理由として、記事の編集を遅らせる必要性はありませんよね。しかも、Kanoharaさんは週に一度くらいしか返信せず、実生活に支障が出ると言うほどには議論に参加していないように思えます。すみませんが、意見交換に参加できないのであれば、とりあえず私の編集を見守っていただいて、もしそれに不満があるようでしたら議論に参加できるようになってから改めて修正案を提示して頂けないでしょうか?--Pinejam会話2015年8月9日 (日) 14:11 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) ウィキペディアの編集以外にも色々と抱えています。ネット以外の事柄とかですね。いずれも議論とは無関係なことですが、睡眠時間の削りすぎで日常生活に支障が出ているのは本当なので、その辺はご勘弁を。--Kanohara会話2015年8月10日 (月) 13:47 (UTC)

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 返信 (Pinejamさん宛) 少し間が開いてしまいましたが、お待たせしました。

さて、「Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方」では、物語の要点を絞るために、他の文献やファンサイトを参考にすることを勧めています。また「作品の分析や評価を記すときには必ず批評家や研究者の論評を出典とする形で行ってください」という文もあります。そこで、少し長い引用になりますが、先述の大塚英志氏による『千と千尋の神隠し』の主題について分析している箇所を引用します。今回の議論の参考になると思います。

……実を言えば宮崎駿の「千と千尋」そして「ハウル」は同じ「物語の構造」をもっています。全車は宮崎駿のオリジナル、後者はイギリスの児童文学が「原作」です。しかし二つとも共通の構造からなり、そして「変型」のさせ方が違うのです。

恐らく二つの作品が同じ「構造」なのは宮崎駿の「好み」であり、つまり作者のオリジナリティは特定の構造に執着する、という形でしばしばあらわれます。

例えばここは宮崎駿そのものを語る場所ではありませんので簡単に記しますが、宮崎駿が執着するのは「女の子の成長の儀式」という「主題」です。「風の谷のナウシカ」のナウシカが青き衣の救世主になるというモチーフ、「魔女の宅急便」のキキが一人前の魔女になるというモチーフがそうです。また初期の「パンダコパンダ」で、一人で留守番をする女の子の不安(これは「となりのトトロ」に引き継がれます)は、子供が成長のプロセスで親から分離していく時の「不安」です。これを「分離不安」といって、そういう状態にある子供はしばしば「空想上のおともだち」を作り出します。ウィニコットという心理学者のいう「移行対象」という存在で、子供の成長の援助者です。それが「パンダ」や「トトロ」というキャラクターの正体なわけです。「パンダコパンダ」や「となりのトトロ」では分離不安そのものがテーマでしたが「千と千尋」では一歩進んで「成長」がテーマになります。その結果、「移行対象」としての「カオナシ」は「千と千尋」では脇役に回るわけです。

「物語の構造」の話に戻りましょう。宮崎駿は「女の子の成長」という主題を具体的なモチーフの中で繰り返し描くことで彼の作品が持つ「物語の構造」は一つの整った形に次第に洗練されていきました。

恐らく「構造」を宮崎駿がはっきりとつかんだのは「もののけ姫」においてでしょう。そしてその「構造」が的確に表現されたのが「千と千尋」であり、「ハウル」は、そのおさらいといえます。 — 大塚英志、『キャラクター小説の作り方』角川文庫、pp.325-336

以上のように大塚氏は、宮崎駿作品に共通する主題として「女の子の成長の儀式」があるとし、特に『千と千尋』では「(千尋の)成長」がテーマであると断言しています。本作における千尋の成長が、油屋での労働を通じて発揮されていくことは明らかで、記事の外部リンクのセクションからリンクされている幾つかの記事のあらすじからも、そのように受け取っている記者が多いことが読み取れます。一方でPinejamさんは、「よくよく考えればオクサレ様のエピソードも除去しても問題ない」としており、物語の主題である(と二次情報源でも指摘されている)「成長」の要素を、物語のあらすじから取り除こうとしているように見えます。

また大塚氏は、上記の引用でカオナシを「脇役」と形容していますが、「不要なキャラクター」とまでは言っていません。それどころか上記の引用においてカオナシを千尋の成長過程に関わる存在と指摘し、『となりのトトロ』のトトロに該当するようなキャラクターと位置づけていることは注目に値します。大塚氏の分析の他にも、例えば金曜ロードショーの公式サイトの作品解説[3]では、カオナシを「主要キャラクター」として紹介していることも見逃せません。二次情報源での言及は登場人物のセクションに書けば良いではないかという意見もあると思いますが、「Wikipedia:あらすじの書き方#登場人物節との関係」にもあるように、ウィキペディアの記事においては、登場人物のセクションはあくまで補足であるべきで、物語全体の構造に関わる内容はあらすじのセクションで示すべきです。

大塚氏による『千と千尋』の要約文は、千尋とハクの関係に重点を置いたものとなっており、Pinejamさんのあらすじ文案に近いという印象を受けるものでしたが、それでもPinejamさんのように「ハクの不思議さや正体の謎」には重きを置いていません。……というのは以前に指摘した通りです。具体的には、大塚氏は以下のように書いています。

……さて「姥皮」では少女は長者様の家の若旦那にみそめられます。少女がお風呂で姥皮を脱いで入浴しているシーンを若旦那は覗いてしまいます。一方「千と千尋」では、若旦那、つまり主人公の「恋人」役はハクです。ハクは千尋の本当の名前をちゃんと知っているわけです。千尋はハクが美しい竜の化身だと知ります。(中略)この「お互いに相手の本当の姿を知っている」という形をとるのは、「千と千尋」「ハウル」もともに、主人公の女の子が本当の「自分を取り戻し成長する物語」とその恋人役の少年が同じく本当の自分を取り戻す物語が平行して描かれているからです。つまり二つの「物語」がからみあって進行しているのです。 これが「民話」と現代の小説や映画の違いで、「民話」では、主人公は一人で「物語」はこのたった一人の主人公を軸に進行します。しかし小説や映画では複数のキャラクターに平行して「物語」が進行することがあるのです。 — 大塚英志、『キャラクター小説の作り方』角川文庫、pp.331-332

つまり大塚氏の解釈では、千尋とハクの物語がそれぞれ並び立つ存在として描かれているということになります。対してでPinejamさんの文案では、「ハクが本当の自分を取り戻す物語」の方だけに焦点が当たっており、千尋の成長物語という側面がほとんど無視されているように見えます。Pinejamさんの文案では、なんだかハクこそが物語のヒーローで、千尋は最後にちょっと銭婆に謝ってハクに恩返ししたというだけのお姫様のような印象で描かれていますが、実際の『千と千尋の神隠し』は、そういう話ではありません。

もしも、大塚氏の解釈はあくまで大塚個人の見解であり参考にならないとお考えなのであれば、信頼できる情報源で「千尋の成長要素は重要ではない。ハクの正体を巡る謎こそが『千と千尋』の本筋である」と言及されている例を示してください。出典が示せないのであれば、Pinejamさんの考える「本筋」は、Pinejamさんの独自研究に過ぎません。--Kanohara会話2015年8月9日 (日) 17:35 (UTC)

返信 (Kanoharaさん宛) まず最初に聞きたいのですが、映画の中の千尋は具体的にどの部分が成長しているのでしょうか?もしそれこそが主題であるならば、それが読者に明確に伝わる形であらすじを書く必要がありますよね?Kanoharaさんのあらすじを読んでも私にはそれが分からないので「映画の中で千尋は何が成長したのか?」と「それがKanoharaさんのあらすじのどの部分で表現されているのか?」この2点を教えて下さい。よろしくお願いします。--Pinejam会話2015年8月10日 (月) 12:05 (UTC)
コメント ひ弱で無力で人間として疎まれる存在だった千尋が、厳しい労働環境を通して自信をつけ、さまざまな試練や難題を解決して、信頼を勝ち取っていく様子は「成長」と呼べるかと思います。その点については幾度か説明したつもりです。私としても幾つかの文献を当たった上で、最初に提示したあらすじでは不足を感じていたところでもあり、それについても2015年7月26日 (日) 15:42 (UTC) の発言で「むしろもっと詳しく書くべきとも思っています」と説明しました。--Kanohara会話2015年8月10日 (月) 13:20 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 油屋の従業員から最初疎まれていた千尋が、最後には好意を持たれるようになったのは多くの観客が理解できる客観的事実だと思います。私はそれを「成長」だとは受け取ってませんが、好意をもたれるようになったのは事実です。ただ、自信を持てなかった彼女が自信を持てるように成長したとか、別な意味で何か成長したとか、そのような印象を多くの観客が持てるようなシーンは特になかったように思えます。つまり、あらすじにもしカオナシを登場させるのであれば、その意義は、彼女が好意を持たれるようになった事への因果関係を示すことにあるのではないでしょうか。ただ、映画の一番の焦点はあくまで「千尋の帰還」にあるので、現在のカオナシの記述はちょっと過剰な気がします。具体的には「油屋の外で雨に打たれていた」「贋金で騒動を起こした」などは、物語の結末にも、千尋が好意を持たれることになったことにも、それぞれ因果関係が無いので省略できそうです。ちょっと私なりの修正案を考えてみます。--Pinejam会話2015年8月11日 (火) 12:34 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) 千尋の成長については、適当な二次情報源による出典[4][5]をつけておくと良いかも知れません。カオナシの「油屋の外で雨に打たれていた」については、他によい形容が思い当たらなかったので、Pinejamさんが書き換える前の版や映画本編の状況からそのように形容しましたが、二次情報源[6][7]を元に「他人との交流ができずにいた」などと書き換える手もあるかも知れませんね。贋金については、労働を通じて報酬を得たり成長したりしていく千尋と対比される存在として「額に汗して得た収入ではなく、贋金を使って、従業員たちから一時的な好意を集めるカオナシ」の存在があると考えました。また先に引用した大塚氏の解釈では、カオナシは千尋にとって親からの分離不安を象徴する移行対象であるということなので、千尋の成長を引き留めようとする存在としての側面も重要なのかも知れません。とすれば、贋金を使って千尋の願望を満たそうとしたり畏怖させようとしたりするカオナシを、千尋が突っぱねる場面なども重要な場面だろうと思いますが、うまくあらすじに組み入れる文案を思いつきません。物語の結末についてですが、カオナシの一件は油屋における最大の騒動ですから、因果関係がないとは言えないと考えます。--Kanohara会話2015年8月11日 (火) 13:29 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) カオナシ以外にも修正したい点があったので、すこし範囲が広くなりましたが、以下のような文章ではどうでしょうか。

翌日、ハクは湯婆婆の言いつけにより、彼女が対立している双子の姉の銭婆(ぜにーば)から、大切な魔女の契約印を盗みだす。しかし油屋までハクを追ってきた銭婆は魔法でハクに重傷を負わせ、湯婆婆の息子である坊(ぼう)もネズミに変えてしまう。千尋は不思議な団子をハクに飲ませて、ハクの体内で暴れていた銭婆の魔法を吐き出させるが、ハクはまるで死んでいるかのように見えた。千尋はハクを助けたい一心で、危険も顧みずに銭婆のところへ行き、契約印を返却してハクを助けてくれるようにお願いすることを決意する。

だが、そのころ油屋ではカオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。以前に千尋から親切にされたことにより千尋が欲しくなっていたカオナシは、彼の手から生み出す贋金で千尋の気を引こうとしたが、千尋から相手にされなかったことに怒っていたのだ。千尋は団子をカオナシにも飲み込ませて従業員を吐き出させ、それにより従業員から感謝されるようになる。千尋は改心したカオナシとネズミになった坊を伴って銭婆の家を訪れ、銭婆は謝罪するために訪れた千尋を穏やかに受け入れる。

千尋には油屋へ帰る手段がなかったが、意識を取り戻したハクは湯婆婆に坊が銭婆の所へ行ってしまったことを伝え、坊を連れ戻してくることを条件に千尋と両親を解放するように約束を迫り、千尋を迎えに行く。銭婆から許されたハクと千尋は油屋へ帰るが、その途中で千尋は彼女が幼い頃に落ちた"川"がハクの正体であることに気づく。幼い千尋は溺れそうになるところを、川のハクによって浅瀬に運ばれ、助けられていた。それによりハクは自分の名前を取り戻す。

修正の意図としては以下の通りです。
  1. 現在のあらすじでは、銭婆のハンコを盗んだのがハクであることと、彼がハンコを盗む動機が分からなかったので、明記しました。
  2. ハクが団子でハンコを吐き出したということよりも、体内で暴れていた魔法を取り除いたことのほうが重要なので、差し替えました。
  3. 怪我から回復する様子のないという表現を、ハクはまるで死んでいるかのように見えたという劇中の描写に近い表現に差し替えました。
  4. 坊が偽者とすり替えられたことを説明せずとも、読者は特に疑問なくあらすじを読めると思うので、省略しました。千尋がそれを目撃していたというのも同様の理由で省略しました。
  5. カオナシの話が分散されていて理解しづらかったので、一箇所にまとめて記述しました。
  6. カオナシが雨に打たれていたことも、特に読者へ説明する必要がないので省略しました。
  7. カオナシが贋金を使った理由が千尋の関心を買いたかったからだと、分かるような記述に改めました。
  8. カオナシから従業員を助けたことにより、感謝されるようになったことを明記しました。
  9. ハクが湯婆婆に説明したことで重要なのは「坊がすりかえられていた」ことではなく「坊が銭婆のところに行ってしまった」ことなので、すりかえられていたことの説明は省略しました。
大きく修正したので色々と意見が出そうですが、どうでしょうか?--Pinejam会話2015年8月16日 (日) 17:38 (UTC)

[修正案4] 「懇意の従業員から電車の切符を譲り受け」の記述はあらすじから除去するべき

千尋がどのような手段で銭婆婆のところへ行ったのかの説明は、物語の重要な流れを説明する上で全く不要です。ましてや切符を譲りうけたという情報はあらすじに必要ありません。不要な情報をあらすじに載せるのは、いたずらにあらすじの文章と情報量を増やし、あらすじに対する読者の理解を妨げることになるのでこの一文は削除するべきです。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 01:04 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) 主人公がどこかに行き、何かを成し遂げて帰ってくるという筋立ては、先の「昔話の構造31の機能分類」などと照らし合わせても重要な出来事になっています。主人公が移動手段を獲得し、出発し、その先で銭婆に認められ、帰り道でハクの変身に立ち会うという展開は、古典的な類型にも見られる「物語の重要な流れ」であると考えます。銭婆の家まで足を運んで誠意を見せる流れは、銭婆が千尋を許して和解する経緯として重要なので、その経緯については触れるべきだと考えます。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) すみませんが、説明になってないようです。この映画において、千尋が電車で移動したことが、なぜあらすじから欠く事ができない重要な要素だと言えるのか、分かるように説明して頂けないでしょうか。具体的な理由がないのであれば、除去したく思います。--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 02:48 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) では、切符が帰りの当てのない片道切符であることを明記してはどうでしょうか。千尋は劇中で「帰りは歩いて帰る」と言って旅立ちますが、その後長い尺を使って旅程が描写され、容易に戻れるような旅ではないことが描かれますし、湯婆婆からは「両親を置いて逃げた」と誤解される有様です。千尋が大きなリスクを冒して冒険に出たのは、それだけハクを助けたいという決意が大きかったことを示しており、また帰還の手段を持っていなかった千尋を連れ帰ったのもハクです。Pinejamさんが本作の軸を千尋とハクの関係に置きたいのであればなおさら、ここは欠くことができない要素だと思うのですがどうでしょうか?--Kanohara会話2015年7月26日 (日) 15:42 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 私には不要であると思います。なぜなら片道切符だというのはその後の物語の展開に何も関係が無いからです。私が「ハクが千尋を知っている理由が分からない」という記述にこだわったのは、映画のクライマックスで何が決着されているのかをあらすじの読者に示したかったからです。この切符の記述にはそのような価値はありません。それに、千尋とハクの関係をあらすじの軸にしたいと思っているわけではないKanoharaさんが何故それを求めるのでしょうか?--Pinejam会話2015年7月28日 (火) 12:17 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) 例えばMovie Walkerに掲載されているあらすじでも、千尋が大きなリスクを冒して冒険に出たことに触れていますし、上のセクションで引用した大塚英志氏の解説でも、ハクを助けるために千尋が銭婆の元へ向かう場面を、『姥皮』のヒロインが若旦那を救うために死者の国に向かう場面に相当する難題であると指摘しています(『キャラクター小説の作り方』p.332)。大塚氏が指摘するように「千尋の成長」こそが物語の主題であるとするなら、千尋がハクのために勇気を奮うこの場面は、千尋の成長の集大成と言うべき重要な場面なのではないでしょうか?--Kanohara会話2015年8月9日 (日) 17:44 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) なるほど。では「千尋はハクを助けたい一心で、危険も顧みずに銭婆の元へと旅立つ。」という文ではどうでしょうか?ここで重要なのは「千尋が大きなリスクを冒したこと」であり、「電車」や「切符」ではないのでそれらは省略しましょう。そもそも私があらすじの改善を始めた動機は、瑣末な細部の情報が多すぎて、あらすじが本来持つべき「物語の重要な流れを示す」という機能が失われていたことにあるので、電車や切符といった瑣末な情報を増やしてしまうことには抵抗があります。--Pinejam会話2015年8月10日 (月) 12:36 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) なるほど、それも良いと思います。ですが帰りの当てがない片道切符であることを書き加えておけば、ハクが迎えに来て一緒に帰った(その帰路でハクが自分の名前を取り戻した)という経緯にも、物語上の意味を付け加えられる……という案も捨てがたく思います。その点は片道切符云々ではなく「(ハクが)油屋に帰る手段がない千尋を迎えに行く」という説明でも良いかも知れませんが。--Kanohara会話2015年8月10日 (月) 13:34 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) ハクが千尋を迎えに行ったのは、彼女に帰る手段が無かったからなのでしょうか?劇中にそのような描写はありませんでしたし、彼ならば帰りの手段の有無に関係なく千尋を迎えに行くのではないでしょうか。また、彼が銭婆の所へ行く名目上の理由は坊を連れ戻すためです。そのように、片道切符というのはハクの行動には因果関係がないので不用でしょう。--Pinejam会話2015年8月11日 (火) 12:15 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) では「千尋には帰る手段がなかったが、ハクが迎えに来る」ならば問題ないですか?--Kanohara会話2015年8月11日 (火) 12:31 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) わかりました。そのように修正をして下さい。--Pinejam会話2015年8月11日 (火) 12:36 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) そのままだとあらすじに組み込めないので、

千尋は怪我から回復する様子のないハクを助けたい一心で、危険も顧みずに銭婆の元へと旅立つ。改心したカオナシや、姿を変えられた坊たちを伴って、盗まれた品物を返却し謝罪するために返しに来た千尋を、銭婆は穏やかに受け入れる。千尋には油屋へ帰る手段がなかったが、意識を取り戻したハクは、坊が偽者とすり替えられていることやその行方を湯婆婆に伝え、息子を連れ戻してくることを条件に千尋と両親を解放するように約束を迫り、千尋を迎えに行く。銭婆から許されたハクと千尋は油屋へ帰るが……

という感じでどうでしょうか?--Kanohara会話2015年8月11日 (火) 12:59 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) ひとまず合意します。反映しておきました。--Pinejam会話2015年8月16日 (日) 13:14 (UTC)

[修正案5] ハクが湯婆婆に、千尋と両親を解放するように「約束させた」という記述を追加するべき

この物語の最大の焦点は「千尋が両親を救出して無事に元の世界に戻れるか」であり、千尋が自由になるきっかけを作りだしたのはハクが湯婆婆に千尋と両親を解放するように湯婆婆に「約束」させたからです。ですから、この言葉には物語の結末に強い因果関係を持っており、あらすじでは「約束」という単語を決して省略するべきではありません。逆に「千尋に助けられた従業員たちに解放を迫られ」は全く不要です。従業員が騒いだのはあくまでその場の状況描写にすぎず、因果関係はあくまで「約束」にあるからです。不要な記述を追加していることによって、因果関係が読者から見え辛くなっています。また、千尋に助けられた従業員が群集の中に存在したとは思いますが、まるで従業員の大半が千尋に助けられているかのような記述は大言壮語に相当します。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 00:54 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) ハクとの約束が大きな因果となっているのは確かなので、「約束」という単語に強いこだわりがあるのなら戻しても構わないと思います。しかし湯婆婆は約束を果たすことを渋っており、また従業員たちに迫られたことも同程度に重要な要素となっているように演出されています。カオナシの一件ではカオナシに飲み込まれた従業員だけでなく、大勢の従業員がカオナシの所行によって困らされたり、恐怖を味わったりしており、従業員の大半が千尋に助けられたと思っているのは誤りではないと考えます。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) 湯婆婆は、油屋に千尋とハクが帰ってくる前からブタを準備しています。つまり彼女はハクとの約束を最初から果たすつもりでおり、従業員から迫られたからブタを準備したわけではありません。従業員からも迫られたことに強いこだわりがあるのであれば、それをあらすじに含めることには強く反対しませんが、因果関係はあくまでも「約束」にあるので、読者が因果関係を誤解しないような形であらすじを修正したく思います。試しにあらすじをそのような形で修正しますので、もしその修正内容が納得が行かないようであればリジェクトしてここに理由を記述してください。リジェクトされないようであればこの件はそのままCloseしたいと思います。--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 02:58 (UTC)

[修正案6] 物語の最後に、トンネルの姿が変わったという記述を追加するべき

この物語を端的に表現すると「千尋が不思議なトンネルに入り、無事にトンネルから戻ってくる」物語です。映画の最後でトンネルの姿が変わったことにより、人間の世界と不思議な世界の繋がりが断ち切られたことが観客に示されています。映画のこの描写により「千尋が不思議なトンネルに入った」ことに対する「決着」が示されており、したがってあらすじでは省略するべきではありません。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 01:04 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) 正直、私は映画を見ていて、最初と最後でトンネルの形が変わったことに気がつきませんでした。言われて見返すとたしかに変わっていますが、正直物語の筋に関係のないトリビアだと思います。が、必要性は感じないものの、あらすじの文章に余韻を残すよい文章だとは思うので、それを書くことによって他の伝えるべき情報を阻害するようなことにならなければ、別に入れても入れなくても構わないと思います。追加することに賛成はしませんが反対もしません。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) こちらあらすじに追加させていただきました。この件はCloseします。--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 02:29 (UTC)

[修正案7] 千尋とその両親が元の世界に帰ってきたところで"物語は終わる"という表現は削除するべき

物語の最後で物語が終るのは当然であるにもかかわらず、なぜこのような表現が必要なのでしょうか?これこそが冗長な表現ではないですか?kanoharaさんは「ハクが千尋を知っていたが、その理由はわからない」という重要な情報をあらすじに載せることを冗長という理由で頑なに載せることを拒否しつづけながら、その一方でなぜこのように明らかに冗長な表現を用いるのかが私には理解できません。kanoharaさんの意見を正確に理解するために納得の行くような具体的な説明をお願いします。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 01:43 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) 物語の結末で、千尋の目的が無事に果たされたことを示すために必要な記述だと考えました。Pinejamさん案の「もとの世界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは入ったときとは別な姿に変わっていた」よりは回りくどくなく、簡潔だと思います。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) こちらは私の質問の仕方が悪かったのですが、質問の真意がkanoharaさんに伝わっていないようです。もしあらすじの記述から冗長性を排除することに強くこだわる人物であるならば、このように冗長な表現を用いるはずがありません。それにもかかわらず平然とこのように冗長な文章を用いているということは、kanoharaさんが「ハクが千尋を知っている理由が分からない」という説明をあらすじから除去することに強くこだわる真の理由は「冗長性」などではなく、別のところに真意があるのではないかと思った次第です。ただ、修正案6の反映で結果としてこの記述は消えたので、この件はCloseします。--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 02:38 (UTC)
返信 (Pinejamさん宛) ウィキペディアのフィクション記事には、あらすじを物語の結末まで書かずに終わる不完全なものが溢れています。「トンネルは入ったときとは別な姿に変わっていた」という意味ありげな記述だと、映画を見たことがない読者は「間違って見知らぬ土地に着いてしまった千尋の新たなる冒険が始まるのだろうか?」などと、最後にまた一波乱あるのかと勘ぐってしまうかも知れません。私は、そうならないたに「このあらすじは物語を結末まで書いています」というニュアンスを最後の行に含ませるよう心がけているのですが、あくまで個人的なスタイルなので、「そんなことは書かなくても通じる」と思うのでしたら外しても構いません。--Kanohara会話2015年7月26日 (日) 15:42 (UTC)

[修正案8] 「本当の名を忘れると元の世界に戻れなくなる」という情報をあらすじに含めるべき

現在の表現ではハクは千尋に、元の世界に戻るためには本当の名を忘れないよう忠告する。とありますが、映画を知らない人がこのあらすじを読んだら「本当の世界に戻ることと名前になんの関係があるのか?」と疑問に思いストレスを感じることになります。ですので「本当の名を忘れると元の世界に戻れなくなる」という情報を読者に与え、そのようなルールが映画の世界感に存在することを読者に感じさせられるような形に文章を修正したく思います。修正は「ハクは千尋に、本当の名を忘れると元の世界には戻れなくなると忠告する」で良いかと思います。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 02:34 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) どちらでも大差ないと思いますが、誤解される可能性が気になると言うのでしたら、その箇所はPinejamさんの文案で問題ないと思います。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)
返信 (Kanoharaさん宛) あらすじを修正させていただきました。この件はCloseします。--Pinejam会話2015年7月25日 (土) 02:30 (UTC)

[修正案9] 千尋は怪我から回復する様子のないハクを助けるため、という記述を修正するべき

常識的に言えば、怪我から回復するには数日は要するので、あらすじの現在の記述である「千尋は怪我から回復する様子のないハクを助けるため」という表現では「怪我を負ってから数日が経過した」という誤解を読者に与えかねません(私のあらすじ案でも同じですね。読者への配慮が足りませんでした)。千尋が銭婆のところへ行ったのは、ハクの傷が銭婆の魔法によるものであり、銭婆からその魔法を解いてもらうためであるので、それが読者に伝わるような文章に修正したく思います。「千尋は銭婆の魔法で傷ついたハクを助けてもらうため」という文が良いかと思います。--Pinejam会話2015年7月19日 (日) 03:01 (UTC)

返信 (Pinejamさん宛) 映画の描写を見る限り、ハクは釜爺の看護により、千尋が銭婆の元に到着する前に回復しているのですから、実際のところは千尋が「回復する様子がない」と勘違いしただけで、銭婆の赦しによって助かったわけではないでしょう。この辺は私の文案でもPinejamさんの文案でも、千尋が一人で何でも解決してしまったかのような誤読を誘う表現になっており、「主人公が物語の中で何を成し遂げたか」という点を説明する上では宜しくないので、Pinejamさんの懸念とは別の意味で、何らかの解決が必要だと思っています。--Kanohara会話2015年7月21日 (火) 17:19 (UTC)