ノート:乃木希典

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

疑問[編集]

また、トルコやポーランドなどでは今でも名前に「トーゴー」つける人も少なくなく、 乃木の解説なのに?--Pochi 2004年10月14日 (木) 11:00 (UTC)[返信]

弁護派の後ろ二つは弁護になってないと思うが。--以上の署名のないコメントは、61.123.76.90会話/Whois)さんが 2005年4月3日(日)11:05 に投稿したものです。

満洲での肖像画?[編集]

日露戦争後から中華人民共和国に占領されるまでの間、満洲人の民家に満洲からロシアを追い払った感謝の念を込めて乃木希典の肖像画が飾られていたという。

「中華人民共和国に占領されるまで」という表現は修正の要あり。関東軍が事実上放棄したあとの満洲は、(単純化していえば)はじめソ連軍の侵攻をうけ、後に国民党軍と共産党軍がまだら模様的に支配し、最後にだいたい1948年末に共産党の全面支配に至るわけだが、この「占領されるまで」は1948年くらいを意味するのだろうか?日本軍支配崩壊後3年間も乃木の肖像が残存したとは常識では考えにくい。--にごう 2005年7月25日 (月) 11:15 (UTC)[返信]

漢詩・和歌[編集]

歌人としても高く評価されており、ある中国人学者は「日本人の作品で真の漢詩と呼べるのは乃木の作品ぐらいしかない」と評している。

「ある中国人学者」の名前を入れていただけませんか? あと、「歌人としても」というなら短歌に関しても同様に何がしかのリファレンスが欲しいところです。--にごう 2005年11月3日 (木) 07:00 (UTC)[返信]
一週間経ちましたが、歌人としての評価についてのリファレンス、漢詩文の評価での「ある中国人学者」ともに具体例の提示がないので、とりあえず上記項目をコメントアウトしました。いずれにせよ冒頭部でなく、「漢詩」の項に書かれるべき記事だと思います。--にごう 2005年11月10日 (木) 09:22 (UTC)[返信]
郭沫若が、このような評価をしたという話を聞いたことがありますが、正確な出典は知りません。--水晶の兎 2008年1月26日 (土) 19:16 (UTC)[返信]

辻占い少年について[編集]

乃木将軍と辻占い売りの少年の話は、明治24年の陸軍少将時代に用務で金沢を訪れ、辻占い売りをする当時8歳の今越清三郎少年に出会った時の話です。今越少年は辻占いを売りながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は少年を励まし、金二円を手渡しました。 今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績をあげました。 こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に六本木六丁目の旧毛利家の池(ニッカ池)の畔に銅像が建立されました。この銅像は、六本木六丁目開発の際、乃木将軍縁の旧乃木邸に移され今も現存しています。 --Otonashin会話2021年7月25日 (日) 11:07 (UTC)[返信]

評価の部分[編集]

現在継続中の議論について、乱立する意見を箇条書きに並べることは、百科事典としての記事の中立性と整合性を損なうため、するべきではないと思います。

具体的には…

中ほどから箇条書きにされている項目には、出典が明記されているものが一つもありません。特に下4項目は弁護意見としても意味不明です。

「坂の上の雲」を資料として採用するのなら、その中で述べられている、乃木が西南戦争時代から「戦下手」で通っていたこと・海軍からの砲台の提供を断ったこと・司令部が後方にあって前線との意思疎通ができなかったこと・第一回総攻撃で望台に到達しつつ退却命令を出したこと、を項目に挙げないのは何故でしょう。

また、乃木弁護派の意見は以下の通りである。 以下の項目は、乃木無能論を展開する人たちの根拠は以下の通りである。 以下の項目への反駁であり、箇条書きながら議論の流れを成していて、しかも観点が偏っていると言わざるを得ません。

よって箇条書きの部分の削除を提起します。

コメント主です。すみません、前回署名を入れ忘れてました。コメントから5日経ちましたので、本文から箇条書き部分を削除しました。--61.12.173.192 2006年10月17日 (火) 01:27 (UTC)[返信]

孫に勝典、保典と名づけたのか?[編集]

孫に戦死した勝典、保典兄弟の名前をつけたのでしょうか?--立志堂 2007年11月16日 (金) 10:40 (UTC)[返信]

石原莞爾に関する記述[編集]

「初対面の石原莞爾を歓待する。」の節で石原莞爾とのエピソードが記述されています。出典がないことはとりあえず措くとして,乃木希典に関するエピソードと言うよりも,石原莞爾に関するエピソードであり,削除してもよいように思いますが,いかがでしょうか。--Emonue 2011年1月30日 (日) 05:42 (UTC)[返信]

この件について記述している本をもってますが、現在手元にないので出典に書けません。身分の貴賎を問わず人と接する彼の人の人柄を表すエピソードであり、削除する必要はないと思います。--3rdOfLupin 2011年2月2日 (水) 15:55 (UTC)[返信]
書名及び著者名を教えて頂けますでしょうか。また,出典を明記できそうな時期をノートに記載して頂けますでしょうか。そうすれば,出典なしとの理由で当該記述が削除される可能性が低くなると思います。--Emonue 2011年2月3日 (木) 00:17 (UTC)[返信]
今すぐ出典が書けない理由を説明したのですが…帰省したらこの件について記述してある本を探します。因みに、石原莞爾の項目にも乃木を訪ねた事が書かれており、出典は「早瀬利之『石原莞爾 満州合衆国』光人社、2003年 p.14」となってますね。私が持っている本とは違います(太平洋戦争研究会著の日露戦争に関する本です)。--3rdOfLupin 2011年2月3日 (木) 13:25 (UTC)[返信]
今すぐ出典を明記できないことは理解していますが,上述のとおり,どの程度の期間が必要であるかを明らかにしておくことが有用であると思料し,これをお願いしたまでです。また,書名を明らかにして頂ければ,私または他の利用者がこれを参照して執筆することも可能と思料致します(書名を覚えていらっしゃらないのであれば,その旨述べて頂ければ結構かと存じます。)。ご検討下さい。--Emonue 2011年2月3日 (木) 14:06 (UTC)[返信]
該当箇所が削除されたようですが、私が持っている書籍を上げておきます。戦記クラシックス日露戦争・近現代史編纂会編・新人物往来社・p112です。返事がとても遅くなり申し訳ありません。(--3rdOfLupin会話2012年3月24日 (土) 13:05 (UTC)[返信]

肉声に関する記述[編集]

要出典範囲タグを削除した編集を取り消しました。理由は,以下の記述について依然として出典が明記されていないからです。

  • 「明治43年(1910年)1月31日に、九段偕行社で加藤清正300年祭に関する相談会があ」ったこと
  • 「その際に乃木を含めた出席者一同が蓄音機に声を吹き込むという余興が行われた。」こと
  • (乃木の声が)「その最初に吹き込まれた」こと

--Emonue 2011年2月2日 (水) 12:51 (UTC)[返信]

--3rdOfLupin 2011年2月2日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

教えて頂いたファイルを聞きましたが,記載されている内容と食い違いがありましたので,記述を修正しました。3rdOfLupinさんにおかれても,もう一度内容の確認をお願い致します。--Emonue 2011年2月3日 (木) 00:17 (UTC)[返信]

旅順攻囲戦[編集]

乃木希典を優秀な司令官とする私と、無能論を展開する松健産婆氏との間で事実上の編集合戦になっております。両論併記かこの項目自体の削除を行う方が建設的だと思いますが、今後の編集方針について皆様のコメントをお願いします。 --3rdOfLupin 2011年7月3日 (日) 05:19 (UTC)[返信]

3rdOfLupinさんは影響力のあるウィキペディアのページで過去の間違った思想を美化するような書き込みを続けてはいけません。 まず、読売新聞が中立な立場で述べたと言うhttp://blogs.yahoo.co.jp/shiraty5027/48077572.htmlについて反論して下さい。 ここで議論を戦わせてから、その後にその内容をウィキペディアに反映させることが読者を混乱させず、より賢明かと思います。 --松健産婆 2011年7月12日 (火) 02:15 (UTC)[返信]

松健産婆氏へ。読売新聞が中立な立場で述べた、と書かれていますが、それはどういう意味でしょうか。--Kokurakinkei 2011年7月22日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

乃木無能論も十分古びた視点だとは思いますが・・・3rdOfLupinさん、乃木が有能(或いは世情言われている無能論への反論なども含めて)であったと主張している文献について、提示は可能でしょうか。私は日露戦争について深い知識を持たないのですが、ここ15年ほどに限っても日露戦争物は「新事実」「新解釈」物が色々出版されてきたと思います。是非Wikipedia:脚注などを活用し、根拠を提示ください。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年7月24日 (日) 06:10 (UTC)[返信]
3rdOfLupinです。逆に聞きますが、司馬遼太郎の偽史を焼きなおしたもの以外に乃木無能論を唱えている書籍はありますか? たとえば大東亜戦争で聖将といわれた今村均も司馬の小説への反論を寄稿しています。当時の写真や従軍記者(乃木大将と日本人など)を見れば、司馬の書いたものが全く事実と異なることは明白です。あなたの名前は近代戦史系では良く見ますが、第一次世界大戦で機関銃陣地の前に歩兵の突撃が何ら意味がない事を多くの将軍が学びました。乃木大将も一度白兵突撃を行い、速やかにその失敗を悟り、塹壕戦を行いました。 乃木が無能なら、西洋の将官は無能の集まりとしか言えないと思います。

3rdOfLupinではないですが、こういった本に詳細に出ています

旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)

別宮 暖朗 (著)

ISBN-10: 4569666051

発売日: 2006/05

--114.160.46.2 2011年7月26日 (火) 15:18 (UTC)[返信]

松健産婆氏の編集について[編集]

最近この人物に非常に執心されているようですが、検証可能性独自研究に抵触する編集が見られます。

例えばこの編集はカギ括弧を足しているだけで脚注とは言えませんし、旅順攻略戦のこの編集は根拠が提示されてません。この編集この編集は個人的感想と見なされて仕方の無いものです。「語り継がれていかなければならない」とか何考えて編集しているんですか?

氏の編集傾向は司馬遼太郎の坂の上の雲に影響されているようにも見受けられますが、まずあれは小説でしょう。司馬史観を無条件で引用自明のものとして使用するならWikipediaでは問題だと申し上げておきます。

>3rdOfLupinさんは影響力のあるウィキペディアのページで過去の間違った思想を美化するような書き込みを続けてはいけません。

などと言う前に御自身が基本的な編集態度を身につけて編集してください。根拠が提示されない場合上記編集は全て除去するのが適当かと考えます。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年7月24日 (日) 05:53 (UTC)[返信]

私は、ウィキペディアの一つの方向性を提案したまでに過ぎません。ファシズムが台頭し軍国主義に向かって突っ走っていた時代の記述は、現代の青少年への影響を考え、慎重かつ繊細に行われるように望みます。上官が立派であれば部下は喜んで死ぬべきであるとでも言わんばかりの記述等はもってのほかです。乃木希典の行動が美化されて後の軍国主義者に利用されたということは、児玉源太郎に関する記録が殆ど残されていない(隠匿または廃棄されてしまった)ことでもよく分かります。

>読売新聞が中立な立場で述べた、と書かれていますが、それはどういう意味でしょうか

「やはり公平を期するために、乃木希典の異なる評価を同じく『日露戦争』からそのまま引用してみたい。」という文章と、末尾の『週刊読売』昭和43年7月21日号より採録、を読み早とちりしました。しかも読売新聞と週刊読売を混同しています。多謝。 したがって、前提案を http://blogs.yahoo.co.jp/shiraty5027/48077572.html の乃木愚将論について反論して下さい、に訂正します。 --松健産婆 2011年8月2日 (火) 01:40 (UTC)[返信]


(ファシズムが台頭し軍国主義に向かって突っ走っていた時代の記述は、現代の青少年への影響を考え、慎重かつ繊細に行われるように望みます)

貴方がこの文面を読んで現代の青少年がファシズムになると思われる根拠を具体的に例示して下さい

(上官が立派であれば部下は喜んで死ぬべきであるとでも言わんばかりの記述等はもってのほか)

櫻井氏の様にそう思って戦った兵士がいた事も事実です。事実を表記してるのにそれを記述するなというのはある意味歴史を改ざんしろといってるのも同じではないですか

(乃木希典の行動が美化されて後の軍国主義者に利用されたということは、児玉源太郎に関する記録が殆ど残されていない(隠匿または廃棄されてしまった)ことでもよく分かります)

貴方がそう言われる根拠、またはそう書いている文献なりを例示して下さい


根拠をちゃんと例示もせずに一方的に貴方の価値観で編集する方が問題があると思います

--114.160.46.2 2011年8月4日 (木) 03:46 (UTC)[返信]

>乃木愚将論について反論

全部反論すると大変な量になるので一部だけ

「乃木希典は三十代の終りごろ、少将のときにドイツの参謀本部に留学し戦術の勉強をしている。そのとき要塞攻撃についても習ったはずであり、げんにフランスの要塞の一部模型がベルリンにあり、見学もしたといわれる」

単純に旅順要塞に代表される3重の塹壕と鉄条網、機関銃と後込連発銃で装備した守備隊の籠る近代要塞(もしくは陣地)を短期攻略する戦術を当時はどの軍隊も持ち合わせていなかっただけです

司馬氏が著書で推薦しているボーバンの攻城戦術などは日露戦争より150年以上も前の戦術で煉瓦の城壁で要塞を囲み先込青銅砲や先込単発銃が武器の主流だった時代の攻城戦術論。日露戦争時時点でも古くて運用できない戦術論です

旅順戦より数年後に起こった第一次世界大戦の西部戦線で両軍は塹壕線を突破する術を見いだせず戦車が登場するまで完全な突破は出来ず死者の山を築きました。

こういった事実を踏まえれば司馬の指摘が如何に外れているか判ります

「要塞攻撃には、攻城砲をふんだんに用いる以外にないということは自明」

これもボーバン時代の要塞での考えで日露戦争時では既に古いです。 旅順要塞は周囲を3重の塹壕線と鉄条網で覆われたまさしく第一次世界大戦の西部戦線の様なもので要所にべトンで周囲を覆った重砲などを配備した保塁があるというもので、要塞全体をべトンで覆っている訳ではありません

こういった要塞だと例え砲撃で第一の塹壕線を破壊して突破しても、第二の塹壕線で時間を費やす間に周囲の保塁から集中砲火を浴び、後方の予備軍に反撃されて撃退されます

そして重大なのは塹壕だと例え破壊されても直に作り直す事が出来るという事です。これがべトンだと一度破壊されると修復は難しくなります

いくら攻城砲で塹壕を砲撃しても土砂が舞うだけでそれ程人的被害は起こりません

ですから第一次世界大戦でもそうでしたが短期日に人的被害を与えるには歩兵の突撃しかありませんでした

「安全圏に居た司令部」

全くのウソです

乃木が司令部を置いた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmで敵の砲撃射程圏内です

だからこそ第一次総攻撃の失敗をすぐさま判断して迅速に中止させるという行為も出来たのです

因みに言えば対する児玉源太郎の満州軍が司令部を置いた地点は前線から50kmでした

あまり長くなるのでここまでにしますが因みに『日露戦争』(読売新聞・1974)とか『週刊読売』 昭和43年7月21日号って大分古い記事ですね

この内容に対して事実誤認や誤りは多々あるので以下の著書を読むことを勧めます。

別宮暖朗 『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2006年5月。ISBN 4-569-66605- --114.160.46.2 2011年8月4日 (木) 07:29 (UTC)[返信]

どのような評価であれ、出典が求められるのがWikipediaです。松健産婆さんはWikipediaは何でないかを全く理解しておられないようですね。
>上官が立派であれば部下は喜んで死ぬべきであるとでも言わんばかりの記述等はもってのほかです。
貴方の個人的な信条を書く場ではありません。
>乃木愚将論について反論して下さい
編集者がソースに対して個人見解を書く場ではありません。これは乃木擁護論についても同様ですが、114.160.46.2さんの場合は既にソースを提示していることが検証可能性を満たす決め手となります。
それよりも問題なのは脚注に見せかけたカギ括弧ですね。わざとやってるようにしか見えず、松健産婆さんの誠実さには大いに疑問がわきます。何故こんなことをしたのですか?岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年8月4日 (木) 14:30 (UTC)[返信]

私がお尋ねした場所は、ここではありません。混同はさらなる混乱を招きますので、然るべき場所に再度記載願います。>松健産婆氏--Kokurakinkei 2011年8月5日 (金) 12:53 (UTC)[返信]

秋○原のド○キホーテの店内で迷い、結局最上階まで行ってエレベーターで一階に降りることが出来て事なきを得たのですが、そのゲームセンターになっている最上階の様子を見て驚愕しました。何十台か並んでいるゲーム機すべてが戦争ゲーム(あるいは戦いをテーマにしたゲーム)であり、多くの青少年が我を忘れてそれに熱中していたのです。 憲法9条があるのに、自衛隊(軍隊)が生まれ、その自衛隊は海外にまで出て行くようになりました。これでもう十分であろうに、今度は憲法9条を改正しようという動きさえ出ています。 乃木や東郷が負けていれば、日本人が第二次世界大戦であのような惨めで酷い目に遭うことはなかったでしょう。日本兵による中国人やフィリピン人に対する残虐行為もなかったはずです。今後も松健産婆は、もちろん真実を基調にして、ウィキペディアを公共の利益に従うように記述するまでです。気に入らなければどうぞご自由に削除して下さい。 当時乃木より格上であった児玉の本件資料がなぜか見付からない。これではあくまでも真相は闇の中である。しかし、乃木が攻めあぐねていた戦場に児玉が督戦に訪れると戦況は一変し、203高地がすぐに陥落したという史実だけは歴然として残っている。 松健産婆 2011年8月8日 (月) 16:00 (UTC)[返信]

おいおい反論して下さいといっといて歩が悪くなると秋葉原やらゲーセンやらを持ちだして反戦論をぶちまけるですか。ゲームで戦いをテーマにする内容のが多いのはどこの思想の国家でもよく見れらる事ではないですか。それを憲法9条持ち出してこられても極論過ぎます。検証できない内容を公共のwikiにだして主義主張を通そうというのははっきり言って戦前とは真逆の「言論統制・思想統制」です。
それと貴方の提示した新聞の乃木無能論に対して私なりの反論をし、検証してもらう為の参考書籍も提示しました。これに対して貴方は意見されてませんがどうしましたか。反論して下さいと言っといて記事の内容に対して反論したのにそれを無視して「今後も松健産婆は、もちろん真実を基調にして、ウィキペディアを公共の利益に従うように記述するまでです」ってどういう事ですか。自分の言ってる事は間違いない、反論は無視ですか。
あと最後の児玉の記述云々ですが何度も言いますが児玉の本券資料が見つからないという貴方の論の根拠を例示してもらえますか。また「乃木が攻めあぐねていた戦場に児玉が督戦に訪れると戦況は一変し、203高地がすぐに陥落したという史実」という一文ですが児玉が旅順に到着する以前より乃木は攻撃目標を203高地に変更していますし、児玉の到着(12月1日)前日に203高地は一度陥落しています(11月30日)。203高地は既にボロボロで再奪取は時間の問題の時に偶々児玉が督戦にきただけです。それに203高地を制圧した(12月6日)以降も露軍は抵抗し、降伏したのは結局要塞正面の各保塁が突破された12月31日の翌日でした。乃木第三軍や児玉ら満州軍の言う通り要塞正面攻略で旅順は陥落したのです。大本営の官僚参謀たちよりも乃木第三軍の方が正しかったというのが貴方の言いようで言う「歴然とした史実」です。
最後に。何度も言ってますが事実だと検証できるようネタ元を表記してください。個人の主義主観を書くのはwikiの公共性に反します--114.160.46.2 2011年8月9日 (火) 02:49 (UTC)[返信]


114.160.46.2様

私はあなたなんか知りませんよ。「おいおい」ってなんですか、数十年来の友人みたいに。(笑)

失礼ながら、ウィキペディアはあなたのようなアマチュアであっても書き込みが出来るので、それなりの歯止めは必要です。 本件がまったくそうだとは言いませんが、戦争オタクみたいな方が史実をも曲げんばかりに、数万にも及ぶ人々を殺し又は殺しあった指揮官を美化して書くようなことがあってはならないのです。 今まで述べてきた通り、あなたには公共の利益に従った記述を強く望みます。 ところで、

>乃木は攻撃目標を203高地に変更

の件、 なぜ乃木は203高地の重要性に気付くのが遅れたのですか?それこそ愚将の紛れもない証左なのでは?

その他は、現在多忙で時間的余裕がなく、順次じっくりと解決していきたいと思っていますので、もう暫くお待ち下さい。

松健産婆 2011年8月10日 (月) 09:08 (UTC)[返信]


既に指摘されていますが無意味な脚注もどきの付加等問題ある編集姿勢について質問しているのにそれに回答しないこと自体が悪質でしょう。
>ウィキペディアを公共の利益に従うように記述するまでです。
貴方の個人信条を書き連ねる場ではありませんと申し上げているはずです。これ以上同じ主張を繰り返すならコメント依頼にかける必要がありそうですね。
>真実を基調にして
Wikipediaは真実を追究する場ではありません。独自研究検証可能性をもう一度お読みください。また仮定に基づく推測は史実とは言いません。
>ウィキペディアはあなたのようなアマチュアであっても書き込みが出来るので、それなりの歯止めは必要です。
Wikipediaに職業の貴賤はありません。レイシズムの持込はお止めください。それに、貴方が何の職業か明らかにしても無いのに都合が悪くなるとすぐにオタクだからといったレッテルを貼るのは見苦しいですよ。そもそも、それが差別的な考えですねぇ。大体プロならしかるべき発表の場が幾つもあるはずですが。
>数万にも及ぶ人々を殺し又は殺しあった指揮官を美化して書くようなことがあってはならないのです。
仮に乃木が無能なら相対的にロシア軍が有能だったというだけの結論にしかならず殺し合いと言う本質は変化しませんが?乃木個人の能力を云々しても「平和思想」とやらにはかすりもしないですがね。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年8月10日 (水) 21:04 (UTC)[返信]



>乃木は攻撃目標を203高地に変更

203高地が実はさほど重要でない拠点だったから乃木は攻めなかったし満州軍司令部の大山や児玉は乃木第三軍の要塞正面攻略案に賛同したんです

松健産婆さんはおそらく坂の上の雲やその内容に沿った書籍しか読まれていないようですが大山巌や児玉源太郎は旅順攻略戦が始まってから終わるまで終始第三軍の要塞正面攻略を支持しています

しかし中央の大本営は海軍側の意見に押され203高地主攻案でした

2つの上層部の意見の食い違いに現場の第三軍は混乱し、第三次総攻撃で妥協的に203高地も攻略する形になったんです

さて203高地の重要性云々を貴方は言ってますがそれは詰まり

「旅順港を見渡せる唯一の拠点でありここに観測点を設置して湾内の旅順艦隊を砲撃して撃沈すれば目的は達成できる」

ということですか

それならはっきりいって間違ってます

まず旅順港を見渡せる唯一の地点ではありません

総攻撃前に制圧した大弧山から殆どが見渡せ、攻撃前に観測射撃を実施、レトヴィサンに命中弾を与え旅順艦隊を出撃させ黄海海戦の発端を作っています

第二次総攻撃前の前哨戦で得た南山披山からも観測できそれによる砲撃で湾内のおおかたの艦艇に命中弾を与えています

203高地なんかとらなくても観測射撃は充分可能です

次に旅順艦隊ですが黄海海戦から帰還した艦艇は大きく破壊されており戦艦セバストポリ以外の艦艇は修理が旅順港では出来ずほぼ廃棄の状態でした

セバストポリも外洋航行が可能な程度まで修理できたのみで本格的交戦は難しい状況です

第一次総攻撃前に既に旅順艦隊は壊滅していたんです

しかしロシア軍は降服しませんでした

要塞にとって艦隊の存在が自分たちの戦う理由ではなかった証左です

艦隊殲滅=要塞降伏=目的達成

ではないんです

203高地の重要性なんて海軍とそれにのった大本営が勝手に吹聴したフィクションでしかありません

では12月1日に児玉が旅順に来たとき、なんで今まで推していた要塞正面攻略案を捨てて203高地攻略を推したのか。これは児玉が203高地を攻撃するべきといった目的が大本営や海軍の言う観測点云々と違うからです

要塞正面攻略で一番第三軍が困ったのは要塞の予備兵力による逆襲です。いくら塹壕線を突破し陣地を制圧しても周囲の堡塁の砲撃と連携したロシア軍の逆襲にあい追い返されました。児玉は203高地に固執して増援を繰り出すロシア軍の動きを見てここを敵予備兵力を消耗させる「決戦場」とし、この後の要塞正面攻略を有利にしようと考えたのです。そして児玉が来るより前に乃木はそう決断し203高地攻撃を始めており児玉到着前日に一度は203高地を攻略しています。児玉が来るまでもなく203高地は近いうちに乃木によって攻略していました

結果203高地戦で予備兵力を枯渇したロシア軍は続く要塞正面攻勢を防ぎきれず突破され降服しました

203高地からの観測射撃は命中弾こそ与えられましたが既に廃棄された艦艇ばかりですし、旅順戦後の調査で各艦の船底は破られておらず砲撃による撃沈は無かった事が陸軍省の調査で解っています(海軍側の調査では全艦艇のキングストン弁が開いていたそうです)

203高地の重要性は松健産婆氏のいう意味と全く違った意味で存在し、乃木も児玉も理解してました

出典は前の投稿で提示させてもらったのと同じです--Thsbhseven 2011年8月11日 (木) 00:03 (UTC)[返信]


岩見浩造さんが大方の事をおっしゃって下さったので余り言いませんが


「戦争オタクみたいな方が史実をも曲げんばかりに、数万にも及ぶ人々を殺し又は殺しあった指揮官を美化して書くようなことがあってはならないのです」
ですから史実を曲げているというならその根拠を言って下さい。また根拠としている出典先を明記して下さい。根拠の出せない「史実」を振りかざして自分の価値観を正当化するのはやめて下さい。数万にも及ぶ人々を殺し又は殺しあった指揮官を美化して書くなというなら世界中の軍人は勿論、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、楠木正成、源義経、といった歴史の人物達も英雄的に書いてはいけないという事ですね。履歴を見る限り何故か乃木希典しか編集してない貴方にそんな事を言われても信憑性がありません。もっと他の所でもその様な主張をしているのであればwikiとして良い悪いは別にして少しは納得できますが乃木希典でしか主張なされてないので個人的感情でなされてるとしか思えません。


「あなたには公共の利益に従った記述を強く望みます」
私の記述で公共の利益に沿わないものがありましたか。乃木関連でも貴方がこのノートに書いたことへの出典を求める投稿と貴方の提示した乃木愚将論の記事への反論要請に反論させてもらった事。乃木自刃に対する反応での根拠となる出典が提示されてない文章の削除ぐらいですが…。貴方との論争で私の反論にまともに返答してないのに「貴方の記述は公共の利益に沿わない」と一方的におっしゃる訳ですね。卑怯ですね。
まともに反論できないので一方的に相手を批難して話を終わらせようという貴方の態度は見苦しいものがあります。人を軍事オタクのアマチュアというなら貴方はそれすら論破できない知識で公共性があるとあなたのいうwikiで見る人に影響を与えようとする素人さんという事ですね。


「現在多忙で時間的余裕がなく、順次じっくりと解決していきたい」
こういうタイプの人は多分そう理由付けてそのまま消えてしまうと思うのは私だけでしょうか。

--114.160.46.2 2011年8月12日 (金) 03:12 (UTC)[返信]

松健産婆氏の提示した記事の反論[編集]

(攻城戦らしい作戦を一度も樹てたことがなく、当時の日本軍としては、ふんだんに火砲をもたされていながら、機略的に効果のある砲兵の用兵をせず、ただむやみに歩兵を要塞にむかって突撃させ、要塞砲と機関銃の餌食にすることをつづけたという戦いである)

まず日露両軍の兵力をちゃんと調べてみましょう 第一次総攻撃時点で 露軍 2個師団4万4千人 旅順艦隊の将兵1万2千人 軍属その他7千人

日本軍 3個師団1個後備旅団他5万1千人

これから見ると日本側がそれ程有利な兵力でない事が判ります。地上部隊では互角程でしかありません

ふんだんに火砲を第3軍が持っていたというのも事実誤認です

攻城戦の為に重砲の配備は受けていますがこの兵力差の攻城戦を覆すほどではありません


また「作戦を一度も云々」のくだりは素人論です

第一次総攻撃の失敗の要因は準備不足、敵情把握不足の為延期を求める第3軍に対して早期攻略を求めた(この時点での早期攻略とは強襲しかない)大本営の指示ミスです

そして乃木は総攻撃失敗を知るとすぐさま攻撃を中止しました

これは軍司令部を前線近くに配置し状況把握をしやすいようにしていたからです。(後述されてるような司令部を後方に置いたという批難は全くの事実誤認です)

そして正攻法による攻撃変更を決断し実行します。(これは当時の世界の軍編制からしたら極めて柔軟な対応で、数年後のww1での西欧列強が塹壕線突破に失敗して大量の死傷者が出ても作戦の根本的変更もせずに続けさせ死傷者を激増させたのと比べたら雲泥の差)

この結果、第二次総攻撃以降は日本側の損害が露軍を上回る事はありませんでした

極めて柔軟な作戦指導をしています

なお要塞正面の攻略にこだわったのは何故か

それは203高地を攻略して観測点を手に入れても既に第一次総攻撃前から港湾部への砲撃を大孤山からの観測でしており無意味だったからです

総攻撃前に行われた砲撃で戦艦「レトヴィサン」に命中弾があり、結果出撃する事になり黄海海戦が発生しました

203高地なんていう当初は守備兵力も殆どない所を攻撃しても何ら意味が無かったのです

砲弾残数に限りがある日本軍としては敵兵がいるか判らず命中しても土砂が舞うだけでそれ程敵兵を殺傷できない203高地の簡易陣地を攻撃するより、確実に兵士がおり(露軍は保塁内に宿営施設を造っていた)砲撃してぺドンの陣地を破壊したら多くの兵士を殺傷できる要塞正面を攻撃した方が効率が良いんです

前述したように第二次総攻撃以降は日本軍の損害は露軍を上回らず、確実に消耗させていた訳ですから第三軍が取った戦術は当時としては有効な方法だったんです

ですから第3軍を始め、満州軍の大山や児玉も要塞正面攻略を終始支持していたんです(児玉が203高地攻略を支持していたというのは創作)


「要塞攻撃には、攻城砲をふんだんに用いる以外にないということは自明」

ボーバンの攻城論が書かれたナポレオン戦争時代はそうですが日露戦争の100年以上も前の話です。日露戦争時の兵器や陣地にはまったく当てはまらない古い考えです

これを出してくるあたり司馬の軍事知識がどの程度か、どれだけ浅いか判ります

他者が書かれてますが旅順要塞はの¥ぺトンで覆った独立式保塁を3重の塹壕線と鉄条網で繋いだ防衛線を3重に配した構造です 塹壕にいくら砲撃しても土砂が衝撃を吸収してそれ程損害を与えられないし簡単に修復されてしまいます

そして砲撃後に突入しても生き残った数名が機関銃で反撃するだけで簡単に撃退されてしまいます

ww1の西部戦線と全く同じ状況です。攻城砲をふんだんに用いてもこの時代の要塞・陣地は落ちません。海軍の砲を投入したら早期攻略で来たとは思えませんし28サンチりゅう弾砲と違い陸地での運用を考慮されていない艦砲を持ち込んでも設置に28サンチ砲以上に手間暇をかけるでしょうから尚更必要ないでしょう



「それでも敵の要塞の火網をどんどんとくぐりぬけた運のいい小部隊が、要塞の背後ともいうべき望台にまで到着し、岩かげにとりついていたのである。その岩かげの小部隊に対しもっと増援をして旅順市街に突入させれば、状況が変っていたことはたしかで、しかもその岩かげの小部隊を指揮していたのは、下級将校ではなく、旅団長の一戸兵衛少将であった。かれは戟術眠からみて、白分のこの小部隊を増強してくれればなんとかなると思っていたのに、後方の軍司令部から退却命令がきたのである」

まったく当時の第三軍の兵力を把握していない暴論ですね

第1回総攻撃時点で兵力的に余裕のない第三軍に一戸旅団に増援を回すだけの余力はありません

それに近代要塞の防衛戦では例え攻撃側が第一防衛線を突破して食いこんでも周囲の保塁からの集中砲撃と後方の予備兵力による逆襲で簡単に撃退出来ました

それでも史実では乃木は攻撃の失敗した第1、11師団を増援に振り向けています

それが上記の様に集中砲火を受けて損害を出す結果となり一戸の占領した播龍山東西保塁の維持のみで終わり更に前の望台占拠は失敗しました

この記事の文面自体事実と反しています

乃木は援軍を送っていますし一戸が占拠した播龍山保塁は撤退せずに維持しています


「要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割るときに条理を見出L、そこに黎を入れてゆくということと同じである」

これも全く素人論です

上記の通り要塞攻略法は「弱点攻撃」ではありません

弱点があってもそこを攻撃して突破すればここぞとばかりに防衛側は集中砲火と予備兵力の逆襲で撃退するというのが近代要塞線です(ww1でもまさにそうなった)

前述しましたが戦車も飛行機もないこの時代の要塞の短期攻略は消耗戦しかなかったんです

そして砲撃にも限度がある以上、一番の決め手は歩兵による正攻法しかなかったんです

なんでこんな近代軍事常識に反する「弱点攻撃」なんて事が日本にまかり通ったかというと、この記述は「機密日露戦史」に書かれている事なんですが陸軍大学校の教本とて作られたものなので「大本営参謀」よりに書かれていました

当時大本営は「203高地こそ旅順要塞の弱点」として攻略を要請し続け、半ば強引に進言し続けました。結果乃木が折れ203高地攻略を開始し12月頭に攻略します。

しかし要塞は降伏せずなお1カ月近く抵抗しました

203高地が弱点でない事は事実が物語っています

しかし大本営参謀を育てる教本が大本営が前線部隊を混乱させ、結果大本営が誤りだったとは書けず、「児参謀長は大本営と意が同じで間違った判断をしている第三軍に態々出向いて指導し、203高地という弱点を攻略させて勝利を手に入れさせた」という筋書きにしたのです

事実に反する内容ですがこれが後年の日本軍に浸透し近代要塞戦を理解しないままガダルカナル等で弱点攻撃をして大失敗しつづけます。そして戦後も司馬がその内容を鵜呑みにしてしまいました

この時代で「弱点攻撃」が勝利の秘訣と信じる人は軍事史に素人としか言えません

出典は他者のと同じく 別宮暖朗 『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2006年5月。ISBN 4-569-66605 --Thsbhseven 2011年8月8日 (月) 03:00 (UTC)[返信]

本文組み込みの際は、脚注もどきの除去の他に、週刊読売だけではなく、坂の上の雲に対する批判として提示したほうがいいかなぁとちょっと思いました。提示された本についてはまだ見れていませんが、別宮氏のことなので日本海海戦の本と同じく事実上坂の上の雲への逐条批判と見受けますが、その辺は如何でしょうか。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年8月8日 (月) 11:30 (UTC)[返信]
この本は文庫本なんですが元々カバー本で出た際のタイトルは(「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦  乃木司令部は無能ではなかった)です。
ですので日本海海戦の本と同じく主に坂の上の雲の逐条批判もしているのですが何方かというと坂の上の雲で司馬が主に引用している谷寿夫著の「機密日露戦史」という実際陸軍大学校で使用されていた日露戦争の資料の内容の誤りを正しています
それに旅順戦だけでなく日露戦争前後の諸戦争(第一次世界大戦や露土戦争)の似たような状況下の会戦も紹介し比較等もしています(主に第一次世界大戦の主な会戦を例示)
一度書物の内容を読んでみてください--Thsbhseven 2011年8月8日 (月) 13:31 (UTC)[返信]
3rdOfLupinです。久しぶりに来ました。私は乃木希典という人を深く尊敬しており、到底の読者のために平等ななる記事が書けないと思い、今まで小修整しかしてきませんでした。まつけんさんば氏の出鱈目があまりに酷いので、私流に編集してしまいました。個人的には別宮氏の著書が正しいとは思わないのですが、満州軍も第三軍も東北正面の攻略を狙っていたのに、乃木は馬鹿、児玉は天才という風説に耐えがたく、一部編集したものであります。ウオシュバンの記録や当時の写真を見れば、第三軍が塹壕戦を行ったのは明白なのに、ただ白兵の突撃を敢行したという出鱈目にもいい気分がしていませんでした。私は極力編集しないようにしますので、公平な第三者により適切な記事が書かれる事を祈っております。

日付を残す方法を忘れました。失礼(笑)。

「旅順攻囲戦における乃木の評価」について[編集]

この節についてタグを貼りました。 内容量が非常に多いですが、該当する内容は「旅順攻囲戦」に記載されるべきで、 「乃木希典」のページには存在しなくて良い、ないしはシンプルな内容で良いと思います。 読者は概観を読めば乃木について名将論、無能論が存在することが理解できます。 他の編集者のご意見をお願いします。 --Feynoobs会話2012年6月23日 (土) 14:27 (UTC)[返信]

同意。 ここは乃木vs司馬じゃないので簡素でいいのでは? 軍人としての乃木の詳細はそれぞれの戦役を見ればいいでしょう? --3rdOfLupin会話2015年10月16日 (金) 16:01 (UTC)[返信]
乃木希典旅順攻囲戦
ここは司馬史観を検証する場所ではないので旅順攻囲戦でやってほしい--3rdOfLupin会話2015年10月16日 (金) 16:16 (UTC)[返信]

男爵「授爵」[編集]

報告 白拍子花子会話 / 投稿記録 / 記録さんによって、2012年10月6日 (土) 04:45 (UTC)に記事が編集され、「栄典」節が「明治28年(1895年)8月20日:功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵授爵」との表記になりました。当記事の記事名が「乃木希典」である以上、記事内の年表の記述は当該人物を主語とした記述となるのが自然です。ですが、白拍子花子会話 / 投稿記録 / 記録さんのこの表現では、当該人物を主語にすると「乃木希典が明治28年に男爵を授爵した」ことになってしまいます。乃木閣下が明治28年に授爵した事実はありませんので、該当記述を除去しました(「授爵した」とは「爵位を授けた」ということですが、明治時代の日本で授爵したのは明治天皇くらいでしょう)。なお、複数アカウントにて類似の編集行為が確認されておりますが、今回の件も当該ページに報告済みです。--Nnkrkrhhdi会話2012年10月20日 (土) 12:30 (UTC)[返信]

3rdOfLupindの偽物[編集]

3rdOfLupindだが本当に久々に来たんですが僕の偽物が暴れてる? 確かに僕は乃木を尊敬してるけど一部根拠もないことは言った覚えないよ?根拠があれば乃木無能論でも当然OKだし煽ったりもしない。署名なしは気にしない偽モンなんで --3rdOfLupin会話2015年10月16日 (金) 16:01 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

乃木希典」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月24日 (日) 19:06 (UTC)[返信]