ノート:マニラ大虐殺

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未追加のリンクです。追加をお願いします。es:Masacre de Manila, ko:마닐라 대학살, tl:Masaker sa Maynila, zh:馬尼拉大屠殺--Clarin 2007年10月22日 (月) 14:14 (UTC)[返信]

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恣意的な項目名に対して[編集]

マニラ市街戦を大虐殺とする言説は少数意見です。その旨を記述することを要求します。 マニラに残っていたのは海軍部隊一万余名のみで優勢なアメリカ軍との戦闘中に無意味な虐殺をしてる余裕などあるはずもありません。もちろん米軍に支援されたフィリピンゲリラとの戦闘や巻き込まれた市民の犠牲はありましたが。--Tabunoki 2007年12月19日 (水) 04:05 (UTC)[返信]

マニラで10万人といわれる死者が出たのは、アメリカ軍の艦砲射撃と空爆の結果です。広島と長崎に原爆を落としたときと同じく、アメリカ軍は戦闘後に『艦砲射撃や空爆をマニラ市街に対して行わなかった場合、(マニラに上陸するにあたり)アメリカ軍にはさらに多数の死者を出しただろう』と、公式の犯行声明(言い訳?)をきちんと出しています。なにやら、日本軍が色々と虐殺したようなことをいっている人がいるようですが、アメリカ軍がマニラを焼け野原にする過程は何十時間も(当のアメリカ軍が記録した)フィルムに残っていますし、当の生き残りのフィリピン人が見ています。(『牧師にだってアメリカ兵は止められない』・・等の発言)日本軍は銃の弾に事欠く始末でした。(全戦闘期間に10数発しか弾を持たなかった日本兵もいたらしい・・)
聖パウロ大学(その中の教会に現地人が戦闘を避けて立て篭もっていた)にアメリカ軍が艦砲射撃を加えそこにいた人間が全員死亡した時刻は、現在ほぼ正確に判っています。サンチャゴ監獄等で多数の現地人の死体が見つかったのは事実ですが、その時にはアメリカの空爆や激しい戦闘が始まっており、さらに戦闘後に日本兵は全員殺害されているわけで、誰が誰を殺害したという証拠は何も残っていないような状況です。
ちなみに、かなりの数の日本軍(マニラに残っていた日本軍の多くは、正式な軍人ではなく一般市民を徴収して銃を持たせただけの市民だったのですが)はアメリカに投降したのですが、臨時の捕虜収容所の水飲み場に並べられて、アメリカ兵から銃を渡されたフィリピン人に処刑されるなどして殺されています。(NHKの全国放送に銃殺した当事者が出て堂々と証言いたのには驚きましたが・・)常識的に、生身の人間・数万の軍隊(市民?)が一人残らず死亡する(玉砕?)などプロパガンダ(Propaganda)以外ではありえない訳ですが、実際に全滅?したのはこういう原因があった訳です。
日本軍が女性を強姦したケースですが、マニラ軍事法廷で中国系女性が証言しています。曰く、『日本軍に暴行され、銃で刺され、歩くことも出来ず、子供も生むことも出来ない体にされた』との事です。(なぜかマニラ裁判でアメリカ軍は、証言人の半分以上を中国系の人間で構成しました(=嘘を簡単につくから?))しかし、その女性の体に怪我は無く、子供も数人生んでいて、立派に歩いている。そのことを日本側の弁護団は指摘したのですが、アメリカ人の裁判官に『日本人に抗弁する権利など無い』と言い、中国系の女性の証言をそのまま取り上げました。
日本側の抗弁が何一つ取り上げたれることの無い状況の中で、多くの罪が日本軍にあると結論付けられました。(聖パウロ大学・北部墓地・サンチャゴ監獄における集団殺害というのはマニラ軍事裁判で取り上げられなかったように思いますが、どこから湧いて出た言葉なのでしょうか。東京裁判におけるフィリピン代表裁判官のジャラニラ判事はその発言等から相当な日本嫌いで知られていますが、その辺に原因があるのかもしれませんね。)この裁判は非公開(アメリカ本土へは一切伝えられなかった)だったのですが、傍聴していたイギリスの新聞記者は『この裁判を見ていたら誰がこの戦争で悪かったのか良くわかる。正常なアメリカ人が見たら発狂するだろう』と述べています。上記の記事はマニラ軍事法廷に関する当事者が記した書籍が複数残っていますので、図書館で借りるだけで簡単に確認できると思います。ちなみに、2007年に放送されたNHKの番組で、日本軍にレイプされ、爆弾で吹っ飛ばされた上、倒れたところを銃剣で串刺しにされたと証言した中国系の女性の証言が中継されました。彼女は2007年現在、外傷も無く至って元気でした。
恣意的な項目名の件も問題ですが、以前このページにはかなり膨大な文献等の資料があったように思うのですが、恣意的に?それらを削除した人がいる点、そちらも問題だと思います。

--某労働組合員 2008年1月2日 (水) 15:56 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

本項目の恣意性を廃止マニラ市街戦とすることを提案します--Tabunoki 2007年12月19日 (水) 04:07 (UTC)[返信]

改名には反対です。
第一に、この記事は「マニラ市街戦」に該当するものではありません。この記事に該当する他言語版の記事はen:Manila massacreです。「マニラ市街戦」に該当する記事はen:Battle of Manila (1945)であり、日本語版の記事はマニラの戦い (1945年)です。
第二に、ウィキペディアにて歴史論争は必要はありません。ウィキペディアンは歴史家でも歴史の専門家でもありません。ですから、そのような議論は部外で行なわれるべきです。世界には、あったという意見と、なかったという意見の両方があります。そのような両方の意見のバランスをとって記述することは大切ですが、あったとされる主張もあるのですから、そのような意見を根本的に無視するような記事名に改名すべきではありません。--Clarin 2007年12月21日 (金) 08:56 (UTC)[返信]
今新しくマニラの戦いを作ったわけですね。これならば保護を回避できますし悪くない解決策だと思います。改名提案は取り下げておきました--Tabunoki 2007年12月21日 (金) 12:41 (UTC)[返信]
マニラの戦い (1945年)を立てたのはわたしとは別人物です。念のため。--Clarin 2007年12月21日 (金) 12:59 (UTC)[返信]