ニーナ・ハムネット

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ニーナ・ハムネット
(画)ロジャー・フライ

ニーナ・ハムネット(Nina Hamnett、1890年2月14日 - 1956年12月16日)はイギリスの芸術家である。第一次世界大戦まで、パリの芸術家たちの中で暮らし、有名な画家の絵画のモデルとなった。

略歴[編集]

ウエールズ南部のテンビーで軍人の娘に生まれた[1]。16歳でペルハム美術学校で学んだ後、ロンドン美術学校で1910年まで学んだ。その後第一次世界大戦まで、パリで、ロシアの女性画家、マリエ・ワシーリエフ(Marie Vassilieff)が設立した美術学校に学んだ。有名な画家たちの集まった、パリ、モンパルナスラ・リューシュにスタジオを作り、多くの有名な芸術家たちと付き合った。当時交流があった芸術家には、アメデオ・モディリアーニジャン・コクトーセルゲイ・ディアギレフパブロ・ピカソらがいた。自由奔放な生き方で、パリのボヘミアン・アーティストの中で有名となり、多くの芸術家のモデルとなった。ピカソは、カフェ・ド・ラ・ロトンドのテーブルの上で裸で踊るのを見て、「ボヘミアンの王」(La reine Bohème)と呼んだ。パリでノルウェーの芸術家、クリスティアン(Roald Kristian)と出会い結婚した。

イギリスに戻った後、1917年から1918年の間はウェストミンスター技術学校で教えた。私生活ではノルウェー人の夫と別れ、作曲家のモーラン(Ernest John Moeran)と暮らし、後には画家のロジャー・フライと協力的な関係となった。フライは芸術家や学者からなる組織ブルームズベリー・グループの重要なメンバーであった[2]

1932年に、フランスでの生活を描いた自伝、"Laughing Torso" を出版し、これはイギリスとアメリカ合衆国でベスト・セラーとなった。この自伝の中でイギリスのオカルティスト、アレイスター・クロウリーを黒魔術の実行者として紹介して、クロウリーはハムネットと出版社を告訴して裁判となった。この裁判はクロウリーが敗訴し、資産を失うことになった。

長年アルコール漬けの生活を送り、1956年12月、ロンドンの自室の窓から転落して死亡した[3]

ハムネットがモデルの作品[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 1901 England, Wales & Scotland Census Transcription
  2. ^ Omega Workshops
  3. ^ Red Flame: "Nina Hamnet (1890-1956)"”. 2004年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年5月25日閲覧。