ドロシー・ストラットン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドロシー・ストラットン
Dorothy Stratten
本名 Dorothy Ruth Hoogstraten
生年月日 (1960-02-28) 1960年2月28日
没年月日 (1980-08-14) 1980年8月14日(20歳没)
出生地 カナダの旗 カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバー[1]
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
身長 175cm[1]
職業 モデル女優
配偶者 ポール・スナイダー英語版(1979年6月1日 - 1980年8月14日)(双方の死亡)
主な作品
ニューヨークの恋人たち
テンプレートを表示

ドロシー・ストラットン英語: Dorothy Stratten, 1960年2月28日 - 1980年8月14日[1])は、カナダ出身のプレイメイト女優

PLAYBOY誌1979年8月号のプレイメイト、1980年のプレイメイト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた[1]。当時のサイズは身長175cm、体重56kg、B91-W61-H91cmであった[1]。1960年代生まれのプレイメイトはリー・アン・ミッシェル英語版に次いで2人目。3本のコメディ映画に出演し、少なくとも2本のテレビドラマに出演するなど女優として活躍するが、20歳で別居中の夫でマネージャーのポール・スナイダー英語版に射殺される。ポールも犯行直後に同じ銃で自殺した。彼女の死にインスパイアされた映画が2本撮られた[2]

経歴[編集]

ストラットンはバンクーバー救世軍病院で、オランダ移民であるサイモンとネリーのホーホストラーテン夫妻の子として産まれた[3]。出生名はドロシー・ルース・ホーホストラーテン (Dorothy Ruth Hoogstraten)[3]。1961年に弟のジョン・アーサーが、1968年5月に妹のルイーズ・ストラットンが生まれている。

1977年、コキットラムのセンテニアル高校に通いながらファーストフードチェーン「デイリー・クイーン」でアルバイトをしていた17歳の時、当時26歳でバンクーバーのクラブ・プロモーター兼ポン引きだったポール・スナイダーと出会い関係をもった。後にスナイダーは専門家に撮らせた彼女のヌード写真を「PLAYBOY」に投稿、当時ストラットンは18歳未満であり、母親のネリー・ホーホストラーテンがモデル契約の署名を拒否したため、ネリーの署名は偽造された[3]

1979年、スナイダーと共にロサンゼルスへ転居。 ストラットンに改名した後、PLAYBOY誌1979年8月号のプレイメイトとなり、センチュリーシティー・プレイボーイ・クラブでバニーガールとして働き始める。ヒュー・ヘフナーはジャンルを超えて女優として成功して欲しいという、高い期待をストラットンにかけていた[3]。テレビドラマシリーズ『バック・ロジャーズ』と『ファンタジー・アイランド』にゲスト出演、また1979年のローラーディスコ・コメディ『Skatetown, U.S.A.』に端役で出演した。

1980年、プレイメイト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。SFパロディ映画『ギャラクシーナ』でタイトル・ロールを演じた。

ヘフナーはスナイダーを「詐欺師でヒモ」だと言い、たびたび縁を切るよう促している[3]ロザンヌ・ケイトン英語版等の友人たちもスナイダーの振る舞いに注意するよう警告していた。ストラットンは彼女の最初にして唯一のメジャー映画『ニューヨークの恋人たち』撮影中にピーター・ボグダノヴィッチ監督と交際を始める。スナイダーは彼女を監視させるため私立探偵を雇った。ストラットンは離婚を申請する決意をしてスナイダーと別居し、ボグダノヴィッチ監督と同棲生活を送っていた。

殺害[編集]

ドロシー・ストラットンの墓

1980年8月14日、正午を少しまわった時刻にスナイダーとストラットンはスナイダー宅で会った。その家はかつて2人が暮らした場所で、2人の共通の友人であるスティーブン・カシュナー博士と共有していたものだった。 ストラットンは離婚について友好的に話せるよう、スナイダーに渡すための1,000ドルを用意していた[3]

午後11時00分頃、スナイダーの私立探偵が専用回線でカシュナーを呼び出し、スナイダーに何時間も電話をかけているのに出ないと告げた。カシュナーはスナイダーの部屋に侵入し、ショットガンに撃たれて死んでいる2人を発見、 遺体は双方とも裸であった。 警察はスナイダーがストラットンを強姦した上で射殺し、死体にも凌辱を加えた後、同じショットガンで自殺したと判断した[3][4]

ストラットンは、ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークに埋葬された。

死後[編集]

映画評論家のヴィンセント・キャンビーは1983年に「ストラットン嬢はスクリーン上で魅力的な存在で、時間と仕事に恵まれれば一流の喜劇女優になったかも知れない。」 と書いている[2]

ストラットンの殺人事件を描いた2本の映画が製作された。まず1981年にはテレビ映画『Death of a Centerfold: The Dorothy Stratten Story』が制作された。主演はジェイミー・リー・カーティスである。1983年にはボブ・フォッシー監督で『スター80』として映画化された。本作ではマリエル・ヘミングウェイがストラットンを、エリック・ロバーツがスナイダーをそれぞれ演じている[2]。なお本作は、彼女が殺害された実際の現場を使って撮影されている。

1984年、ストラットンと交際していたボグダノヴィッチは『The Killing of the Unicorn』と題した著作で彼女について語っている。その4年後に49歳でボグダノヴィッチはストラットンの妹ルイーズと結婚した。ルイーズは20歳であった。ボグダノヴィッチはストラットンの死後、ルイーズの私立学校とモデル教室の授業料を支払っていた[5]。彼らは13年間連れ添ったが2001年に離婚した。

同郷のミュージシャンであるブライアン・アダムスは彼女をテーマに、1980年Prismのヒット曲となった「Cover Girl」、そして自身のアルバム『Cuts Like a Knife』 (1983年) に収録された「The Best Was Yet to Come」をジム・バランスと共に作った。この曲は後にローラ・ブラニガンがカバーした。

ボングウォーターは「Nick Cave Dolls」という曲でストラットンに言及している。またレッド・ホット・チリ・ペッパーズの「カリフォルニケイション」でも「最初に生まれたユニコーン」として表されている。ギャヴィン・ロスデイルブッシュのアルバム『The Science of Things』(1999年) の1曲「Dead Meat」で「ドロシーはあなたの快楽のために死んだ」と歌っている。

出演作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Playmate data”. 2012年8月22日閲覧。
  2. ^ a b c Vincent Canby (1983年11月10日). “SCREEN: 'STAR 80,' A SEX-SYMBOL'S LIFE AND DEATH”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F00E1DD1539F933A25752C1A965948260&sec=&spon=&pagewanted=all 2012年8月22日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g Theresa Carpenter (1980年11月5日). “Death of a Playmate” (PDF). The Village Voice. http://www.teresacarpenter.com/voice_playmate.pdf 2012年8月22日閲覧。 
  4. ^ Biskind, Peter (1998). Easy Riders Raging Bulls: How the Sex-Drugs-and Rock 'N Roll Generation Saved Hollywood. Simon & Schuster. pp. 388, 389. ISBN 0-684-80996-6 
  5. ^ Chris Nashawaty (1994年8月12日). “The Centerfold Murder: Playmate Dorothy Stratten is found murdered”. Entertainment Weekly (EW.com). 2012年8月22日閲覧。

外部リンク[編集]

先代
ドロシー・メイズ
プレイメイト
1979年8月
次代
ヴィッキー・マッカーティ