ドルジバル

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ドルジバルモンゴル語: Dorǰibal1315年 - 1354年)は、14世紀前半に大元ウルスに仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)

元史』などの漢文史料では朶爾直班(duǒěrzhíbān)と表記される。

概要[編集]

ドルジバルは建国の功臣ムカリの子孫の一人で、祖父は黒竜江流域への進出で著名なシディ、父はベルケ・テムルといった。ドルジバルは幼くして父を亡くしたために従祖母の下で育てられ、長じるとムカリ家当主で右丞相(中書省の長)も務めたバイジュの下で書を読み漢文に通暁した。なお、後にバイジュが南坡の変によって謀殺されると、面倒を見てもらった恩義からかドルジバルはその子のドルジの助命に奔走している[1]。14歳の時よりトク・テムル(後の文宗ジャヤアト・カアン)に仕えると、ドルジバルは漢文に通暁することから重用され、尚衣奉御から工部郎中に任じられた[2]

元統元年(1333年)、監察御史となると、時の皇帝ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に対して祖先祭祀や政治に関わる「五事」について陳情した。また、この頃大元ウルスでは災害が多発していたことから、被災者への支援・財政改革・余剰官員の削減などからなる「九事」を上奏した[3]。また、ドルジバルは監察御史として朝廷で大きな権勢を振るっていたチベット仏教僧を弾劾し、権臣タンキシュの苛政によって苦しんでいた漷州の民を法に基づいて救ったため、民から大いに喜ばれたという。朝廷に帰った後、タンキシュはドルジバルに面目を傷つけられたとして怒ったが、ドルジバルは「私は法を奉ることを知るのみにして、その他の事は知らない」と答え、タンキシュの不法行為を弾劾した[4]

至正元年(1341年)、学士院から翰林学士とされ、経筵の事に携わるようになった。その後、大宗正府イェケ・ジャルグチ(也可札魯火赤)に移った時には、公正な議論を行うことから同僚から「神人である」と評されたという。また、江南行台治書侍御史・江西行省左丞にも任じられたが、病を理由に任地には赴かず、黄厓山で療養した[5]。至正5年(1345年)には中書参知政事に任じられて中央の中書省に入り、『至正条格』の編纂にも携わった。

至正7年(1347年)、右丞相ベルケ・ブカが監察御史の弾劾によって失脚したため、ドルジバルも含む高官たちは揃って辞職した[1]。この時、ウカアト・カアンは辞職しないようドルジバルに働きかけたが、遵法精神を尊ぶドルジバルはこれを謝絶し、ウカアト・カアンはこれを泣いて見送ったという[1][6]。その後、遼陽行省平章政事に移った[7]

1350年代より河南地方において紅巾の乱が始まると、ドルジバルは中書平章政事として叛乱鎮圧に当たった[8]。ドルジバルは当初丞相のトクトと協力して叛乱鎮圧に当たっていたが、トクトの弟のエセン・テムルを弾劾した事を切っ掛けに対立して湖広行省に左遷され[9]黄州の蘭渓駅で40歳にして亡くなった[10]

ドルジバルにはテグス・テムル(Tegüs temür/鉄固思帖木而)・ドルゲン・テムル(Dürgen temür/篤堅帖木而)という2人の息子がいたと伝えられる[11]

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 原田2007,83頁
  2. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「朶爾直班字惟中、木華黎七世孫。祖曰碩徳、父曰別理哥帖木爾。朶爾直班甫晬而孤、育于従祖母。拝住、従父也、請于仁宗、降璽書護其家。稍長、好読書。年十四、見文宗、適将幸上都、親閲御衣、命録于簿、顧左右無能書漢字者、朶爾直班引筆書之。文宗喜曰『世臣之家乃能知学、豈易得哉』。命為尚衣奉御、尋授工部郎中」
  3. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「元統元年、擢監察御史。首上疏、請親祀宗廟、赦命不宜数。又陳時政五事、其一曰『太史言三月癸卯望月食既、四月戊午朔、日又食。皇上宜奮乾綱、修刑政、疏遠邪佞、顓任忠良、庶可消弭災変以為禎祥』。二曰『親祀郊廟』。三曰『博選勲旧世臣之子、端謹正直之人、前後輔導、使嬉戯之事不接于目、俚俗之言不及于耳、則聖徳日新矣』。四曰『枢機之臣固宜尊寵、然必賞罰公、則民心服』。五曰『弭安盗賊、振救饑民』。是時日月薄蝕、烈風暴作、河北・山東旱蝗為災、乃復条陳九事上之、一曰『比日倖門漸啓、刑罰漸差、無功者覬覦希賞、有罪者僥倖求免。恐刑政漸隳、紀綱漸紊、労臣何以示勧、姦臣無所警懼』。二曰『天下之財皆出于民、民竭其力以佐公上、而用猶不足、則嗟怨之気上干陰陽之和、水旱災変所由生也。宜顓命中書省官二員督責戸部詳定減省、罷不急之工役、止無名之賞賜』。三曰『禁中常作仏事、権宜停止』。四曰『官府日増、選法愈敝、宜省冗員』。五曰『均公田』。六曰『鋳銭幣』。七曰『罷山東田賦総管府』。八曰『蠲河南自実田糧』。九曰『禁取姫妾于海外』」
  4. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「正月元日、朝賀大明殿、朶爾直班当糾正班次、即上言『百官踰越班制者、当同失儀論、以懲不敬』。先是、教坊官位在百官後、御史大夫撒迪伝旨俾入正班、朶爾直班執不可。撒迪曰『御史不奉詔耶』。朶爾直班曰『事不可行、大夫宜覆奏可也』。西僧為仏事内廷、酔酒失火、朶爾直班劾其不守戒律、延焼宮殿、震驚九重。撒迪伝旨免其罪、朶爾直班又執不可、一日間伝旨者八、乃已。丞相伯顔・御史大夫唐其勢二家家奴怙勢為民害、朶爾直班巡歴至漷州、悉捕其人致于法、民大悦。及還、唐其勢怒曰『御史不礼我已甚、辱我家人、我何面目見人耶』。答曰『朶爾直班知奉法而已、它不知也』。唐其勢従子馬馬沙為欽察親軍指揮使、恣横不法、朶爾直班劾奏之。馬馬沙因集無頼子欲加害、会唐其勢被誅乃罷。遷太府監、改奎章閣学士院供奉学士、進承制学士、皆兼経筵官、又陞侍書学士・同知経筵事。是時朶爾直班甫弱冠、又世家子、乃独以経術侍帝左右、世以為盛事」
  5. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「至正元年、罷学士院、除翰林学士、陞資善大夫。於是経筵亦帰翰林、仍命朶爾直班知経筵事。是時康里巎巎以翰林学士承旨亦在経筵、在上前敷陳経義、朶爾直班則為翻訳、曲尽其意、多所啓沃、禁中語秘不伝。俄遷大宗正府也可札魯火赤、聴訟之際、引諭律令、曲当事情。有同僚年老者、歎曰『吾居是官四十年、見公論事殆神人也』。宗王有殺其大母者、朶爾直班与同僚抜実力請于朝、必正其罪、時相難之。出為淮東粛政廉訪使。遷江南行台治書侍御史、未行、又遷江西行省左丞、以疾不赴。北還、養疾黄厓山中。起為資正院使」
  6. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「五年、拝中書参知政事・同知経筵事、提調宣文閣。時纂集至正条格、朶爾直班以謂是書上有祖宗制誥、安得独称今日年号。又律中条格乃其一門耳、安可独以為書名。時相不能従、唯除制誥而已。有以善音楽得幸者、有旨用為崇文監丞。朶爾直班它擬一人以聞。帝怒曰『選法尽由中書省耶』。朶爾直班頓首曰『用倖人居清選、臣恐後世議陛下。今選他人、臣之罪也、省臣無与焉』。帝乃悦。陞右丞、尋拝御史中丞。監察御史劾奏別児怯不花、章甫上、黜御史大夫懿憐真班為江浙行省平章政事。朶爾直班曰『若此則台綱安在』。乃再上章劾奏、併留大夫、不允。台臣皆上印綬辞職。帝諭朶爾直班曰『汝其毋辞』。対曰『憲綱隳矣、臣安得独留』。帝為之出涕。朶爾直班即杜門謝賓客」
  7. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「尋出為遼陽行省平章政事、階栄禄大夫。至官、詢民所疾苦、知米粟羊豕薪炭諸貨皆藉郷民販負入城、而貴室僮奴・公府隷卒争強買之、僅酬其半直。又其俗編柳為斗、大小不一、豪賈猾儈得以高下其手、民咸病之。即飭有司厲防禁、斉称量、諸物乃畢集而価自平。又存恤孤老、平準銭法、清銓選、汰胥吏、慎勾稽、興廃墜、鉅細畢挙。苟有罪、雖勲旧不貸。王邸百司聞風悚懼。召為太常礼儀院使、俄遷中政使、又遷資正使」
  8. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「会盗起河南、帝憂之。拝中書平章政事、階光禄大夫。首言『治国之道綱常為重。前西台御史張桓伏節死義、不汚于寇、宜首旌之、以勧来者』。又言『宜守荊襄・湖広以絶後患』。又数論『祖宗之用兵匪専于殺人、蓋必有其道焉、今倡乱者止数人、顧乃尽坐中華之民為畔逆、豈足以服人心』。其言頗迕丞相脱脱意。時脱脱倚信左司郎中汝中柏・員外郎伯帖木児、故両人因擅権用事、而朶爾直班正色立朝無所附麗。適陝州危急、因出為陝西行台御史大夫。行至中途、聞商州陥、武関不守、即軽騎晝夜兼程至奉元、而賊已至鴻門。吏白涓日署事、不許、曰『賊勢若此、尚何顧陰陽拘忌哉』。即就署。省・台素以挙措為嫌、不相聚論事。朶爾直班曰『多事如此、悪得以常例論』。乃与行省平章朶朶約五日一会集。尋有旨、命与朶朶便宜同討賊、即督諸軍復商州。乃修築奉元城塁。募民為兵、出庫所蔵銀為大銭、射而中的者賞之。由是人皆為精兵。金・商義兵以獣皮為矢房、状如瓠、号毛葫蘆軍、甚精鋭、列其功以聞、賜勅書褒奨之、由是其軍遂盛、而国家獲其用。金州由興元・鳳翔達奉元、道里迴遠、乃開義穀、創置七駅、路近以便」
  9. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「時御史大夫也先帖木児師敗于河南、西台御史蒙古魯海牙・范文等十二人劾奏之。朶爾直班当署字、顧謂左右曰『吾其為平章湖広矣』。未幾命下、果然。也先帖木児者、脱脱之弟、章既上、脱脱怒、故左遷朶爾直班、而御史十二人皆見黜。関中人遮道涕泣曰『生我者公也、何遽去我而不留乎』。朶爾直班慰遣之、不聴、乃従間道得出。至重慶、聞江陵陥、道路阻不可行、或請少留以竢之、不従、期必達乃已」
  10. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「湖広行省時権治澧州、既至、律諸軍以法、而授納粟者以官、人心翕然。汝中柏・伯帖木児言于丞相曰『不殺朶爾直班、則丞相終不安』。蓋謂其帝意所眷属、必復用耳。乃命朶爾直班職専供給軍食。時官廩所儲無幾、即延州民有粟者、親予酒諭勧之而貸其粟、約竢朝廷頒鈔至即還以直、民無不従者。又遣官糴粟河南・四川之境、民聞其名、争輸粟以助軍餉。右丞伯顔不花方総兵、承順風旨、数侵辱之。朶爾直班不為動。会官軍復武昌、至蘄・黄。伯顔不花百計徴索、無不給之、猶欲言其供需失期。達剌罕軍帥王不花奮言曰『平章国之貴臣、今坐不重茵、食無珍味、徒為我曹軍食耳。今百需立辦、顧猶欲誣之、是無人心也。我曹便当散還郷里矣』。脱脱遣国子助教完者至軍中、風使害之。完者至、則反加敬礼、語人曰『平章勲旧之家、国之祥瑞、吾苟傷之、則人将不食吾餘矣』。朶爾直班素有風疾、軍中感霧露、所患日劇、遂卒于黄州蘭渓駅、年四十」
  11. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「朶爾直班立朝、以扶持名教為己任、薦抜人才而不以為私恩。留心経術、凡伊・洛諸儒之書、未嘗去手。喜為五言詩、字画尤精。翰林学士承旨臨川危素、嘗客于朶爾直班、諫之曰『明公之学、当務安国家・利社稷、毋為留神于末藝』。朶爾直班深服其言。其在経筵、開陳大義為多。間采前賢遺言、各以類次、為書凡四巻、一曰学本、二曰君道、三曰臣職、四曰国政。明道・厚倫・制行・稽古・遊藝、五者学本之目也。敬天・愛民・知人・納諫・治内、五者君道之目也。宰輔・台察・守令・将帥・暬御、五者臣職之目也。興学・訓農・理財・審刑・議兵、五者国政之目也。帝覧而善之、賜名曰治原通訓、蔵于宣文閣。二子鉄固思帖木而・篤堅帖木而」

参考文献[編集]

  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』汲古書院、2007年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年