デニア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デニア王国

طائفة دانية
1010年–1227年
1037年頃のデニア王国
1037年頃のデニア王国
首都 デニア
共通語 アラビア語, モサラベ語, ヘブライ語
宗教
イスラム教, キリスト教 (カトリック教会), ユダヤ教
統治体制 君主制
時代 中世
• 後ウマイヤ朝
から分離
1010年
• サラゴサ王国
の支配下
/トゥルトーザ王国
の支配下
/ムラービト朝
の支配下
1076年
–1081年
/ 1081年
–1092年
/ 1092年
–1224年
• アラゴン王国
による征服
1227年
通貨 ディルハムディナール
先行
継承
後ウマイヤ朝
アラゴン王国
サラゴサ王国
トゥルトーザ王国
マヨルカ王国
ムラービト朝
現在 スペイン

デニア王国アラビア語: طائفة دانية‎)は、中世スペインムーア人王国タイファのひとつであり、デニアを首都とし、主にバレンシア沿岸の一部とバレアレス諸島イビサ島を支配していた。

歴史[編集]

タイファ・デニアは、後ウマイヤ朝が分裂状態に陥った1010年に、王朝の元高官でサカーリバの解放奴隷出身のムジャーヒド・アル=アーミリー(Mujāhid al-ʿĀmirī)によって建国された。1011年、デニアはタイファとしては初めて貨幣を鋳造した。デニアには比較的強力な海軍があり、1015年にはそれを用いてバレアレス諸島を征服し、さらにそこからサルデーニャ島への軍事作戦英語版も行った。タイファは島の北部に1年間軍事拠点を置き、ピサ共和国に対する攻撃の拠点としたが、ピサとジェノヴァ共和国の艦隊に逆襲され占領された。

ムジャーヒドの息子のアリ・イクバル・アル=ダウラは捕虜となり、長期間キリスト教国で人質として過ごした。その間、タイファの船はリグリアトスカーナの沿岸に対して何回かの襲撃を行った。

1020年代、ムジャーヒドはバランシア王国の摂政の死に乗じて、バランシア南部を占領して2年間保持した。数年後、彼はムルシア王国のイブン・タヒールに対するイブン・ジャタブの反乱を支援した。バランシアでアブダルアジズ・イブ・アミールが王になった後、ムジャーヒドはムルシア、ロルカオリウエラエルチェを征服し、勢力をセグラ川まで広げた。その後、サラゴサのスライマン・イブン・フッド(Sulaymán ibn Hud)の仲介によって、1041年にバランシアと和平を結んだ。

後ウマイヤ朝末期の事実上の統治者だったアルマンソール(Al-Mansur Ibn Abi Aamir)の宮廷で教育を受けたムジャーヒドは、知識人、特に後ウマイヤ朝末期の混乱から避難した作家やウラマーたちを保護していた。また、デニアのキリスト教徒のコミュニティを保護して忠誠を得た。ユダヤ人の商人コミュニティとも協力した[1]

ムジャーヒド・アル・ムワファクは1045年に亡くなり、彼とキリスト教徒の母親の間に生まれた息子であるアリ・イクバル・アル=ダウラが後を継いだ。彼はデニアに拠点を置く大規模な商船隊に支えられて、平和と繁栄の時代を保った。父親の覇業の遺産を30年間維持することができた。しかし1050年にバレアレス諸島の太守、アブダッラー・イブン・アグラブが諸島部で自立した。以後、デニアの勢力は、1076年にタイファのサラゴサ王国によって征服されるまで、イベリア半島本土に限定されたままだった。バレアレス諸島のマヨルカ島タイファは1116年まで独立を維持していた。

王(エミール)の一覧[編集]

アミール朝[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ Bruce, Travis (2018-05-04). “The taifa of Denia and the Jewish networks of the medieval Mediterranean: a study of the Cairo Geniza and other documents” (英語). Journal of Medieval Iberian Studies 10 (2): 147–166. doi:10.1080/17546559.2017.1409903. ISSN 1754-6559.