ゾフィー・フォン・ザクセン (1587-1635)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゾフィー・フォン・ザクセン
Sophie von Sachsen

出生 (1587-04-29) 1587年4月29日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
死去 (1635-12-09) 1635年12月9日(48歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ポメラニア公領シュチェチン
配偶者 ポメラニア公フランツ
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ザクセン選帝侯クリスティアン1世
母親 ゾフィー・フォン・ブランデンブルク
テンプレートを表示

ゾフィー・フォン・ザクセンドイツ語:Sophie von Sachsen, 1587年4月29日 - 1635年12月9日)は、ポメラニア=シュチェチン公フランツの妃。

生涯[編集]

ゾフィーは、ザクセン選帝侯クリスティアン1世(1560年 - 1591年)とブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘ゾフィー(1568年 - 1622年)との間に生まれた娘である。

1610年8月26日にドレスデンポメラニア=シュチェチン公フランツ(1577年 - 1620年)と結婚した。この結婚からは子供は生まれなかった。フランツの死後、ゾフィーは寡婦財産としてヴォリンを受け取り、三十年戦争の困難な時期にこの地を統治した[1]。ヴォリン城はかなり荒廃していたため、1622年から1626年にかけてゾフィーはヴォリンに新しい居城を建てさせた[1]

ゾフィーの死後、ヴォリンはポメラニア公ボギスラフ14世に戻された。しかし、スウェーデンはザクセンと戦争中であり、スウェーデンはゾフィーをザクセン選帝侯家の一員とみなしたため、家具や穀物在庫などのすべての動産はスウェーデン軍に没収された[1]

ゾフィーは当初シュチェチンの公爵家の地下霊廟に埋葬されたが、1650年に遺体はドレスデンのゾフィー教会に移された[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Berghaus 1867, p. 615.
  2. ^ Ute Essegern. “Sophia (Sophie) von Sachsen”. Sächsische Biografie. http://saebi.isgv.de/pnd/120152126 

参考文献[編集]

  • Berghaus, Heinrich (1867). Landbuch des Herzogthums Pommern und des Fürstenthums Rügen, part 3. vol. 1. Anklam: W. Dietze. p. 615. https://books.google.com/books?id=gtQAAAAAcAAJ&pg=PA615 
  • Essegern, Ute (2006). “=Keine Totenruhe für Sophia von Sachsen in Stettin. Pommern, Sachsen und Schweden im Streit um das Erbe”. Pommern. Zeitschrift für Kultur und Geschichte vol. 44 (issue 2): 18–25. ISSN 0032-4167. 
  • Weiße, Christian Ernst (1808). Neueste Geschichte des Königreichs Sachsen seit dem Prager Frieden bis auf unsere Zeiten. vol. 1. Leipzig: Hinrichs. p. 59 ff. https://books.google.com/books?id=uYgAAAAAcAAJ&pg=PA59 
  • Ute Essegern. “Sophia (Sophie) von Sachsen”. Sächsische Biografie. http://saebi.isgv.de/pnd/120152126 , published by the Institut für Sächsische Geschichte und Volkskunde, edited by Martina Schattkowsky.

外部リンク[編集]