スカリエッティ・コルベット
スカリエッティ・コルベット(Scaglietti Corvette)は、1959年にテキサス出身の3人のアメリカ人が製作したスポーツカーである。シボレー・コルベットの車台とイタリアのスカリエッティ・カロッツェリアがデザインしたボディを組み合わせたプロトタイプが3台製作された。
スカリエッティ・コルベット Scaglietti Corvette | |
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#3(ピーターセン博物館所蔵) | |
#2(2012年撮影) | |
概要 | |
製造国 |
アメリカ合衆国 イタリア |
設計統括 |
ゲイリー・ラフリン ジム・ホール キャロル・シェルビー |
デザイン | スカリエッティ・カロッツェリア |
ボディ | |
乗車定員 | 2 名 |
ボディタイプ | 2ドア クーペ |
エンジン位置 | フロント |
駆動方式 | 後輪駆動 |
パワートレイン | |
エンジン | シボレー・スモールブロック 283cui(4,639cc) V型8気筒 OHV |
最高出力 | 287~315ps |
変速機 |
4速MT 2速AT |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,591mm |
車両重量 | 1,179kg |
その他 | |
製造年 | 1959年 |
生産台数 | 3台 |
製作までの経緯
[編集]発案
[編集]テキサス州フォートワースで石油採掘業とシボレーのディーラーを営むゲイリー・ラフリンは、愛車フェラーリ・モンツァでアマチュアレースを楽しんでいたが、1957年のあるときクランクシャフトの破損に見舞われた。故障するたびに部品調達に要する時間や高額な修理費に辟易していた彼は、イタリアの優美なボディをシボレー・コルベットC-1に載せるアイデアを思い付く。コルベットの走行性能はフェラーリに遠く及ばないものの、エンジンや車台の信頼性は絶大であった。
ラフリンは同じテキサス出身でレース仲間のジム・ホールとキャロル・シェルビーを誘いプロジェクトをスタートした[1]。特にシェルビーはフェラーリに対して並ならぬライバル意識を持っており、最速の国産スポーツカーを作りたいという野心があった。
スカリエッティとの交渉
[編集]ボディのデザインおよび製作は、フェラーリと提携するイタリアのコーチビルダー、スカリエッティ・カロッツェリアが選ばれた。ラフリンはイタリアに住むロード&トラック誌のアメリカ人自動車ジャーナリストのピーター・コルトリンにスカリエッティとの仲介役を依頼し[2]、その後スカリエッティの工房を訪れ契約を交わした。
シェルビーはGMチーフマネージャーのエド・コールの助けを借りて、ボディが架装されていない3台の1959年型シボレー・コルベットをラフリンのディーラーに納品しイタリアに輸送した[3][4]。数ヶ月で完成する予定だったが、1年半が過ぎた1960年の秋にようやく1台が戻ってきた。プロジェクト開始から既に3年が過ぎていた。
「コルベット・イタリア」と呼ばれたこの試作1号車は、コルベットの生みの親でもあるGM副社長兼スタイリング部門責任者のハーリー・アールとチーフマネージャーのエド・コールに披露されるが、2人とも大変気に入ったようだった。この車でアストンマーチンやメルセデス、マセラティなどの高級スポーツカー市場に参入すれば、欧州のエキゾチックなデザインに憧れながらも信頼性や整備性に優れるアメリカ車を好む一部の富裕層をターゲットに出来ると彼らは期待した[5]。
あとの2台はさらに6ヶ月後に到着した。フロントウィンドシールドは無くインテリアも未完成の状態だったが、スカリエッティとの契約はアルミボディの製作までだったとされている[6]。
プロジェクトの結末
[編集]計画の行方
[編集]プロジェクトはGM上層部やエンツォ・フェラーリに気付かれないよう公にせずに進められた。しかし当時スカリエッティの工房を頻繁に訪れていたエンツォは見慣れない車に気が付き、スカリエッティから経緯を聞くと「4台目を作ったら次の仕事はないと思え」と言って工房を出て行ったという[7]。
一方プロジェクトを知ったGM経営陣はエド・コールを叱責し、直ちに中止するよう命じた。GMが誇るアメリカ唯一のスポーツカー(1959年当時)のコルベットに競合車など必要ないという考えと、83名の死者を出した1955年ル・マン耐久レースの事故の影響で各自動車メーカーがモータースポーツ活動を停止していたためであった。
コールから報告を受けたシェルビーはすっかり失望し、他の2人と違って裕福でもなかったので車の受け取りを放棄し売却してしまった[8]。GMに見切りをつけた彼は、イギリスのACカーズとフォード製エンジンを組み合わせたACコブラで成功を収め、次のフォードGT40でル・マンに参戦しついにフェラーリを制することになる。しかしながらシェルビーはACカーズのアルミボディを「酔っ払いがビール缶で作ったような車だ」と表現しており、イタリアの優秀なコーチビルダーに未練があったようである。
3台の試作車
[編集]車は1961年の『ロード&トラック』で紹介され、『Car Life』誌の表紙を飾った[9]。
アルミボディは全て手作りのため3台とも細部の仕上がりが若干異なる。FRPボディのコルベットより約180キロも軽くなったが、軽量化が災いして運転したことがある何人かは「急加速をするとノーズが危険なほどに浮き上がりそうだった」と話している。足回りは全く手を加えておらずフェラーリには到底敵わぬ性能だった。
ラフリン用の1号車はボディとインテリア共に赤で仕上げられた[10]。他の2台よりもボディの丸みが強く、フロントグリルとシフトノブにコルベットの純正品を使用している。これはGM上層部のご機嫌を取るだったと言われている[11]。4.6リッターのスモールブロックV8エンジンには機械式インジェクションと4速マニュアル変速機が備わる。ラフリンは2年間ほど所有したあとオークションに出品し、次のオーナーは26年間も所有した。1990年代には日本人のコレクションに加わったこともあった。現在はシカゴのコレクターが所有している[12]。
ジム・ホール用の2号車はメタリックブルーで塗装されインテリアは赤で仕上げられている。4バレルツインキャブと2速オートマチック変速機を搭載。現在のオーナーは実業家のビル・マリオットと見られる(2023年現在)[13]。
キャロル・シェルビー用の3号車はイタリアンレッドのボディでインテリアは黄褐色となっている。吸気装置と変速機は2号車と同じ。シェルビーは車を受け取らないまま売却し、幾人かの手に渡ったあと現在はロサンゼルスのピーターセン博物館が所蔵している。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月24日閲覧。
- ^ “Scaglietti Corvettes: Italian Twist on America’s Sports Car” (英語). Revs Automedia (2020年1月6日). 2024年8月19日閲覧。
- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月18日閲覧。
- ^ “Scaglietti Corvettes: Italian Twist on America’s Sports Car” (英語). Revs Automedia (2020年1月6日). 2024年8月22日閲覧。
- ^ “1959 Chevrolet Corvette Italia by Scaglietti” (英語). Petersen Automotive Museum. 2024年8月23日閲覧。
- ^ “Scaglietti Corvettes: Italian Twist on America’s Sports Car” (英語). Revs Automedia (2020年1月6日). 2024年8月18日閲覧。
- ^ “1959 Scaglietti Corvettes: American Muscle in Italian Suits”. www.linkedin.com. 2024年8月26日閲覧。
- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月18日閲覧。
- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月24日閲覧。
- ^ “1959 Scaglietti Corvettes: American Muscle in Italian Suits”. www.linkedin.com. 2024年8月26日閲覧。
- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月18日閲覧。
- ^ “CHEVROLET CORVETTE BY SCAGLIETTI – Tomini Classics”. tominiclassics.com. 2024年8月24日閲覧。
- ^ “COACHBUILD.COM - Scaglietti Corvette 1959”. www.coachbuild.com. 2024年8月26日閲覧。