ジョン・クルー (初代クルー男爵、1742-1829)

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ポンペオ・バトーニによる肖像画、1760年。

初代クルー男爵ジョン・クルー英語: John Crewe, 1st Baron Crewe1742年9月27日1829年4月28日)は、イギリスの政治家、貴族。1765年から1802年まで庶民院議員を務めた[1]1782年議会法(通称「クルー法」)を推進、可決させたことで知られる[1]

生涯[編集]

初代クルー男爵、1811年ごろのエングレービング、原作トーマス・ローレンス

庶民院議員ジョン・クルー(1752年9月18日没、ジョン・クルーの息子)と妻エリザベス(Elizabeth、旧姓シャトルワース(Shuttleworth)、リチャード・シャトルワース英語版の娘)の長男として、1742年9月27日に生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版で洗礼を受けた[1]ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1760年2月19日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学したが[3]、学位は修得しなかった[4]。1761年から1763年までグランドツアーに出て、フランスとイタリアを旅した[4]

1764年にチェシャー州長官英語版を務めた後[1]、1765年3月にスタッフォード選挙区英語版の補欠選挙に出馬して、177票で当選した[5]。この当選は友人ヒューゴ・メイネル英語版の支持を受けた結果とされる[6]1768年イギリス総選挙ではチェシャー選挙区英語版に鞍替えして再選、以降1774年1780年1784年1790年1796年の総選挙で再選した[7][8]

議会入りから1784年までの採決では概ね友人の第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイに追随したが、1765年から1774年までの投票記録は1回だけだった[6]。1775年10月にアメリカ独立戦争をめぐりグラフトン公爵が野党に転じると、クルーも同じく野党に転じ、以降ノース内閣(1770年 – 1782年)が倒れるまで野党にとどまった[6]。ノース内閣末期には関税庁英語版郵政省英語版など歳入部門の官僚の投票権を取り上げる改革に取り組むようになり、1780年、1781年、1782年の3度にわたって議案を提出した[6]。この3度目の提出は可決されて1782年議会法(通称「クルー法」(Crewe's Act))になり、ロッキンガム侯爵内閣(1782年)に行われた改革の1つとなった[4]

シェルバーン伯爵内閣期(1782年 – 1783年)では支持を取りつけようとした首相第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティに対し、グラフトン公爵はクルーがグレートブリテン貴族への叙爵を目指し、どのような内閣においても官職に就任しないだろうという見解を示したが、シェルバーン伯爵にクルーと直接会うよう助言した[6]。その後、クルーは同内閣期に対米戦争の予備講和条約に賛成票を投じ、続くフォックス=ノース連立内閣(1782年 – 1783年)でチャールズ・ジェームズ・フォックスが提出した東インド法案にも賛成票を投じた[6]

フォックスはクルーの政界における主な盟友の1人であり、ホレス・ウォルポールによればクルーは1773年にはフォックスの借金返済に毎年1,200ポンドを支払っていた[6]。フォックス=ノース連立内閣が1783年末に崩壊する前には年12,000ポンドを支払ったとされた[4]。クルーは連立内閣が崩壊した後もフォックス派にとどまり[6]フランス革命をめぐりエドマンド・バークポートランド公爵派ホイッグ党がフォックスと距離を置いた後は政治ではフォックス派にとどまりつつ私的にはバークらとの友人関係を維持した[2]。1790年代にも概ね野党の一員として行動、フォックス派が1797年より議会欠席戦術をとったときもそれに従った[2]。1801年末より引退を検討、1802年イギリス総選挙をもって議員を退任した[2]

1806年2月25日に連合王国貴族であるチェシャーにおけるクルーのクルー男爵に叙された[1]。フォックスは1784年2月にもクルーを首相に就任した暁での叙爵リストに含めており[6]、1806年の挙国人材内閣英語版成立でフォックスが入閣して、ようやく叙爵が実現したのであった[2]。クルーが貴族院で演説した記録はなかったが、引き続きホイッグ党に属した[4]

1829年4月28日にロンドンのグローヴナー・ストリート(Grosvenor Street)にある自宅で死去[4]、息子ジョンが爵位を継承した[1]

家族[編集]

フランシス・アン・クルー英語版の肖像画。トマス・ゲインズバラ画、1788年以前。

1766年4月4日、フランシス・アン・グレヴィル英語版(1818年12月23日没、フルク・グレヴィル英語版と妻フランシス英語版の娘)と結婚[1]、2男2女をもうけた[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 535.
  2. ^ a b c d e f Fisher, David R. (1986). "CREWE, John (1742-1829), of Crewe Hall, Cheshire.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧
  3. ^ Foster, Joseph (1888–1892). "Crewe, John (3)" . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 1. Oxford: Parker and Co. p. 317. ウィキソースより。
  4. ^ a b c d e f Davis, R. W. (23 September 2004). "Crewe, John, first Baron Crewe". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/6691 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ Brooke, John (1964). "Stafford". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i Drummond, Mary M. (1964). "CREWE, John (1742-1829), of Crewe Hall, Cheshire". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧
  7. ^ Brooke, John (1964). "Cheshire". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧
  8. ^ Fisher, David R. (1986). "Cheshire". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧
  9. ^ "Miss Emma Crewe and Miss Elizabeth Crewe". Yale Center for British Art (英語). 2022年3月12日閲覧
  10. ^ Escott, Margaret (2009). "CUNLIFFE OFFLEY, Foster (1782-1832), of Madeley Manor, Staffs. and Lower Grosvenor Street, Mdx.". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年3月12日閲覧

外部リンク[編集]

グレートブリテン議会英語版
先代
ウォルター・チェットウィンド英語版
ウィリアム・リチャード・チェットウィンド閣下
庶民院議員(スタッフォード選挙区英語版選出)
1765年 – 1768年
同職:チェットウィンド子爵英語版
次代
チェットウィンド子爵英語版
リチャード・ウィットワース英語版
先代
トマス・チャムリー(父)
サミュエル・エジャートン英語版
庶民院議員(チェシャー選挙区英語版選出)
1768年1800年
同職:サミュエル・エジャートン英語版 1768年 – 1780年
サー・ロバート・ソールズベリー・コットン準男爵英語版 1780年 – 1796年
トマス・チャムリー(子) 1796年 – 1800年
次代
連合王国議会
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
グレートブリテン議会
庶民院議員(チェシャー選挙区英語版選出)
1801年1802年
同職:トマス・チャムリー(子)
次代
ウィリアム・エジャートン英語版
トマス・チャムリー(子)
イギリスの爵位
爵位創設 クルー男爵
1806年 – 1829年
次代
ジョン・クルー