ジャン・スタス

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ジャン・セルヴェ・スタス
ジャン・スタス (1894年)
生誕 1813年8月13日
ベルギーの旗 ベルギー ルーヴェン
死没 1891年12月13日(1891-12-13)(78歳)
ベルギーの旗 ベルギー ブリュッセル
国籍 ベルギー
研究分野 化学
主な業績 原子量の精密な測定
法化学
影響を
受けた人物
ジャン=バティスト・デュマ
主な受賞歴 デービーメダル (1885)
署名
プロジェクト:人物伝
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ジャン・セルヴェ・スタス(Jean Servais Stas, 1813年8月21日1891年12月13日[1])はベルギーの化学者である。原子量の精密な測定の業績で知られる。

生涯[編集]

ベルギーのルーヴェンに生まれた[1]。当初はルーヴェン国立大学英語版で医師を目指していたが、後に化学に転向し、フランスパリエコール・ポリテクニーク(理工科学校)で、ジャン=バティスト・デュマの指導の下、研究を行った[1]。スタスとデュマは不純物を含まない純粋な化合物を、純酸素中で燃焼させ、発生した二酸化炭素の重要を測定することにより、炭素原子量を測定した。

1840年、スタスはブリュッセルベルギー王立陸軍士官学校英語版[訳語疑問点]の教授に就任した。スタスはここで酸素の原子量の16を基準として、より正確に元素の原子量を決定する研究を行った。スタスはこの研究で国際的な名声を得た。この研究の結果は、イギリスのウィリアム・プラウトが提唱していた、「全ての原子量は水素の原子量の整数倍であり、水素原子が他の原子の構成単位である」とするプラウトの仮説を覆すこととなった。スタスの慎重で精密な原子量測定の結果は、ドミトリー・メンデレーエフらの元素の周期性の研究に貢献した。また、1774年アントワーヌ・ラヴォアジエによって提唱された質量保存の法則が厳密に成立していることを支持した。

スタスの研究は他にも、リンゴ根皮からフロリジンを発見、アルカロイド検出法を開発するなどの業績がある[2]1869年、喉の病気による声の不調のため引退し、造幣局通貨部長となったが、政府の金融政策に反対して1872年に辞任した。1891年にブリュッセルで亡くなり、ルーヴェンに埋葬された。

受賞と名誉[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c Morley, Edward W. (1892-09). “JEAN SERVAIS STAS.” (英語). Journal of the American Chemical Society 14 (7): 173–189. doi:10.1021/ja02123a012. ISSN 0002-7863. https://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ja02123a012. 
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “スタス(すたす)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年9月7日閲覧。

参考文献[編集]